◇4
朝になると昨日のことが夢だったような気がして、ドレスの縫い目を何度も確かめた。
あれが現実だったと確かめるたびに嬉しさが込み上げ、そして苦しくなる。
どうしたらまた彼に会えるのだろう。
会いたい。とても、会いたくて仕方がない。
けれど、外へ出れば乱暴な男たちもいるのだということを知った。その不安もあって、しばらくは屋敷から出なかった。
ただ、そんな恐ろしさは二週間後、恋心に凌駕された。
ポーレットは、ランベールにあんなにも釘を刺されたのに、また一人で屋敷を抜け出すしかなかった。
そうしなければ、再びランベールに会うことができないから。
海軍大尉だというが、どこへ行けば会えるのかわからない。微かな手掛かりはあの服飾店だけと言えるだろう。
ランベールのことを考えると胸が高鳴って、他のことはどうでもよくなった。
普通の人のように口を利くことさえできたなら、こんなにもどかしい思いをしなくて済んだのに。
いつものポーレットなら、引け目を感じて何もしなかった。それがこんなふうに動くのは、ランベールがポーレットのせいではないと言ってくれたからだ。
会いたい。
ただそれだけのために薄暗い町を歩いた。そして――。
あの服飾店の近くの路地へ差しかかった時、誰かの足音が聞こえた気がした。ランベールではなかったかもしれない。
それでもポーレットは振り返ろうとして、できなかった。
背中に衝撃が走った。グッ、とさらに深く沈み込む。背中に突き刺さった刃物がポーレットの薄い肉を突き破り、内臓にまで傷をつける。痛いというよりも、何故か熱いと思った。
血がせり上がってきて、口から零れる。膝を突いて路地に倒れ込むと、血溜まりができた。この血はすべて自分のもの。
こんなに流れ出てしまえば、もう元へは戻らない。
痛いと思うゆとりすらなかった。
ランベールが、危ないから一人歩きはするなと忠告してくれたのに。
その言葉を素直に聞かなかったからこんな目に遭ったのだ。
けれど、殺されるほどのことをした覚えはない。
ただ静かに暮らしていただけなのに、あんまりだ。
どうか、来世では好きな人に好きだと言えますように――。
×××××
暗転した意識の終わりの先の先。
終わったはずの人生なのに、まだ意識がある。
死というのは実際のところ、想像しているものとまったく同じではないらしい。魂だけになれば意識はすぐになくなると思っていたのに、こうしてまだ考えるゆとりがあるのだから。
ここはすでに天国だろうか。これで地獄へ堕とされたとしたらあんまりだ。
絶対に天国だ。
ポーレットはそう決めつけることにした。
そうしないと、恐ろしくて目を開けられなかったのだ。
まぶたの裏には明るい日差しがあるように感じられた。
思いきってまぶたを持ち上げると、そこは――。
自分の部屋だった。ポーレットは寝間着を着てベッドで寝転んでいたのだ。そこは間違っても薄暗く冷たい路地ではなかった。
悪い夢を見たのだ。自分が刺されて死ぬ夢。
あまりにもリアルで、痛みすら伴ったのに、あれが夢だったとは。
冷や汗を掻き、浅く呼吸を繰り返す。
やっとベッドから抜け出し、着替えて部屋から出た。
食堂ではいつもと同じ、ポーレットの食事だけがポツリと置かれている。席に着き、味のないポリッジに砂糖を少し加えた。それを食べていると、珍しくシュゼットがやってきた。
「もう! ジルダったらつまずいて私のトーストを落としたのよ! 本当にどんくさいんだから!」
厨房の方で怒鳴っている。確かにメイドのジルダはどんくさいかもしれない。つい最近も同じことをしたばかりなのに。
プリプリと怒りながらやってきたシュゼットは、ポーレットに気づくなり不機嫌な顔を改めた。ニコニコと笑って大きな独り言を言う。
「今日はアントンのところにお呼ばれしてるから新しいお洋服を着たけど、もうちょっとフリルがたっぷりあったらよかったのに。この辺りが寂しい気がするわ」
ポーレットが新品の服など誂えてもらえないことをわかっていて、わざと聞こえるように言っているから性格が悪いというのだ。
今まではそんなものを羨ましいと思うことはなかった。諦めていた。
けれど今は、再びランベールに会った時に見すぼらしくない恰好でいたかった。だから、綺麗な服がほしかったし、髪飾りや靴もあればいい。
この前もシュゼットはアントンのところに行くから新品の服だったはずだ。いくらアントンがシュゼットの狙っている男の子だとしても、招かれるたびに服を新しくしていられるほどうちは裕福ではない。
そう考えてふと、変だと思った。
シュゼットが着ている服は新品ではなかった。この前下ろして、そしてその日のうちに胸元に紅茶の染みをつけて帰ってきた。白だから、とても元通りに染み抜きはできないと言われて泣いていた。
まったく同じドレスだった。また同じものを作ったのか。作るなら何故、もっとフリルを増やしてほしいと頼まなかったのだろう。
妙な違和感――いや、既視感があった。
そう、あれはランベールと出会った翌日だったから、丁度二週間前だった。二週間前の朝、今と同じことがあった。
ポーレットはスプーンを持ったまま固まってしまった。
まさかとは思うけれど――確かあの日はこの後、ヴァレリーが来てこう言ったのだ。
『アントンがあなたに気があるって、見ていてすぐにわかるわ。でも、あの品のないタチアナに邪魔されないようにね。大丈夫、あなたは誰よりも可愛いわ』
そして、シュゼットは得意げになって身をくねらせる。
『知ってるけど、でも向こうからはっきり言わないうちにわたしからは何も言わないわ。そんなのはしたないでしょう?』
『そうね。まだ若くとも慎み深い女性ならね。でも、タチアナがアントンを誘惑しようとしたら見ているだけでは駄目よ』
――どれだけタチアナが悪女なのだと呆れたものだ。
タチアナはごく普通の子供らしい可愛い子だ。素直な可愛らしさにアントンも好意を寄せている気がする。むしろその邪魔をしてるのがシュゼットだ。
ヴァレリーとしても、同格の男爵位であっても生活にゆとりのあるアントンの家を押さえておきたいのだ。シュゼットが夜会に出てもっといい家柄の男がつけば捨てるかもしれないが。
ただ、シュゼットは純粋かどうかは別として、打算だけで追いかけているのではなく、アントンは整った顔立ちをしているから好きは好きなのだと思われる。幼い憧れだ。
ぼうっとそんなことを考えていると、ヴァレリーが来た。
「アントンがあなたに気があるって、見ていてすぐにわかるわ。でも、あの品のないタチアナに邪魔されないようにね。大丈夫、あなたは誰よりも可愛いわ」
シュゼットは得意げになって身をくねらせる。
「知ってるけど、でも向こうからはっきり言わないうちにわたしからは何も言わないわ。そんなのはしたないでしょう?」
「そうね。まだ若くとも慎み深い女性ならね。でも、タチアナがアントンを誘惑しようとしたら見ているだけでは駄目よ」
えーっ、と照れたふりをするシュゼット。
「…………」
まったく一緒だった。
この親子の行動パターンにバリエーションがないことは薄々気づいていたけれど、本当にひどい。よく飽きないものだ。
二人はポーレットを完全に無視しているようだけれど、実はとても意識しているのを知っている。
ヴァレリーはシュゼットの肩を抱き、髪を撫でながらポーレットをチラリと見て薄く笑う。ポーレットが羨んだり惨めな思いをしていると想像して喜んでいる。
これもまた、二週間前と同じだった。
つき合いきれないとばかりにポーレットは朝食を終えて立ち上がる。
廊下を歩いていると、ジルダが新聞を持ってポーレットを追いかけてきた。
「丁度良かった! ポーレットお嬢様、こちらをどうぞ」
ありがとうという意味を込めて笑い、新聞を受け取る。
この新聞は昨日のだ。毎回、一日遅れでポーレットに手渡される。
世相を知るためにとか、そんな高尚な理由ではなく、単に新聞の連載小説を楽しみに読んでいるだけだった。その当日は父が書斎から出さないので、翌朝になって新しいものと取り換えられた後にしか読めないのだ。
ポーレットは新聞を持って部屋に戻る。
ベッドが目に入るとあの生々しい夢を思い出してゾッとした。
それを振り払いながら新聞を開く。インクの匂いを嗅ぎながら小説を読む。
推理小説の、丁度犯人が名指しされる直前なのだ。犯人は誰だろうと気になって仕方がない。
いそいそと読み進めると――。
おかしい。
連作短編の〈鴎の子〉というタイトルが、その前に連載されていた〈七つの犯罪〉に戻っている。これはもう終わった。犯人は伯爵の弟で、最初から怪しいと思っていたから意外性がなくて物足りなかった。
新聞の日付を見ると、五月七日とある。二週間も前の新聞だ。
やっぱりジルダはおっちょこちょいだなと苦笑した。
けれど――ポーレットが読んだ後、家族は誰も読まない。ここからさらに使用人に下げ渡される。字を読めない使用人もいるから、読むばかりではなくて火を起こす時に燃やされたり、そんな使い方だ。
どうして二週間も前の新聞が今更混ざったりしたのだろう。
それにしても、二週間も前の新聞なのに随分綺麗だ。インクの匂いもまだ強く残っている。
思わず首を傾げたくなることばかりだ。
同じやり取りをする継母と異母妹。読んだ覚えのある新聞。
――朝から奇妙なことばかりが起こっている。
この時ふと、〈五月七日〉という日付と連動して思い出された言葉があった。
『もし、今日が何日だかわからなくなる日があったら、必ずここへ来てください』
あの服飾店の店主が不可思議なことを言った。
これは一体どういう意味なのだろう。
無性に胸が騒ぐ。何かがおかしい。
ポーレットはいつもの小冊子を抱え、あの服飾店を目指して屋敷を抜け出した。