◇3
ランベールはポーレットを急かし、路地を引き返したかと思うと二、三度折れてどこかの店の中に入った。
明るい照明のある店は、二人を迎え入れる。
ふんわりと薔薇のようないい匂いがした。そこは煌びやかな世界だった。
マネキンが着たドレスが何着も飾られている。それらはポーレットが着ているみすぼらしいものとはまるで違い、スパンコールやビーズ、上質なフリルが縫い留められている。
「いらっしゃいませ、お客様――あら、ランベール様ではございませんか」
店主らしき五十歳ほどの凛とした女性が、下げた頭を上げた途端に相好を崩す。彼女の年齢に合った藍色のシックなドレスがよく似合っている。
「近くまで来たんでな。マダムにちょっと頼みがあって」
そこで腕の中のポーレットに目を向ける。
店主は一度だけ目元をキュッと狭めた。ポーレットの有様を見て、何が起こったのかを察したのだろう。目の奥には暴漢に対する怒りが燻っているように感じられた。
「彼女に新しいドレスを見繕ってくれ。あんまり時間がないから、急ぎで」
これにはポーレットが驚いてランベールの腕から飛びのいた。
「受け取れませんって言いたいのか? 細かいことは気にするな」
けれど、ポーレットは力強くかぶりを振った。声の代わりに空気が漏れる音がするだけだ。
今日はもう、いろんなことがありすぎて感情の制御が利かなくなった。何故だか、今になってまたどうしようもなく涙が滲む。
これにはランベールの方が怯んだ。
その時、店主が背中からポーレットの両肩に手を置いた。
「ではせめて、破れているところを直しましょう。それでいかがですか?」
この申し出の有難さに、ポーレットは少し泣いてしまった。手の甲で涙を拭い、うなずく。
店主は優しく微笑んでくれた。
「――というわけですので、ランベール様はそこでお待ちください」
「でもなぁ、直るか?」
それから、直しても仕方がないような服だ。口に出して言われたわけでもないのに、そんなふうに思われている気がした。
「あら、私の腕をお疑いですか?」
わざと怒ったふうに言ってみせる彼女はとても素敵だった。ランベールもクッと小さく笑い声を立てる。
「悪い。頼んだ」
「はい、畏まりました。ではお嬢様、こちらへ」
店主はポーレットをそっと誘導し、カーテンの帳の向こうに連れていった。そこで手首にピンクッションを着け、ササっと支度をする。
この時、店主は状況に似合わないことを訊ねた。
「今日は何月何日だと思いますか?」
ポーレットは戸惑いつつも指を立てて数字を作る。
『五月、七日』
「……わかりました。ありがとうございます」
なぜ急に、それも話せないポーレットに日付を訊くのか謎だった。
けれど、店主は困ったようにつけ足した。
「もし、今日が何日だかわからなくなる日があったら、必ずここへ来てください」
もっとよくわからなくなることを言われた。
わからないなりにうなずいておく。からかわれているようには感じなかったから。
「失礼しますね」
店主はそんな質問のことは忘れたかのように、そう断ってポーレットの肌着とドレスとの間に手を滑り込ませて手早く縫い始めた。
手は止めず、流れるように針を動かしながらも店主はポーレットに話しかける。
「嫌な思いをされたご様子ですが、ランベール様がいらっしゃってようございました。あの方は一見乱暴そうに見えるかもしれませんが、曲がったことが大嫌いで女性や子供には優しいお方ですから」
ポーレットを助けてもなんの得もないのに、それでも助けてくれた。こうして後の面倒まで見てくれている。本当に優しい人だ。
これまで、男性に優しくされた覚えはない。こんなふうに大事にしてもらったのは初めてだ。
針を動かす店主に、胸の鼓動が伝わってしまわないかと緊張した。それくらい、ポーレットの胸は今、高鳴っていた。
「さあ、できましたよ」
本当に、何事もなかったかのように綺麗に縫い合わさっている。まるで魔法のようだとさえ思った。
感謝を声に出して言えないから、ポーレットは店主に軽く抱きついた。店主はその背中をポンポンと叩いてくれる。
「私はただの服屋ではございますが、あなたが幸せに過ごせますようにお祈りしています」
今日は嫌なことがあったのに、それと相反して人の優しさにも触れた。
人生は本当にわからない。
ポーレットは、店主と一緒にランベールの前に出た。
ランベールはほっとしたように見えた。
「さすがマダム」
「朝飯前というやつですので、お代は結構です」
ホホホ、と笑っている店主はやはり素敵な人だった。
いつか恩を返したいと思う。ポーレットは深々と頭を下げた。
「ありがとな。また来る」
「ええ、お待ちしておりますわ」
ポーレットはランベールにジャケットを返した。ランベールはそれを羽織ると、ポーレットの手を取った。
「行くぞ」
慌てたのは、引っ張られたからではなく、手を繋いだからだ。向こうにとっては深い意味もないのだろう。
それなのに、ポーレットは意識せずにはいられなかった。手に心臓が移動したような気分だ。
薄暗さが増した道を二人で歩く。
「あんた、あんまり一人で出歩くなよ。危ないから」
そんなことを言われた。手を繋いでいるから、小冊子が開けないけれど、手を放してほしくないとも思った。
「自分で思ってるよりずっと、危ないんだよ」
重ねて言われた。
ポーレットが喋れないから、ランベールが一人で話すしかなくなる。
返事もできなくて、それがとても申し訳なかった。ごめんなさい、と心の中で謝る。
すると、不意にランベールがポーレットの目を見て言った。
「あんた今、喋れなくてごめんなさいとか考えただろ? そんな顔してる」
――どうして言い当てられたのだろう。驚いた。
初対面の人に言い当てられるほど、ポーレットの感情は常に顔に出ているのだろうか。
戸惑っていると、ランベールは目を逸らさないままで続けた。
「喋れないのはあんたのせいじゃないのに、謝るのは変だ。そういうのは要らないから、堂々としてろ」
あんたのせいじゃないと。
そんなふうに言ってくれた人は誰もいなかった。
それを言ってほしいと思ったことすらない。
ポーレット自身が自分のせいだと思い込んでいたのだから。
自分は悪くないのだと、そんなふうに考えたことがなかった。
だから、急に目の前の霧が晴れたような気がして、目頭が熱くなった。涙を堪えていると、それをランベールも察したようで、ポーレットを直視するのをやめた。
「あんたの屋敷はこっちだったな」
空に向かって言うと、励ますようにもう一度強く手を握った。
こんな人がいるのだと、ポーレットはこの世界に初めて感謝した。
屋敷のそばに来ると、ランベールとの別れが近づく。
それが身を裂かれるほど悲しかった。
この人ともっと一緒にいたい。彼のことを知りたい。
切実な願いだった。
「ここまで来たら大丈夫か? 男が一緒だと親がびっくりするしな」
そう言ってランベールが手を放した時、ポーレットは自分でも驚くほど胸が痛んだ。
もしかすると、それも顔に出ていたのだろうか。ランベールは少し困ったような表情を浮かべ、ポーレットの頭に手を載せた。
「じゃあな、ポーレット。これからは気をつけろよ」
優しく名前を呼んでくれた。それだけで涙が零れそうになる。
この十数年、涙なんて枯れて出なかったはずなのに、今日はおかしい。
もう暗いから、小冊子を使ってもよく見えないだろう。何も伝えられない。
感謝も、再会の約束も、この気持ちも。
去っていく背中を、ポーレットは精一杯の気持ちを乗せて見つめた。
ポーレットが出てきた時と同様にこっそりと裏口から戻っても、誰も気に留めなかった。いなかったことすら気づかれていないのかもしれない。
部屋でぼんやりと、熱に浮かされたように横になって夜を迎えた。
言いようのない幸福感と切なさだった。