表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

罪悪感は人を愚かにする

 逃げるように浴室を去ってから、先の衝撃を飲み込むように食事を終えた。

 今日はもう家から出る予定はない。

 眠るのはまだ早いが、岡本の元に戻る気はなかった。昼寝というには遅く就寝には早いが、何も考えずに寝転がりたかった。寝床に向かう。

 しんとした頭の中に岡本の言葉が響く。


――今俺が歌ったら阿佐ヶ谷は俺をここから出したくなくなるし、俺以外の誰かを好きになることもなくなるよ。それもいいんじゃない。


 岡本が人魚になってから戸惑うことが多いが、彼が浴室から出られないことには感謝している。

 彼は地に足を付けて歩くことができない。あの尾っぽで歩くのは物理的に無理だろう。あの滝からここまで運べたのだから、暑さや乾燥には強いのだろうけど。


 いつもの場所に布団を敷くことすら面倒で、床に寝転んだ。汗で体がベタ付く。フローリングはひんやりと冷たくて、じわじわと体と接している部分を冷やしてくれた。

 フローリングが汗で濡れていって不衛生だ。しかし、風呂に入るのは面倒だった。そもそも、浴槽は岡本が使用している。近所に銭湯などもない。どうしたものか。ええい、面倒だ。


 寝転がっている内に意識がぼんやりと遠退いてきた。遅い昼寝だ。何時に目が覚めるだろうか。あ、夕飯……。岡本は食べるのだろうか。

 冷蔵庫に入ったイワシのことを思い出す。持って行ってやらなくては。勝手にこんな所まで連れてきてしまったんだ。ちゃんと面倒を見ないと。岡本には足がないから、ずっと浴槽に居続けるしかないから、私が放ってしまったら死んでしまう。一眠り。一眠りしたら、鰯だけ投げ入れて……。

 ああ、遠くから歌が聞こえる。岡本だ。綺麗な声だ。



 目が覚めるとすっかり日が落ちていて、部屋は真っ暗になっていた。電気を点ける。


「岡本、晩飯、鰯……」


 冷蔵庫から鰯を取り出して、浴室へ向かう。


「阿佐ヶ谷、来てくれたんだ」

「だって、そりゃあ、私が岡本をここに連れて来たんだから、無責任なことはしないよ」

「優しいなあ」


 鰯を放り投げると岡本はにやにやしながらキャッチした。パリパリと、やはり綺麗に食べる。


「岡本は暑さや乾燥には強いの?」

「さあ」


 さあって、何だよ。さあって。


「だって、あの滝からここまで電車とバスに乗って結構掛かるよ。ケーキだったら保冷剤足りずに傷んじゃう」


 冷静に考えたら、これを岡本の友人になる川魚たちでやったら、皆腐臭を放って死ぬだろう。でも岡本は無事だった。


「そうかもね。そうじゃなかったら、俺は阿佐ヶ腕の中で死んでいたのかな」

「嫌なこと言わないで」


 そんな、何ともないような顔で。


「……そういえば、阿佐ヶ谷、俺がいたら風呂入れないよな」


 話を切り替えるように岡本が言う。さっき仮眠を取る前に同じようなことを考えていた。


「いいよ、シャワ―浴びるから」

「ごめんね。バスタブ占領しちゃって」

「謝らないでよ。私が連れて来たんだから」


 風呂のために洗面場やシンクなんかに住まわせる気もないし、本当はもっと広い所で自由に泳いで欲しい。


「見ないから安心して」


 岡本は下を向いた。ずっとこのままでいたら首が痛くなるだろうに。


「いいよ、減るもんじゃないし」


 そう言っても岡本は俯いてこちらを見ない。岡本は私のことが好きなのに、私はなぜこんな無神経なことをしているのだろうか。これなら誰か1人暮らしの奴に風呂を借りた方がいいかもしれない。


「やっぱ、誰かの家……」


 ここで岡本が素早く顔を上げた。悲壮な表情だった。自分の顔が引き攣るのが分かる。目が合った途端、岡本は眉を下げてごめんと呟いた。


「どこかへ行かないで」


心細そうな表情だった。初めてのおつかいに放り出された幼児のような。


「俺はさ、阿佐ヶ谷を追ってここから出ることすらできないんだ」


 私がそうしてしまったんだ。人魚を陸に連れ込んで、僅かな水しかない浴槽に閉じ込めて。残酷なことをしてしまった。

 胃がぐうと痛む。じわじわと苛むように、ぐうぐうと痛んでいる。


「……なら、どこか行くことがあったら連れていくよ。岡本がここに来たみたいに」


 そう言って、岡本の腋に手を差し込む。そういえば、魚にとって人の体温は火傷するような熱さだと聞いたことがある。少し不安になったが、岡本は人魚だし、あの時運べたのだから平気なのだろうと判断した。


「あれ」


 持ち上げようとするが、かなり重い。抱えて100メートルも運べない重さだ。


「岡本、私は本当に岡本をここまで運んでこられたのかな」

「でないと、俺はここにいないと思うけど」


 あれは火事場の馬鹿力だったのか。だとしても体のどこも痛くない。普通ならすでに筋肉痛にでもなっているだろうに。明日になったらくるのだろうか。


「……」

「不思議だね」


 腑に落ちなかったが、岡本が緊張感のない顔をしているから、細かいことはどうでもよくなった。


「阿佐ヶ谷、シャワー浴びてさっぱりしなよ。これが日常になるんだから」

「そうだね」


 誰かの家の風呂を借り続ける生活なんて相手の迷惑でしかない。さっさと服を脱いで脱衣所に放り込み、シャワーを浴びる。さすがにお湯を出すのは憚られたので水を浴びている。岡本はにこにこしながらこちらを見ている。


「お湯でも平気だよ」


 岡本が温度調節のハンドルに手を掛けた。じわじわと水が温かくなっていく。

 ここは岡本の優しさに甘えて頭だけ洗わせてもらおう。

 充分に髪が濡れた所でお湯を止め、泡立てたシャンプーを髪に馴染ませる。指を立てて、こめかみから頭頂部、生え際から後頭部と掻いていく。髪がたっぷりの泡を含み、もこもこと膨らんでいく。もう充分だ。


「泡流す?」

「うん」


 答えた途端にお湯が降ってきて、咄嗟に目をつむる。水は頭頂部に掛かり、重力に従って落ちていった。流れに逆らって髪を掻き混ぜ、シャンプーをきちんと洗い流す。これでいいかと思ったタイミングでお湯が止まった。

 岡本、なんて絶妙なタイミングなんだ。思わず岡本を見てしまう。


「人魚になると、人の心まで分かるんだ」

「そうなの」


 有り得そうだと思いながら、ぼんやりと岡本を眺めながら体を洗う。


「嘘。ちょっと信じたでしょ」


 岡本は至極楽しそうに笑った。


「嘘吐き」

「そう。俺は嘘吐きなんだよ」


 なぜが笑いが漏れた。それからは何も言う気にならなくて、黙って浴槽を後にした。服を着る気も食欲もわかず、布団だけ敷いて寝た。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ