◇5
あの日と変わりなくそこにある店構え。
思いきって店の扉を開くと、中にはゆったりと構えた店主が、まるでポーレットを待っていたかのように佇んでいた。
店主はにっこりと笑って問いかけてくる。
「今日は何日でしょうか?」
ポーレットは小冊子の数字のページを開き、指で伝える。
『五月二十二日』
すると、店主は苦々しい面持ちになった。
「そうですか。ついにルネの術が発動したのですね」
「えっ?」
ルネというのはポーレットの母親の名前だった。偶然だとしても驚いて声が出た。
そして、声が出たことに驚いた。それなのに、店主は驚いていなかった。
「もう声は出るはずですよ。術の効力は切れていますから」
まさか――。
そんな簡単に出せるようになるはずがない。十五年も出なかったのだ。
それなのに、店主が言うようにポーレットの喉からは声が出た。
「術って……?」
話せる。驚きが勝り、嬉しさが置き去りだった。
こんなわけのわからない状況でなければもっと素直に喜べたのに。
混乱しながら言ったポーレットの言葉に、店主は言いにくそうに返した。
「あなたが凶事に見舞われた際に発動する助命の魔法です。つまり、あなたは死を境に時を逆行したのですよ」
「死んだ? 時を……逆行?」
「ええ。今日は五月八日。あなたがランベール様とここへ来たのは昨日です」
「そんなはずは……」
頭がグラグラと揺れる。
そんなポーレットを気遣うように店主は備えつけのソファーに座らせてくれた。その隣に自分も座る。その上品な顔に向け、ポーレットは問いかけた。
「あ、あなたは誰ですか? どうして……一体、私の何を知っているのですか?」
混乱して口走ったポーレットに、店主はフッと柔らかく微笑む。
その微笑が懐かしく、誰かに似ているような気がした。
「私はテス・ディルマン。あなたの母方の伯母です」
「お母様の?」
母に姉がいたなんて知らなかった。聞いたこともない。
ただ、優しげな彼女がこの場でひどい嘘をつくようには見えなかった。
「何からお話しましょうか……。ええと、順を追っていくとして、まず最初に伝えなくてはならないのは、私たちが魔女の血を引く家系の出だということでしょうね」
「ま、魔女?」
唐突に出てきた突拍子もない話に、ポーレットの理解が追いつかない。
テスは一度うなずくと、そのまま話し続けた。
「ええ。二百年ほど前にこの国で大規模な魔女狩りが行われたのは知っていますね?」
「えっと、後に〈イシスの審判〉と呼ばれた?」
「ええ。イシス教マリエール教皇が邪悪な魔女を一掃すると触れを出し、教団が国中で魔女と思しき者を片っ端から捕らえました。私たちの祖先はその魔女狩りの網を搔い潜り、生き永らえたうちの一人なのだそうです」
この事件にはひどい結末が待っていた。
マリエール教皇は神職となる以前の過去に結婚歴があった。教皇となる時、その事実を伏せていた。自らが捨てた妻を葬るために魔女という存在が悪しき者だと言い立て、魔女狩りを決行したのだと取り沙汰された。
マリエール教皇は後に幽閉されたが、獄中死した。それこそが魔女の呪いと噂されたという。
「魔女と噂されたほとんどの女性は、少し勘がよかったり知識が豊富だったりするだけの普通の女性だったのでしょう?」
抵抗できないか弱い女性を複数、魔女として葬ったのだ。今でも歴史上の汚点として、追悼の儀は毎年行われている。
「そう。ですから、本物の力のある魔女は生き延びられたのですよ。といっても、今となっては私を含め、僅かな力を持つ者しかいませんけれど」
ポーレットに至っては一切何もできない。もしテスの話が本当でも、魔女の血は徐々に薄れているのだろう。
テスはひとつため息をついた。
「あなたのお母様は好奇心旺盛で、故郷にじっと閉じ籠っていられる人ではありませんでした。年頃になると家を飛び出し、そのまま何年も戻らなかったのです。そんな妹から、ある日手紙が届きました。結婚して女の子を生み、その子は四つになると」
それがポーレットだ。その続きを黙って聞く。
「妹は、予知夢を見たのだそうです。娘であるあなたが十九歳で命を落とす未来を覗いてしまったと。だからこそ、自分の命を懸けて、あなたが遭遇する凶事の際に助命する魔法をかけたいと」
「そんなことが可能なのですか?」
「私にはそこまでの力はありませんが、妹は特に力が強かったのです」
その話を鵜呑みにするのなら、母が死んだのはポーレットのせいということだ。
娘を生かすために母は若い身空で死を選んだ。その事実に愕然とした。
どこを取っても信じがたい内容なのに、すんなりと信じてしまうのは、テスの顔に母の面影があるからだ。昨日もテスを好人物だと思ったのは、それを感じていたのかもしれない。
「わ、私……」
「これはあなたのお母様が自分の意志で行ったことですから、あなたが罪の意識を感じる必要はありません。お母様はただあなたに生きていてほしかっただけですから」
こんな時に母の愛情の深さを知り、胸が詰まった。
美しく優しかった母のことが大好きだった。
「あなたが声を失っていたのは、その魔法の効果のようでした。そんな形で作用するとは思いませんでしたが……。だから、術の効果が切れた今、あなたは再び話せるようになったのですね。その代わり、もうあなたを護る術はありません。次に同じことがあれば命は失われます。それだけは忘れませんように」
テスはポーレットの手を両手でギュッと握った。
医者には、ポーレットが話せないのは心因性だと言われた。
しかし、実際にはこんな理由があったのだ。驚くような理由が。
「私が生き返るだけでなく、どうして時が巻き戻ったのでしょう?」
「それは時間の、あなたの死にまつわる部分を繰り抜いて捻じ曲げたわけですし。それでもあなたの記憶は残っているのですから、前回と同じ行動さえ取らなければ同じ目には遭いません。違う道を通るだけで運命にはズレが生じるものですから、これで二週間後に事件を回避することができるはずです」
二週間後。
ポーレットがランベール恋しさに薄暗い路地を歩かなければいいのだ。
「同じ行動を取れば私は今度こそ死んでしまうということですね?」
自分で言ってゾッとするけれど。テスは困ったように首を傾ける。
「そうなります。でも、二週間、記憶とまったく同じ行動を取るなんてことはしないと思いますが……」
その先に待っているものを知った後となっては余計にしない。絶対に。
ポーレットは大げさなくらいにうなずいた。そして、目の前の伯母を見る。
「伯母様はずっと私を見守っていてくださったのですか?」
「ええ、あなたの居場所は把握していました。今日まではただ見守ることしかできなくてごめんなさい。お母様の術があるうちは下手な干渉をして術を狂わせてはいけなかったから」
「ランベール様が私を連れてきたのは偶然でした?」
「そうなのです。彼があなたを連れてきた時にはひどく動揺してしまいました」
とても落ち着き払って見えたけれど、内心では焦っていたらしい。
「ポーレット、それで……あなたさえよければ私の養女になりませんか? あの屋敷で家族といても幸せそうに見えないので」
あの屋敷にいても幸せを感じることはない。
それは声を取り戻したとしても同じだ。今更関係を修復できる気はしなかった。
テスは優しく聡明な女性に思える。彼女となら良い関係を築ける気がした。
「伯母様がそう仰ってくださるのなら。でも、本当によろしいのですか?」
「ええ、もちろんです。前回あなたが辿った二週間よりも現在の環境が大きく変わるのはよいことでしょうし。それから、いずれは素晴らしい殿方を見つけて幸せな花嫁になれるようにしてあげたいと思っています」
このひと言にポーレットが頬を染めると、テスは眉を跳ね上げた。
「あら? もしかして、ランベール様ですか?」
結論に辿り着くのが早すぎる。
「だ、だって、あんなに優しくされたら、誰だって……」
「あらあら、難儀なことですね。でも、あなたがそれを望むのでしたら応援しましょう」
そう言って、テスはポーレットを抱き締めてくれた。きっと、母が生きていたらそうしてくれただろうと思えるぬくもりだった。
母のおかげでこうして助かった。その上、声を取り戻したのだから、これまでの自分ができなかったことをしよう。
一番の望みは、そう、好きな人に好きだと告げること。
そして、好きな人と心を通わせること。
自分のために頑張れる自分になりたい。
「話は早く進めてしまわないといけませんね。早速参りましょう。すべて私に任せて、あなたは何も言わなくてもいいのですからね」
「は、はい。テス伯母様」
ポーレットがそう呼びかけると、テスは少し照れたように笑った。
「では、急ぎましょう」
「あ、あの……っ」
「どうしました?」
「いえ、その、私を刺したのは誰だったのでしょう?」
無差別の異常者だったかもしれない。だとしても、ポーレットが死なないのなら、犯人を罰することはできない。その犯人は野放しのままだ。
テスは悲しそうにかぶりを振る。
「ごめんなさい、それはルネにもわからなかったみたいで手紙に書かれていませんでした」
「私の代わりに誰かが狙われるのでしょうか?」
「それはわかりませんが、可能性がないとは言えませんね。でも今はとにかく動きましょう」
「はい……」
二週間後、犯人が犯行を思い留まるか、捕まってくれますように。
ポーレットはもう同じ運命は辿らない。