◇8
ポーレットは執事のパトリスの手を借りて馬車から降りた。
エスコートしてくれる男性がいないので、パトリスを連れて来たのだ。前もって誰にも頼まなかったのは、テスがその方がいいと言ったからだった。
会場が、ざわつく。
テスが現れたことがまず珍しいのだろう。そして、そのテスが子供のような年頃の娘を連れているのも気になる。裕福な未亡人の財産の行方に皆が興味津々らしい。
「マダム・ディルマン、お久しぶりです! こちらのお美しい女性はどなたでしょう?」
テスは扇で口元を隠し、フフ、と小さく笑った。
「姪のポーレットです。この度、私の養女になりましたのでお披露目に参りました」
「これはこれは! 今日はこの話題で持ちきりになりそうですね。ポーレット嬢はご婚約は済まされておいでですか?」
顔も名前も出しているのに、ミシリエ男爵家の長女だとは気づかれないらしい。それくらい、ポーレットは社交界で影が薄かった。それが今となっては面白い。
「いいえ。すべてこれからですの」
それを聞きつけた人々の目つきが変わった気がした。
テスからは前もって忠告されている。要らない連中まで群がってくるだろう、と。
ポーレットの目当てはただ一人だ。それ以外は遠慮したい。
そして――。
ランベールに再会することができたのだった。
ポーレットの体感としては二十日近いのだが、ランベールからすればたった五日程度で再会したことになる。
ランベールは海軍の制服を着ていた。黒地に金ボタン、房飾り、見惚れてしまうほど長身の彼によく似合っている。
ランベールもポーレットとテスに出会って瞠目していた。小走りに駆け寄ってくる。
「マダム、この間の借りを返してもらうというのは……?」
テスは悪戯っぽく笑った。ポーレットの知らないところで何か根回しをしていたらしい。
「私の養女のポーレットです。この子のエスコートをお願い致します」
せっかく綺麗にしてもらったのに、ポーレットは口をあんぐりと開けてしまいそうになった。
「ずっととは言いません。この子が場に慣れるまででいいのです」
「養子? 一体、何がなんだか」
「ええ、詳しくはポーレットにお訊ねください。お願いしますね」
そう言い残したかと思うと、テスはパトリスを連れて挨拶回りに行ってしまった。
「訊ねろって言ってもな……」
ランベールは困ったようにポーレットを見た。この間よりも距離を感じるのはポーレットの装いのせいだろうか。
「今日はあの冊子を持ってきてないんだな」
「はい。あれはもう必要なくなりましたので」
どぎまぎしつつ答えると、ランベールも驚いていた。
「あんた、声が?」
「実はあの後、声が出るようになりました」
「そうなのか。よかったな」
そう言って、ランベールは癖のある微笑みを浮かべた。
それだけで心臓が大きく跳ねる。あんなに味気ない生活をしていた自分の中に、まだこんな熱量があったことが意外だった。
「声が出ないのは私のせいではないと仰ってくれたあのお言葉が、とても嬉しかったのです。それをお伝えしたいと思っておりました」
一生懸命それを言った。指で冊子をなぞるよりも自分の声で言葉を伝える方がずっと難しいのだと、この時に初めて知った。
けれど、嬉しい。体が浮かぶように舞い上がっている。
ランベールの方はこの再会をそこまで喜んでいる様子ではなかった。とても落ち着いている。
「いや……それで、どうしてマダムの養子に?」
「私も知らなかったのですが、姪と伯母の関係だそうです。それで私を引き取りたいと仰ってくれて」
「へぇ。そんなことがあるんだな。でも、マダムはいい人だから、よかったな」
「はい!」
力いっぱい返事をすると苦笑された。目の前に白い手袋の手が差し出される。
「ではお手をどうぞ、お嬢様」
ポーレットが照れつつ手を差し出すと、ランベールはその手を自分の腕に添えて歩き出した。ポーレットは夢見心地だったが、続々と人が集まってくると視線が突き刺さった。男性からは興味、女性からは嫉妬――。
痛いほどにそれを感じた。
この時、紫色のドレスを着た栗毛の令嬢が近づいてきた。
「あなた、ミシリエ男爵家のポーレット嬢でしょう? 前に一度お会いしたことがあるけれど、随分様変わりされたこと」
誰だったかな、とポーレットは思い出そうとした。
向こうはそれほど好意的ではない。シュゼットの友達の姉だったか。そんな程度の知り合いだったかもしれない。
その令嬢はポーレットが喋れないと思っているから、返答は求めなかった。言うだけ言って去ろうとしたところにポーレットが口を開く。
「そうかしら? 自分ではよくわからないけれど。それと、私は養女になったので、もうミシリエ男爵家の者ではないの。今の私はポーレット・ディルマンよ」
「あなた、口が利けるようになったのね!」
「ええ、幸運なことに。つい最近」
「へぇ。シュゼットたちも知っているの?」
「知らないわ。まだ伝えていないから」
そんな会話を繰り返しているうちに音楽が鳴り響き始めた。
令嬢はランベールをちらっと見て、軽く挨拶をして去っていった。
「様変わりか」
ランベールがポツリとつぶやく。
ポーレットが見上げると、ランベールは微笑みかけてくれた。
「それが本来のあんたなんだろうな」
――いつも惨めに暮らしていた。
ポーレットは、やっと蛹から羽化することができたのだろうか。
でも、とランベールは言う。
「中身は変わってない。喋れなくても、あんたは一生懸命俺に感謝を伝えようとした。その気持ちはちゃんと伝わってたからな」
涼しい顔をしてそんなことを言うけれど、ポーレットの方が涙ぐんでしまった。そんなふうに思ってくれていたのかと。
それなら、この恋心もすでに伝わっているのだろうか。
時が巻き戻ったのがランベールとの出会いの前でなくてよかった。
この人と出会えたことが人生で最大の幸福だと思うから。