◇9
ホールには大きな黒光りするピアノが置かれていて、どこかの令嬢が得意げに弾いていた。
ポーレットのところにも昔はピアノがあって、小さい頃はよく弾いていたけれど、ポーレットが知らないうちにヴァレリーが要らないと言って売り払ってしまった。多分、シュゼットがポーレットほど上手く弾けなかったのが気に入らなかったのだろう。
懐かしいなとちょっと思った。演奏が終わると拍手が巻き起こる。ポーレットも拍手を送った。
そんな中、ピアノを披露していた令嬢にさっきの紫ドレスの令嬢が近づいて耳打ちをした。さっとあの紫のドレスを翻して去ったが、その後でピアノを弾いていた令嬢が皆に向けて言った。
「これからお歌を披露してくださるそうなので、引き続きわたくしが伴奏を務めさせて頂きます。ポーレット嬢、こちらへ」
――自分以外にもポーレットという名前の令嬢がいるのかと思ったが、誰も出てこない。
ランベールはため息をついていた。
「外へ出るか?」
小さく言い、ポーレットを庇うように体を斜めにした。
これは嫌がらせのつもりなのだろうか。ずっと口を利けなかったポーレットが上手く歌えずに恥を掻けばいいという。
あの令嬢に嫌がらせをされる覚えはない。ただ彼女が意地悪なだけだろうか。
この時、視界の端に父と継母の姿が目に入った。顔を歪めている。まさかここで会うとは思わなかったのだろう。
本当に、家の恥だと言いたげに、最早他人だとばかりに遠くに立っている。
悲しいとは思わなかった。何かがここで吹っ切れた。だから、言った。
「いいえ、行って参ります」
ポーレットはランベールから離れ、ピアノのそばへ近づいた。テスが心配そうに見ているのに気づいて軽くうなずく。
ピアノを演奏する令嬢に悪意は感じられなかった。
「お声が出るようになったそうで、おめでとうございます。わたくしも精一杯演奏させて頂きますね。曲目はどうされます?」
「ありがとうございます。アリアの〈セラフィーヌ〉はどうでしょう?」
「ええ、有名な曲目ですから弾けますわ」
そう言って、令嬢はピアノを爪弾き始めた。
〈セラフィーヌ〉は、地上の青年に恋した天使の恋心を歌っている。
結ばれない相手ではあるけれど、天使は若くして命を散らした青年の魂を天へと導く。
悲恋ではあるのかもしれないけれど、青年に恋をした天使の気持ちは今ならわかるから、それを歌いたいと思った。
人前で歌ったことなんてない。けれど、母はとても歌が上手だった。だから、自分の中の母が助けてくれるような気がした。
ポーレットが歌い始めると、僅かに周囲がざわついた。それを押しのけるように、声をランベールに届けるために歌う。
特別上手くなくてもいい。それでも、こうして歌っている。他の令嬢たちと同じ位置にようやく立てたのだと思うと、胸の奥がじんわりと熱くなった。
練習もしてこなかったのだから、歌い終えた時には息が切れていた。汗も浮かんで化粧が崩れそうだ。
だというのに、達成感でいっぱいだった。これ以上ないほどの幸福を感じた。
胸を撫で下ろしていると、拍手が聞こえた。それは次第に大きくなり、他の音を掻き消すほどの大音量となる。恥ずかしさと誇らしさとが入り混じり、ポーレットは膝を折って礼をするとピアノのそばを離れた。
ランベールも拍手をくれた。どこか熱に浮かされたような目をしている。
「すごいな。綺麗な声だ」
「あ、ありがとうございます」
ランベールに褒められ、ポーレットは顔を赤くした。そうしたら、手を握られた。
「歌ってる時のあんたは堂々としていたのに、今は少し褒められたくらいで顔を赤らめる。危なっかしいな」
「そ、それは……っ」
口が利けるようになったら、好きな人に好きだと言えるのにと思っていた。けれど、実際にはそう簡単には言えない。また喉の奥がつっかえたような苦しさがあった。
「覚悟してないと。これからあんたのことを狙う男が群がってくるぞ」
「それは、テス伯母様の財産のせいでしょうか?」
そう返すと、ランベールは呆れたように首を振った。
「それもあるかもしれないけどな、それ以上にあんた自身が魅力的だから」
「っ!」
「ほら、耳まで赤くなった。あんたは出会った時から危なっかしい」
揶揄っているのだろうか。ただ笑っている。
口説いているのとは違う。ランベールはそれ以上踏み込むつもりもないようだ。
社交辞令としてこれくらいのことは誰にでも言っているということか。
もしかして、決まった相手がいるのかもしれない。今になってそこに思い至った。
そうしたら、周囲の熱気とは裏腹に気持ちがすぅっと落ち着いていった。