◇20
ボートから降りて二人で桟橋に上がると、あんなにも綺麗に晴れていた空が曇り始めた。
そこから急激に暗くなっていく。
「雨が降りそうですね」
空を見上げてつぶやいた。それに対するランベールからの返事がなかった。
どうしたのかと、ふと傍らのランベールを見上げる。すると、ただ一点を見つめて固まっていた。
桟橋に向けてゆっくりと歩いている細身の少女――。
「シュゼット?」
どうしてここにシュゼットがいるのだろう。
友達と遊びに来たのかと思ったが、そんなふうにも見えなかった。
いつもと様子が違う。なんというのか、とても薄暗い。
髪もところどころほつれていて、青白いほど白い肌と細い体が幽霊のようだ。
そう見えるのは、急に暗くなった天気のせいばかりではない。
家を出てから一度も会っていない。家にいた時、シュゼットは口の利けないポーレットと積極的に関わろうとしていなかった。今になってポーレットに会いに来たのなら、やはり家のことだろう。
ポーレットが駄目ならシュゼットをメルレ伯へ差し出すことくらい、あの父ならやるかもしれない。
――可哀想だなんて感じる必要はあるのだろうか。
シュゼットがポーレットにこれまで何をしてくれたというのだ。
困った時に泣きつかれても助けてやりたいと思うわけではない。
それでも、涙を流して謝られたら心が動くものだろうか。
彼女だけが悪いわけではないのだから。
どうすべきだろう、とポーレットは無言で固まっていた。
シュゼットはゆっくりと歩み寄ってくる。ランベールに失礼なことも言うかもしれない。
ただ、この時、ランベールの様子もやはりおかしかった。
青ざめ、引きつったような呼吸を繰り返しいている。顔には汗が浮いていた。
唇が、誰かの名を呼ぶ。その名はシュゼットではない。
何故かこの場にはたった三人しかいないような気になった。鳥も魚もすべて死に絶えた世界のように。
不安になりながらもポーレットはシュゼットに問いかける。
「あなた――」
再び声をかけた時、シュゼットの肩がピクリと動いた。
「あなた、一人で来たの? お母様は?」
ヴァレリーは大事なシュゼットを一人で歩かせたことなどなかったはずだ。
そうなると、やはり一人で飛び出してきたのか。足元を見ると靴が汚れていた。
可哀想だなんて思わなくていい。そのつもりだったのに、ツキリと胸が僅かに痛んだ。
けれど、この時、シュゼットは獰猛な獣のように動いた。ポーレットが引くこともできないほど素早く、細い指がポーレットの喉に食い込む。
「シュ、シュゼットっ?」
同じ背丈の異母妹の目は焦点を結んでいなかった。そして、指が氷のように冷たい。
これは――。
「死ネ」
青い唇から発せられた声は、子供っぽいシュゼットのものではなかった。薄暗く、ねっとりと耳に絡む。
シュゼットの指先が、グッと喉を締めつけた。
「っ!」
この時、ランベールはまったく身動きが取れないようだった。蝋人形のように固まっている。まるで彼の時間は止まってしまったように。
それでも、ポーレットは必死で抵抗した。シュゼットの頬を平手でバシンッと叩くと、シュゼットの指が緩んだ。その隙を逃さずに薄い胸を突き飛ばす。
ハア、ハア、と荒く息を乱しながら、ポーレットは倒れたシュゼットに言う。
「あなた、シュゼットじゃないわね」
シュゼットは、操り人形のような奇妙な動きで立ち上がった。やはりその目はどこを見ているのかわからない。
「ドウシテ死ナナイ?」
「えっ?」
「殺シタイノニ」
「あなた、誰なの? どうして私を殺したいの?」
「……憎イカラ」
シュゼットに憑依している〈何者〉かが、シュゼットの口を使って憎悪を吐く。その唇がブルブルと小刻みに震えていた。
「わ、私には憎まれる覚えはないわ!」
ポーレットはひっそりと日陰に生きてきた。それだけのことで誰に恨まれるというのだ。
けれど、彼女は言った。
「オ前ハ、出会ッテスグニ、コノ人ノ心ヲ手ニ入レタ」
「えっ?」
「スグニワカッタ。死ンデモ、コノ人ヲ、ズット見テイタカラ」
「それは――」
ランベールのことだろう。
だとするなら、シュゼットに憑依している亡霊は、ランベールを一途に思い続けた女性なのか。
心身共に弱り果てるほど待ち焦がれて、それでも手に入らなかった人が誰かに心惹かれたのなら、その相手を殺したいほど憎むものなのかもしれない。ポーレットもランベールが誰かに心変わりしたら、ランベールではなく相手の女性を恨むようになるのだろうか。
強い愛情がこの世への未練となって、彼女はまだ天上へも地獄へも行けない。
あの時、路地裏でポーレットを刺して殺したのも彼女なのだろう。無差別ではなく、ポーレットを狙って殺した。
あまりにも悲しすぎる結末に、ポーレットの方まで身につまされる。
殺されてあげるつもりはないが、気持ちだけは寄り添っていた。
「コノ人ハ、誰モ愛サナイハズダッタ。ソレデヨカッタノニ」
誰のものにもならない、そう思うことで気持ちを慰めていたところにポーレットが現れた。
憎い憎い恋敵だ。自分は死んでしまったのだから、お前も死んでしまえと願った。
その強い思いに突き動かされたのだ。
シュゼットの目からポロポロと涙が零れる。彼女は、報われなかった恋心そのものだ。
ただ、悲しい。
ポーレットもまた自然と涙を流していた。
「あなたは本当にランベール様のことを想っていたのね。でも、それは私も同じだから。ごめんなさいとは言わない。あなたはそんなことを言ってほしくないでしょう」
戸惑い、彼女の瞳が揺れた。
「残念だけれど、私がいてもいなくても、あなたが生き返ることはできないから。それよりも、生まれ変わって今度こそあなたが幸せになれますように」
他人事ではない。
誰しも願い通りの人生を生きられるわけではないのだ。
あと少し、彼女が生き永らえていたら、ポーレットの方が悲しい恋をしたのかもしれない。
すぅっと息を吸い込み、ポーレットは彼女の心が安らぐような歌を歌った。
優しく、子守歌のように。
シュゼットは、そのまま体を支えきれずに倒れた。それが彼女が離れていった証拠なのだと思えた。
ちゃんと息はしている。むしろ、ほんのりと血の気が戻ってきたように見えた。
この時になって、ランベールも片膝を突いた。呼吸が荒い。
「ランベール様、大丈夫ですか?」
シュゼットを気にしながら振り向くと、ランベールは軽く頭を振った。それから、倒れているシュゼットを見て息をつく。
「……体が急に動かなくなって、亡霊を見た気分だ。あんたの歌が聞こえて我に返った」
ランベールにはシュゼットが亡くなった彼女に見えていたのだろうか。
今、何が起こっていたのか、そこにいながらにしてよくわかっていないようだ。
「その倒れている子は? 何があったんだ……」
それが亡霊の力だとして、ポーレットがその気にあてられなかったのは魔女の血と少しくらい関係はあるのだろうか。
彼女のことを話すべきか逡巡してやめた。彼女がポーレットを殺そうとしたなんてことは知らない方がいい。
「何が起こったのか、私にもよくわかりません。この子は妹です。仲がいいとは言えませんが」
苦笑しながらシュゼットの額に手を当てる。特に異常はないようだ。
この時、シュゼットがハッと目を開けた。自分を覗き込んでいるのが大嫌いな姉であると気づき、顔をしかめると思った。けれど、この時のシュゼットは見る見るうちに涙を溜めて泣き出した。
「シュゼット?」
ヒク、ヒク、としゃくり上げるシュゼットは小さな子供のようで、ポーレットはなるべくそっと問いかける。
「どうしたの? どこか痛いの?」
亡霊に体を乗っ取られていたのだ。不調があったとしても不思議はない。
シュゼットは目元を手で隠しながら、起き上がりもせずにつぶやく。
「怖かった。わたし、お姉様を殺そうとした……」
自分の意思ではなかったはずだが、シュゼットは覚えているらしい。
どうしたらいいのだろうかと、ポーレットは戸惑いながら答える。
「大丈夫よ。私は生きているでしょう?」
シュゼットの髪を撫でてみる。
思えば、家にいた頃はこんなふうに互いに触れたことはなかったかもしれない。
それでも、シュゼットは泣いていた。
「わたし、お姉様が嫌いだった。だって、綺麗な恰好をすれば、わたしよりもずっと美人だから、それが悔しくて、お姉様に勝てるものを探して、いつもお姉様に見せびらかしてた……」
シュゼットがそんなことを考えていたなんて思いもしなかった。ただ驚いているポーレットの肩をランベールがそっと叩いた。
「嫌な妹でごめんなさい。でも、死ねばいいなんて、そこまで思ってなかったつもりなのに。わたし……っ」
ポーレットも、ヴァレリーに可愛がられているシュゼットのことが本当は羨ましかった。だから嫌いだった。
二人は似ていないようでいて、やはりどこか似ているのかもしれない。
そう考えたらほっとした。
「あなたが私を殺そうとしたわけではないって、私はちゃんとわかっているから。本音で話してくれてありがとう」
この言葉に嘘はなかった。
そうしたら、シュゼットは手を退け、赤くなった目でポーレットを見た。
「お姉様の声、初めて聞いたわ。とても優しい声ね」
「ありがとう。こうしてあなたと話せて嬉しいわ」
「今までごめんなさい……」
ポーレットはおずおずと手を伸ばし、シュゼットの手を握った。
妹に向けて微笑み、小さくうなずく。
この時から、姉妹の蟠りは少しずつ解けていくのだと思いたかった。




