◇6
ポーレットはテスを伴い、堂々と正面から帰った。
勝手に出かけたことを咎められるかと思ったが、父は冷ややかだった。
「あんたは誰だ?」
胡散臭そうに、父は侮蔑を含んだ目をしてテスを迎えた。テスはポーレットの背中に手を回したまま微笑んでいる。
「突然申し訳ありません。お目にかかるのは初めてですが、私はルネの実姉でテス・ディルマンと申します。長年国外におりまして、妹が死去した時にも駆けつけることができませんでした。それでも、ずっと残された姪のことが気がかりで、やっとこうして会うことができたのですが、ポーレットは声を失ったままだそうですね」
ほぅ、と上品にため息をついて見せる。そんなテスの仕草に父は亡き妻を思い出しただろうか。
「ルネの……」
「ええ。未だに声が出ないなんて、この子が不憫で……。どうかポーレットを私に引き取らせて頂きたいのです。ゆっくりと療養させて心を癒せば声も戻ることでしょう」
それを聞くと、父は顔を引きつらせた。けれど、後方で黙って話を聞いていた継母のヴァレリーは飛びつくように言った。
「まあ! なんてお心優しい伯母様でしょう。ポーレットは幸せ者ですわね」
厄介払いしたいらしい。この機会を逃すものかと目が輝いている。父が少々渋って見せるのは、外聞が悪いのではないかというその一点だけではなかっただろうか。喋れない娘など役に立たないといつも思っているくせに。
「ポーレットは私のところに来てもいいと考えてくれているみたいです。ね、ポーレット?」
テスが水を向けてきたので、ポーレットはうなずいておいた。
すると、父は少し間を置き、言った。
「この子に財産はないが?」
財産目当てで引き取ると思ったらしい。
テスは地味な装いをしていたから、それほど裕福ではないと思ったらしい。思えば、母の実家については特に聞かされたことがなかった。きっと貴族ではなかったのだろうというくらいにしか考えていなかった。美しかった母を父が見初め、周囲の反対を押し切って結婚したのだとかなんとか、そんな程度の話を聞いたくらいだ。
父も母に姉がいたことなど今日まで知らなかったらしい。母が実家のことをあまり話そうとしなかったのは、家を飛び出したからというだけでなく、魔女の血のせいだろう。
「何も求めておりませんわ。何もしてやれなかった妹へのせめてもの罪滅ぼしとして、ポーレットを癒してあげたいだけなのです」
服飾店の店主、つまりテスは商売人なのだ。貴族のような生活をするわけではない。それでもいいとポーレットは思っている。
父は最後にため息をついた。
「なるほど。そこまで言うのなら任せてもいいが、途中で投げ出して寄越してもうちとしては一旦出た以上は他人と変わりない。それを承知しておいてもらおう」
この時、テスの穏やかな顔に一瞬だけ青筋が浮いたような気がした。
「投げ出したりなど致しませんわ。では、この子は私が引き取らせて頂きます。……ポーレット、荷物があるならすぐに支度して頂戴? ああ、着るものは要りませんよ」
荷物というほどのものもないが、愛着のある小物くらいは持っていこうか。ポーレットはうなずいて、急いで部屋に戻ると書きやすいペンやお気に入りの本、子供の頃の宝物――他愛のないものをカバンに詰めて戻った。テスはニコニコと笑顔で待っていた。
ついさっきまで家族だった人たちは、ポーレットを見下した目をしていた。これでお前は貴族ですらないただの娘に成り下がるのだと言いたげだ。
シュゼットはまだアントンのところらしいが、戻ってきたらタチアナに押されて紅茶を被ったと大騒ぎするのを知っている。
声を取り戻したポーレットは、そのことをまだ知らない両親に満面の笑みを浮かべてお辞儀して見せる。
その晴れやかな表情に二人は拍子抜けしたようだった。
「さあ、行きましょう」
テスと二人、この屋敷を去る。未練はなかった。
◇
路地で馬車を捕まえ、テスはそれにポーレットと一緒に乗り込んだ。
「テス伯母様、お店はすぐそこでしょう?」
「ええ、店は。今日はもう家に戻って休みましょう」
あの店に住み込んでいるわけではなかったらしい。
馬車が夜道をカラカラと音を立てて通り過ぎる。
テスの家は市内であったらしく――ぼんやりと馬車に揺られていたら、通りかかった辺りはどう見ても一等地だった。
「はい、着きましたよ」
「こ、ここですか?」
ミシリエ男爵家のタウンハウスがみすぼらしく感じてしまうほどには格調高い屋敷だった。テスは外国にいたと言った。長年ここに住んでいるわけではないのなら、この屋敷を買い取ったということになる。そんな資金をどうやって稼いだのだろう。
馬車が止まると、屋敷から使用人がわらわらと出てきた。
「おかえりなさいませ、ご主人様」
若い好青年の執事が手を差し伸べる。テスはその手を借りて馬車から降りた。そして、ポーレットの方を振り向く。
「この子はポーレット。今日から我が家で暮らすことになった私の姪です」
それを聞き、執事は驚くかと思ったが、案外落ち着いていた。
「さようでございますか。初めまして、ポーレット様。わたくしは執事のパトリスと申します。お手をどうぞ」
「は、はい」
ポーレットは馬車から降りると、ただじっと屋敷を見上げた。その横顔にテスは言う。
「私は未亡人で、夫が遺してくれた財産が少々あります」
「じゃあ、どうしてお店なんて?」
「あれは私の生き甲斐。趣味です」
にっこりと笑って言われた。
「さ、今日は疲れたでしょうから、まずはゆっくりしましょう」
紅茶を飲みながらゆったりと過ごし、夕食には何が食べたいのかと問われたのでリゾットを希望した。リゾットを食べ、湯浴みをし、シルクのネグリジェに袖を通した時、ポーレットは自分が生まれ変わったような気分だった。ミシリエ男爵家の垢をこそげ落とし、新しい自分になった。そんな心境で用意された客間のベッドに横たわる。
朝になっても魔法は解けなかったし、時は巻き戻ったままだった。