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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

信仰崇拝、後悔懺悔

作者: ぐるぐる

多分メリバ寄りです。


 善人か悪人か。この二つに振り分けるのなら、グラスコット侯爵家当主アルフォルト・レシェンナは悪人だろう。床に座り込んだ身体を騎士に拘束され、屋敷中を荒らされる光景を見つめながらフィオナは思う。

 決して自らの手を汚すことはしなかった。アルフォルト・レシェンナがしたことと言えば、甘言を囁いてみたり、道外れた方を示してみたり、誘導してみたりと、どれもが決定打に欠けていた。

 だがその一方で、アルフォルトの行動で国が荒んだのは事実だ。

 水面下で行われた人身売買。

 他家の領地運営等への妨害。

 国中に仕掛けられた甘い罠。

 結果として、王族や高位貴族を始めとした国の中枢機関は一時的に衰退した。国力は退化し、治安は著しく悪化した。犯罪が蔓延り、漂う空気さえもが荒んだほどだ。

 けれど。

「グラスコット侯爵夫人」

 アルフォルト・レシェンナは悪いだけの人ではない。少なくとも、フィオナにとっては。

 地面を見つめるフィオナの視界に黒い爪先が入り込む。靴だ。

「……あら、いかがいたしまして?」

 騎士の物ではない。僅かながら装飾が施された上品な顔付きをした革靴が、騎士の物であるはずがなかった。

 貴族、力ある役人、執行官。いくつかの可能性を思い浮かべながらフィオナが顔を上げる。

「――法制局長官、エリオット・ヴェスエラン様」

 厄介な人物が来たな。フィオナは素直にそう思った。即座に隙のない淑女の微笑みを携える。能面のような微笑みを見てエリオットは眉を寄せた。

「貴女にお尋ねしたいことがある。ご同行頂けますね」

 エリオット・ヴェスエランは、ポートミラ前伯爵の次男だ。代々有力騎士を輩出してきた名家に生まれながら、早々に文官の道に進むことを決め、そして瞬く間に頭角を現した。武闘派ではなく頭脳派の男だ。

 フィオナは唇を縫い合わせた。無言でエリオットを見上げる。鮮やかな青空のような色をした目と視線が絡んだ。

「……この状況で無言を選択するのは賢くないですよ、夫人」

 そうだろうか。フィオナは内心首を傾げる。そしてまた内心で首を振った。

 これが、この無言が最善だ。

「もしグラスコット侯爵が助けに来ると思っているのなら、その考えは改めた方がよろしい。ヤツは来ない」

 エリオットが一歩距離を詰める。フィオナに近付いた。足音など一つも存在しない一歩分の距離と時間だった。音という音、気配という気配が息絶えている。

 だがそれは、二人の間だけの話だ。その証拠に、屋敷の中はいくつもの足音と怒号、物音が乱立している。物騒な気配に屋敷全体が軋んでいた。

「グラスコット侯爵は教唆犯として、王家主導の下、現在身柄を法制局で預かっています。この意味が分かりますね?」

 フィオナは無言を貫く。威圧する環境音など、まるで眼中になかった。

「グラスコット侯爵夫人フィオナ・レシェンナ殿」固い声でエリオットが続ける。「もう一度言います。この状況で無言を選択することは賢くない」

 滑らかな動きでエリオットが片膝を付く。フィオナは目を逸らさなかった。一度貼り付けた微笑みをそのまま保つ。

 ――たとえ賢くなくとも、これが最善。

 フィオナは鮮やかな青空色をひたすらに見つめ返した。

「っ、……そうですか。ならば、致し方ありませんね。……おい、連れて行くぞ」

 エリオットはフィオナの体を抱え込むように腕を掴み、腰に腕を回した。力を込める。そのまま細い体を持ち上げた。まるでエスコートをするように、エリオットはフィオナを馬車に乗せる。何の躊躇もなく相乗りをした。

 驚きに体を強張らせたフィオナの正面に座り、エリオットは御者に声を掛けた。

「出せ。丁寧に走るんだ」

 馬が鳴く。車輪が回る。馬車が動き出す。土に足跡を付けながら窓の外が移ろい始めた。息をひそめて、声を殺して、進む、進む。止まらない。

 運命の歯車が音を鳴らすなら、きっとこの馬車のように錆び付いた声をしている。微かに聞こえる走行音に意識を置きながら、フィオナは思った。瞼を下ろす。

 暗闇の中でフィオナが思い描けたのは、アルフォルト・レシェンナの姿だけだった。



  ◆



 暗がりの淵で声を聞く。

 ――やめるときも、すこやかなるときも、誓え。そうすれば、恐れることは何もなくなる。

 低い、男の声だ。命令することに慣れた声が、歪にやわらかく鼓膜を震わせる。優しくすることに慣れていない風貌だった。

 ――ほんとうに?

 ――本当に。

 一方で、返す声は頼りなかった。怯えと萎縮を諦観でコーティングした女の声が、か細く落ちている。

 ――嘘じゃなくて?

 ――嘘じゃないさ。

 ――どうして?

 幼い顔付きの声だった。愛も悪も、正道も外道も知らないような。藁にも縋る迷子の声だ。そんな声が再び落ちる。

 ――どうして、ほんとうをくださるの?

 一拍の間を置いて、男の声が空気を震わせた。

 ――俺が、本物をほしいからだよ。



  ◆



 意識が浮上する。フィオナが瞼を持ち上げたのと同時に声が掛かった。

「……夫人、到着しましたよ」

 窓の外を見る。フィオナは目を皿のように大きく見開いた。

 ――王城じゃない。

 法制局は王城に執務室と拘留場を独自に持っている。法制局が先頭を切って対応をするのなら、罪人を留め置く場所はそこ以外に選択はない。だから、アルフォルトの身柄を法制局が預かると言うことは、彼が置かれる場所は王城内のどこかということになる。

 つまり、アルフォルトの妻であるフィオナを留置する場所も、王城内のどこかになるはずなのだ。

 フィオナはエリオットに視線を投げつけた。目尻を吊り上げる。

「……法制局長官様。失礼ですが、場所をお間違えではなくて? ここは王城ではないわ。どなたかの屋敷よ」

 緊張を孕んだフィオナの声を聞き、エリオットは唇に冷笑を刻んだ。嘲りを声に出す。自嘲と屈辱、後悔が明確な形を造り出した。

「いいえ。何も、どこも間違っていませんよ。貴女が仰るように、ここは王城ではありません。私の屋敷です。そして、貴女を留置する場所でもあります」

 不意にエリオットが目を逸らす。フィオナから視線を外し、馬車のドアを見つめる。

 視線の先にあったのは無愛想な扉だ。小柄な草花の絵が彫られているが、それだけだった。荘厳さや華やかさを全て削いだような佇まいをしている。

 似合わないわね。フィオナは目を伏せた。一方で、エリオットが静かに立ち上がる。軽快にステップを下り、くるりと振り返った。恭しくフィオナに手を差し出す。

「意地を張っても構いませんが。その場合、貴女が最善だと思って選んだ選択が、全て無に返るだけですよ」

「……わたくしが目を開けていたら、到着先は王城になっていたのかしら?」

 エリオットは吐き捨てるように嗤った。

「ハッ……まさか。言ったでしょう? 何も、どこも間違っていない、とね」エリオットは間断なく続ける。「貴女が今ここにいるのは、目を閉じていたからではありません。グラスコット侯爵が罪を犯し、教唆犯として逮捕されたからです」

 冷たい声だった。現実を述べるエリオットの声は、敵意だけで武装されていた。

「ようこそ我が屋敷へ。グラスコット侯爵夫人?」

 何かを言う度に傷を増やす人だわ。差し出されたままの手を見てフィオナは思った。この人は、こんなに不器用で息苦しそうに生きる人だっただろうか。

 一瞬、沈黙が横たわる。緊張とも静寂とも呼べる空白の瞬間だった。

 緩慢なスピードでフィオナが首を傾げる。

「まあ……法制局長官様? お忘れのようで恐縮ですけれども。わたくし、実は後ろで手を縛られておりますの。法制局長官様のお手を取ることは出来ませんわ」

 クスリと笑う。フィオナは余裕の皮を被った。その裏で考える。

 情報が足りない。選択肢を増やすにも、選ぶにしても。手元のカードが少なすぎる。フィオナは声を殺して状況を読んだ。

 ――まだ、終われない。今じゃない。

「……失礼いたしました」

 エリオットは気まずそうに目を伏せた。降りきったはずのステップを再び上る。フィオナの横を通り過ぎ、後ろへ体を滑り込ませた。フィオナを拘束する縄を観察し、そして眉を寄せる。

 色白い手首を固定する縄の結び目が、見るからに頑丈だったからだ。

 下唇を噛む。

 目尻に力を込める。

 瞼を固く閉じる、開ける。

 ああ、どうして。痛みの残る唇をエリオットが動かす。

「……私としては貴女を抱えて移動したいのですが。いかがでしょうか」

 次の瞬間、馬車の中から音が消えた。

 何言ってるんだコイツ。フィオナはスンッとした。思わず平べったい目を披露する。その直後、淑女の微笑みを貼り直した。

「あら、急に耳が遠くなってしまったわ。失礼ですが、もう一度仰ってくださる?」

 エリオットは臆せず言った。

「貴女を抱えて移動していいですか?」

「いいわけないでしょ。何を言っているんですか貴方」

 間髪入れずにフィオナは切り捨てた。再び平べったい目になる。そのままエリオットに目を向けた。今度は淑女の微笑みを貼り直さなかった。

 この人こんなに難解な思考回路してたかな。フィオナはじぃっとエリオットを見る。

「即答はさすがに傷付きます」

「戯れはおよしになって。わたくしはアルフォルト様という旦那様がおりますの。ひらひらとした蝶でも、熱に浸るレディでもありません。下心のある人との接触は、当然気を付けてしかるべきですわ」

「……へえ? 下心?」可笑しそうにエリオットが続ける。「それはつまり……私が貴女に、ということですよね。私が貴女に対して邪な思いを抱いていると?」

 言いながら、エリオットの指がフィオナの手首を固定する縄を掴む。ざらついた縄の粗い表面を指先で辿る。流れるように色白い手首にまで指が伸びた。そっと、丁寧に触れる。体温が侵蝕する。

 フィオナは絶句した。侵蝕する温度に慈しみを垣間見て言葉が死んでいく。しかし、エリオットは止まらなかった。嗤う声が落ちる。

「素晴らしい。正解ですよ、()()()()()()()

 エリオットはフィオナの肩口に額を乗せた。常識や礼儀を全て投げ捨てた触れあいだった。紳士の気遣いなど、どこを探しても見つからない。

「私は貴女に下心がある。それも、恐らく貴女が想像するものとは何かが違う、重苦しくて生々しい下心がね」

 耳元で聞いた声にフィオナは身体を硬くした。全身に緊張が走る。心臓が激しい脈を打つ。焦燥が血流を乱暴に循環させた。

 上手く切り抜けなければ。フィオナは直感する。固唾を呑み込んだ。

「まあ……それは何故、と伺ってよろしいのかしら?」

「……子どもすぎたあの頃を後悔しているからだと、そう白状したら、貴女は笑いますか」

「いいえ」フィオナは間断なく答えた。ほとんど反射だった。「……笑いませんわ。だってもう、終わったことですもの」

 今度はエリオットが身体を硬くする番だった。身動いだエリオットに構わず、フィオナは言葉を零していく。

「あの日、あの時、あの瞬間。今となっては、全て過ぎ去った過去のこと。追い掛けることも、追い縋ることも叶わない昔日ですわ。それに……」

 昔。フィオナが伯爵令嬢で、エリオットが伯爵家次男だった頃。二人が婚約関係にあった時の話だ。エリオットに懸想した公爵令嬢がフィオナの家を潰そうとしたことがある。

 冤罪、詐欺、脅迫。執拗に繰り返される権威と力による暴力の日々。フィオナを始めとした伯爵家は日増しに疲弊していき、そして呆気なく崩壊した。ただの伯爵家が公爵家に対抗出来るはずがなかったからだ。周囲にことごとくそっぽを向かれてしまえば、尚のこと。

 そんな時だ。フィオナがアルフォルト・レシェンナと出会ったのは。

 ――拾って差し上げましょうか。

 強張った顔付きをしたあの声を、今も憶えている。服が汚れることも気にせず膝をつき、不慣れな様子で差し伸べられた手のひらも。

「……わたくしはもう、アルフォルト様の妻ですので」

 フィオナは立ち上がる。身体を寄せていたエリオットを引き剥がした。周囲が助けてくれないのなら、自分の手で対処しなければいけないからだ。

 呆然とするエリオットを置き去りに、フィオナは軽やかにステップを降りた。

「わたくしはグラスコット侯爵夫人フィオナ・レシェンナ。教唆犯として捕縛された、アルフォルト・レシェンナの妻」

 道徳に意味はない。倫理に興味はない。正義に価値はない。フィオナは身をもって知っている。心に刻んでいる。

 ――どんな愛にも清濁はある。

 フィオナは振り向いた。馬車の中から呆然とフィオナを見つめるエリオットに向けて、冷ややかに微笑む。

「やめるときも、すこやかなるときも――死ぬときも。わたくし、旦那様に誓ったのです」

 エリオットは叫んだ。

「貴女は……っ、このままでは、貴女も死んでしまうんですよ⁉」

 もはや悲鳴だった。悲痛な声を絞り出したエリオットを見て、フィオナが首を傾げる。

「ええ、そうですわね。それが?」

 フィオナは数回瞬きをした。幼い表情をさらす。心から不思議そうな面持ちだった。エリオットは息を呑む。

 今、気が付きたくない現実に触れている。そんな予感がエリオットにはあった。

 後ろ手に縛り上げた縄が、酷く目に付いた。

「まさか……わたくしに死にたくないから助けてと、そう泣き縋ってほしかったのかしら? それでしたらお生憎様。わたくしが貴方に助けを求めることなんて、死んでもしないわ」

「な、ぜ……」

「何故?」常識を説くようにフィオナが言葉を重ねる。「何故って……だって、貴方たちは絶対にわたくしを助けないでしょう。手を振り払われると分かっているのに助けを求めるなんて無駄なこと、絶対、何があってもしないわ」

 まるで温度を感じられない声にエリオットは硬直する。その様子を、フィオナは静かに見つめていた。

 だって、夢を見る時間は終わったのだ。

 フィオナはもう子どもではない。美しい世界や人の善性、温もり、優しさを信じられない。臓腑の裏を見透かそうと目を凝らしては、手繰り寄せた現実を見下すような人間だ。

 ――貴方が恋をした少女は息絶えたのよ。

 そして息を吹き返したフィオナ・レシェンナは明日死ぬ。愛の証明のために。

 フィオナは努めて優しく微笑んだ。

「ねえ、法制局長官様。わたくし、貴方との婚約が終わった際に一つ学んだことがございますの」

 エリオットの瞳がぐらぐらと揺れている。動揺と絶望を煮詰めたような目が、引き寄せられるようにフィオナを見た。

 高潔で、優しくて。そしてなんて、甘ったれた人だろう。フィオナの唇が魅惑的に動く。

「愛は痛いのよ」

 フィオナの薬指を飾る結婚指輪が、一瞬だけ鈍くきらめいた。



  ◆



 そもそも、事の発端はアルフォルトの気まぐれだ。その中に国を混乱の渦に落とすだとか、権力者たちを引きずり落とそうだとかは、微塵も存在しなかった。確実に存在していたのは、ただ何となく、それだけだった。

 水面下で行われた人身売買。他家の領地運営等への妨害。国中に仕掛けられた甘い罠。小さな誘導一つで国が荒んだのは、全てが結果論である。アルフォルトには本当に、国をどうしようとだなんて考えていなかったのだから。

 囁いた甘言。

 惑わす言葉。

 きっと、皆が皆、夢見るままに踊ったのだろう。国の中枢が甘い夢へ耽溺した果てに後退したことが、その証左だ。

 貴族が収容される牢の中、アルフォルトは自身の妻を思い浮かべた。愛の証明をしてあげると言って手を握り、傍に置き続けたフィオナの姿を。

 諦念の眼差し。諦観の相貌。観念した心。やがて、アルフォルトは嗤笑した。

「あーあ。やっぱりここには連れて来ないか」

 退屈そうな声が零れた。事実、アルフォルトは口を斜めに傾け、白けた顔をしている。罪人であると断じられたとは思えないほど、余裕のある振る舞いだった。

 不意に規則正しい足音が響く。どこか苛立ちを含んだ、神経質で甲高い足音だった。

「……ご機嫌いかがか、グラスコット侯爵」

 アルフォルトは肩を竦めた。白々しく笑顔を振りまく。

「ああ、ご機嫌よう。ポートミラ伯爵。伯爵の方こそ、お仕事の調子はいかがです? 王太子殿下の護衛騎士であらせられる閣下がこちらにお越しになるのですから、それはもう順調なのでしょうね。世間話には向かなかったかな」

「……卿」

「ははは。不躾でしたか? それは申し訳ないことをした。ですがほら、ね? 私は罪人ですから。今さら罪状が一つ増えようが変わりないので、つい」

「――アルフォルト・レシェンナ!」

 瞬間、沈黙が覆い被さる。

 アルフォルトは表情を削ぎ落とした。温度のない目でポートミラ伯爵を見る。荒々しい声を振り翳したポートミラ伯爵は、小刻みに肩を上下させていた。息が荒い。

 声の端を震わせながら、ポートミラ伯爵は内臓から言葉を引き摺り出した。

「何故……っ、何故、このようなことをしたのだ! 貴殿には愛する妻がいて、守るべき領民だって多くいる。それなのに、何故……!」

「――()()?」冷えた声でアルフォルトは繰り返した。「何故、何故ですって? ……は、ははッ。あはははははははは!」

 不愉快さを隠しもしない笑い声が牢の中から響き渡る。床へ壁へ天井へ。縦横無尽に嘲笑が弾け飛んだ。闇雲に空気を震わせる。不快、滑稽、嫌悪、殺意。狂気が形になったかのような笑い声だった。

 不気味さに顔を引き攣らせたポートミラ伯爵を、アルフォルトは無遠慮に嘲笑する。

「私から妻に贈る愛の証明のためですよ」

「はっ、な、あ……?」

「頭の回転が遅い人だな。自分で聞いておいて、その反応はどうなんですか?」

「なっ」

 ポートミラ伯爵は顔を赤くした。羞恥心が頬を鮮烈に染め上げる。ペンキで塗りたくったような、見事な赤色が頬を占領した。

 しかし、そんなことはアルフォルトには関係がないことだ。吐き捨てるように舌を回す。

「もっと直接的に申し上げようか。それとも、噛み砕いた表現に直した方がお好みかな?」

「――このっ、ペテン師!」ポートミラ伯爵はがなり立てる。「貴様、自分のしでかした事の大きさを理解していないのか。お前のその軽薄で軽率な行いが、自身の奥方を窮地に追いやっているのだぞ! 何が愛の証明だ、馬鹿馬鹿しい。お前の行いは間違っている!」

「それで?」

「……はっ?」

 怒号は一瞬で止んだ。ポートミラ伯爵は目を皿のように大きく見開き、アルフォルトを凝視した。信じられない気持ちで視線を固定する。貴族の嗜みを全て道端に落としてきたかのような振る舞いだった。

 浅はかな。アルフォルトの目が、より一層温度を下げる。

「だから、それで? 私の行いが間違っている……ええ、そうですね。で、だから、それで? それが一体何だと言うのです?」アルフォルトは首を傾げた。「間違いだろうが正しかろうが、もうすでに私たちはここまで来た。どこにも後戻りは出来ないし、する気もない。まさか、優しさだけが愛だとでも? 愛することに暴力も清濁も存在しないと?」

 悪いことは何もしていないとでも言うような、丸い声だった。ポートミラ伯爵はぞっとする。背筋が凍った。

 間違っていると自らの口で認めたのに。

 罪人になったと自らの口で言ったのに。

 それなのに。

「綺麗なだけが愛じゃない。愛していたって汚いことはある。そうでしょう?」

 ――この男は本当に、愛のために国を、人を、命を捧げたのだ。

「あ、なたは……っ」

 グラスコット侯爵家当主アルフォルト・レシェンナ。同年代の中でも頭一つ飛び抜けた才を持ち、畏怖と尊敬の目を一身に集めた男。輝かしい未来を約束されていた男。

 それが、こんな男だっただなんて。

 ポートミラ伯爵は唇を震わせた。失望、怒り、嘆き、恐怖を掻き集めた声を絞り出す。縋るような思いが必死に言葉を組み立てた。

「愛だと謳えば、何をしても許されるとでも……⁉」

 アルフォルトは間髪入れずに答えた。「お前なんかに言われたくないな」

 ポートミラ伯爵は絶句した。その場に立ち尽くす。唖然とした様子のポートミラ伯爵に向けて、アルフォルトが微笑んだ。慈悲深く、慈愛の眼差しを見せる。そして直ぐさま、唇に嘲笑を刻む。

「自分たちが良ければ他はどうでも良いお前に――俺のフィオナを犠牲に生き延びたお前らに、善悪を説かれるなんて反吐が出る。今すぐその口を閉じろよ」

 アルフォルトにとって、大切なことは一つだけだった。道徳、倫理、正義。時代によって変化する何かなどではなく、もっと生々しくて強烈な感情だけだ。

 道徳に意味はない。

 倫理に興味はない。

 正義に価値はない。

 だが、知っていることがある。分かっていることがある。

 ――ひとりぼっちは、凍えるほどに寒いのだ。

 あの日。差し伸べた手を握り返された、あの時。アルフォルトは誓った。フィオナが本物を差し出すのなら、自分も本物を差し出すと、誓ったのだ。たとえその果てに、罪悪の山を築こうとも。ふたりの命が尽きようとも。必ず。

 やめるときも、すこやかなるときも、共にあると誓ったのだ。

「私は愛を言い訳にしない。免罪符にもね。だが、愛の証明のために策を弄したのは事実だ。だから否定することはしないよ」

「それが何になると、」

「何も?」アルフォルトは綺麗に笑った。「愛の証明以外、何にもならないよ」

 かたどられた美しい微笑みを前に、ポートミラ伯爵は唐突に理解した。呆然とアルフォルトを見つめる。

 何も。

 何にもならない。本当に。

「貴方は貴族だ……」

 これが、本当は国の転覆を目的としたものであったなら、まだマシだった。理解の及ぶ範疇だったから。しかし、そうではなかった。

 国も、権力も、財力も。全て、何一つとして求めていなかった。当然だ。アルフォルトはグラスコット侯爵家の当主である。国そのものは無理でも、権力や財力は望めばいくらでも高まっていくに違いない。リスクを冒す必要は、どこにもないのだ。

「……貴族なのに、何故……っ」

 ポートミラ伯爵は苦虫を噛み潰したような顔をした。理解しがたいと、口に出さずに指し示す。憤りにも似た失望感を手のひらで握り潰した。固く拳を作る。

 望めば何だって手に入れられたはずだ。アルフォルト・レシェンナは本物なのだから。正真正銘、本物の、才ある人間だったのだから。

 なにも。

 なにもあんな凡庸な女を、望まなくても。

「貴方はっ、……貴方は、もっと多くの人に手を差し伸べるべき人だ……!」

「……へえ?」

「より多くの利益、多くの可能性、多くの民。貴方を求めてやまない存在は、数え切れないほどたくさんいる……っ」

 草臥れた様子でなお言い募るポートミラ伯爵を、アルフォルトは平べったい目で見た。白けきった気持ちが臓腑を撫で上げる。くだらないなと思ったのだ。

 本当に、くだらない。アルフォルトが選んだのは、どこにあるかも知らない不特定多数ではない。ただひとり、たったひとりしかいない女――フィオナだけだ。

 賞賛なんて価値がない。

 名誉なんて興味がない。

 権力なんて意味がない。

 全て、全部、何もかも。ただひとり、たったひとりしかいない、好きになったひとを愛せず、守れず、共に生きていけないのなら。孤独を贈ってしまうのなら。

 ――そんなもの、抱えているだけ無駄だ。

 アルフォルトは落とすように笑った。それは酷く妖艶で、誘惑的な笑みだった。

「明日、毒杯を賜る」

「な――」

「言ったでしょう? 〝今さら罪状が一つ増えようが変わりない〟って」

 いっそ不気味なほどアルフォルトは上機嫌だった。自身の惨状を謳うように上機嫌なアルフォルトを見て、ポートミラ伯爵が眉を寄せる。

「……奥方は、どうするのだ」

「君に関係ある? って言いたいところだけど……そうだよね。君の弟は、フィオナの元婚約者で、まだ好きなんだものね? 鬱陶しいなあ」

 煩わしそうにアルフォルトが言う。しかし、ポートミラ伯爵は沈黙を保った。

 弟であるエリオットは優秀だ。武力で有名な家門出身でありながら、若くして法制局長官にまで登り詰めたのだ。エリオットの実力は誰もが認めるところである。

 だがその一方で、ポートミラ伯爵家は全員が不安だった。何故なら、エリオットは元婚約者のことを今も引き摺っているからだ。

 幼いながらに刻まれた罪悪感か、捻れてしまった執着心からか。始まりがどこにあるのかさえ不明だが、エリオットは今もフィオナだけを見つめている。フィオナを想っている。

「この指輪。結婚指輪なんだ」

 ポートミラ伯爵の沈黙を破るように、アルフォルトの声が響いた。

「……それで?」

「中に毒を仕込んである」

 絶句した。ポートミラ伯爵は目を見開く。信じられないものを見るような目でアルフォルトを見た。声を飲み込む。

 視線の先にいたのは幸せの絶頂にいるかのように笑う、アルフォルト・レシェンナだった。

「仕掛けは内緒だけど。でも……これがあれば、私たち夫婦は最期まで共にあれる」

 声が響く。言葉が蘇る。ポートミラ伯爵の耳元で、独白と幻聴が交錯する。

 ――優しさだけが愛だとでも? 

 ――愛することに暴力も清濁も存在しないと?

 認めよう。ポートミラ伯爵は思った。自分の考えは砂糖菓子のように甘ったるかったのだと受け入れよう。

 ――愛は手酷い痛みを孕んでいるのだ。

 一方で、ポートミラ伯爵は険しい顔をした。眼差しを悲愴に歪めてアルフォルトを見る。

「狂っている……」

「そうかな? でも、何とでも。お前と私は生涯交わることない道を歩んだだけだからね」

 軽やかなアルフォルトの声を聞き、ポートミラ伯爵は目を伏せた。

 分かり合えない。分かり合わない。別々の人間が共存するとは、こういうことなのだろう。

 ポートミラ伯爵は身体を回転させた。アルフォルトに背中を向ける。そのまま無言で歩き出した。おもむろに足音が遠ざかる。

 ついに人の気配が消えたところで、アルフォルトは堪らず声を零した。

「ふふふっ」アルフォルトは恍惚と目を溶かした。「ついに明日だよ、フィオナ。明日、私から君への愛の証明が成される」

 左手を頭上にかざす。アルフォルトは薬指を見た。砂糖を煮詰めたように甘ったるい目が薬指を飾る指輪を捉える。灼き尽きたような焦げた視線だった。結婚指輪の内側には、夫婦の名前と誓いの言葉が刻まれている。

 ――やめるときも、すこやかなるときも。もし、命を落とすことがあれば、その時は。

「〝共に〟」

 声が落ちる。熱が溶ける。心が溢れる。

 ああ。こんなにも幸せを感じることはない。アルフォルトは穏やかに微笑んだ。

「愛してるよ、フィオナ」


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