◇2
ポーレットはいつも、藍色の表紙の小冊子を持ち歩くようにしていて、そこには母国語の二十六の文字が並んでいる。
いざとなったらこれを開き、文字を指さして相手に意思を伝えるのだ。
ある意味、ポーレットは自由だった。誰にも縛られない。誰もがポーレットに無関心だった。
こんな人生があとどれくらい続くのかな、とぼんやり考える。
今日は公園のベンチに座り、咲いている花を眺めた。小さく可愛らしいブルースターの花が咲いている。本当に星の形をしていて、闇色をしたシーツの上にちりばめてみたくなる。
他の花も咲いているのにブルースターに目が行くのは、控えめで目立たないからせめて自分くらいはちゃんと見てあげようという気になるからかもしれない。
花をぼうっと眺めていると、いつの間にか足元に黒猫がいた。ポーレットの体に合っていないドレスの裾に体を擦りつけて甘えた声を出す。
ポーレットは微笑み、猫を撫でて膝に乗せた。ちっとも似合わないドレスなんて汚れてもよかった。猫の体温が心地いい。
猫もポーレットの膝で微睡む。日向ぼっこをしてる老人になった気分だった。
時間はたくさんあるのに、使い道がない。そんな毎日だ。
これを繰り返しているうちにすぐ若さは失われ、本当の老人になっていくのだろう。だとしても、それも仕方がないのか。
考えても解決しない問題を抱えながら、ポーレットが身じろぎすると猫が膝から飛び降りた。あんなに気持ちよさそうに寝ていたくせに、猫はもうポーレットを顧みもせずに去っていった。気ままさが恨めしいのに、可愛いから憎めない。
そんな猫につき合っていたせいで遅くなってしまった。
さすがに、日が暮れる前には帰らないと。
ポーレットは小冊子を抱えながら家に向かって歩き始めた。
けれど、建物の横を通り過ぎた時、後ろから肩に手を置かれた。
「っ!」
驚いて振り返ったが、そこにいたのはくすんだ金髪の、まったく知らない青年だった。
身なりはそう悪くない。貴族ではないにしても、それなりに裕福だ。商家の息子といったところだろうか。目と目の間隔が少し狭い。
笑顔ではあるけれど、作り笑いにしか見えなかった。
「あなた、ミシリエ男爵家の御令嬢でしょう? お一人でどうなさいました?」
そんなことを言われた。ポーレットは慌てて小冊子を開き、そこにある文字を指さして思いを伝えようと試みた。
けれど、青年は頭を掻くばかりだった。
「喋れないんでしたっけ? それじゃあ何が言いたいのかわかりませんよ」
最初から読み取る気がないのがわかった。それなら、こちらも無理をして伝えなくてもいい。
そう思ったのに、青年は急にポーレットの手首をつかんだ。さっきもそうだったけれど、簡単に令嬢の体に触れるその無遠慮さに驚く。
「ああ、そうだ、こっちにペンとインクがありますから、書いてくださいよ。そうしたらわかりますから」
帰りが遅くなるから結構ですと伝えたかった。けれど、片手ではどうすることもできずに青年に引かれるまま、そばにあった建物の中に入った。看板には〈バール〉とあった。軽食や酒を提供する店だ。
ポーレットには縁のない場所だった。準備中のようで、営業している気配はない。日が暮れ出した店内は薄暗い。
青年は急にポーレットの背中を突き飛ばした。とっさに受け身も取れず、肩から硬い床に倒れ込んだ。痛いはずが、驚きが勝って痛みが鈍かった。
「へぇ。悲鳴も上げねぇって、本当に口が利けねぇの?」
その声はカウンターの中からした。ポーレットが立ち上がろうとすると、カウンターから二人の男が飛び出してきてポーレットを追い詰めるように近づいてきた。
恐怖のあまり、喉からくぐもった声が漏れるけれど、やはりそれは言葉にならない。這いながら後ろに下がるのが精一杯だったが、やがて壁にぶつかった。
男たちはポーレットの顔に浮かんだ恐怖を眺め、嗜虐的な笑みを浮かべる。
「貴族令嬢のくせに毎日一人でフラフラ男漁りしてるっていうから、どんな女かと思ったらまあまあ美人じゃねぇか」
「こんな娼婦みてぇに胸とケツと強調した格好で誘ってりゃ、いくらだって寄ってくるよな」
服のサイズが合っていないのは、シュゼットのお下がりだからだ。こんな屈辱的な目に遭うために好き好んでしているわけがない。
「声が出ないなんてつまらないけど、やかましく騒ぎもしないからまあいいか」
怒りと羞恥で顔を真っ赤にしていると、肩を厳つい手で壁に押しつけられ、ドレスの胸元が破られた。けれど、布地の裂ける音は聞こえなかった。
それと同時に、扉が爆発したような大音量を立てて開いたから。
ポーレットをここへ連れ込んだ青年は、見張りのつもりか扉のそばにいたために押し潰されて相当痛かったらしい。床に転がって見悶えていた。
「おっ、お前は……っ!」
ポーレットを捕まえている男がそれ以上何も言えなかったのは、舌を噛んだからだろう。つま先ですくい上げるような痛烈な蹴りが腹部に入っていた。もう一人も頬を張られ、床に白い歯が散らばる。
それでも闖入者は容赦なかった。三人の意識が飛ぶほどに殴る蹴るの暴行を加えていた。その背中は広く、逞しかった。
助けてくれたのかと一瞬思ったけれど、これがただの獲物の取り合いだったらどうしようか。
ポーレットは破れた胸元を押さえつつ、壁際で縮こまる。
その時、闖入者が肩で息をしながら振り返った。
「あんた、大丈夫か?」
明るい茶色の髪を軽く掻き上げて問いかける。
整った顔立ちなのに、どこか野性味があった。そう見えるのは青い目に宿る力強さからだろう。
着ている服はシルクのシャツとジャケットだが、襟を広げて着崩している。労働者階級ではないかもしれないが、おっとりとした貴族のお坊ちゃまという感じでもなかった。
あんた、なんていう乱暴な呼ばれ方をしたのは初めてだ。
頷いてからうつむく。胸元の破れたドレスが目に入って、無性に惨めな気分になった。この格好で家に帰らなくてはいけないのか。
泣いても仕方ないと思うのに、先ほどの恐ろしさも遅れて合わさり、ポロリと涙が零れた。無言で肩を震わせていると、助けてくれたらしき青年が前に屈み込んだ。
「もう何も怖いことはない。家まで送っていってやるから」
その言葉と同時に、着ていたジャケットをポーレットに被せてくれた。呆然と目を見開くと、青年の目がポーレットをじっと見据えていた。海のように深くて吸い込まれそうな目だ。堂々と、心を隠さない人だと思えた。そこに下心はない。
それを感じた瞬間に、ポーレットの体から力が抜けた。
「こいつらが起きる前に行くぞ。あんた、家はどの辺りだ?」
どんなに訊ねても、ポーレットは答えられない。落とした冊子を急いで拾うと、それを広げて〈会話〉を試みる。
『たすけてくれてありがとう。わたしははなすことができません』
指が文字をなぞる。
青年は一度も首を傾げることすらなく意味を理解してくれた。
「そうなのか。だから狙ったんだとしたら、こいつらクズだな」
と吐き捨て、鼻の頭に皺を寄せた。
体の大きな人なのに、不思議と怖いとは思わない。ポーレットは続けた。
『ひとりでかえれます。ふくもおかえしします』
すると、青年は軽く首を振った。
「そんな恰好で暗くなった町を一人で歩いて帰ったらどうなるか。さっきの二の舞だぞ。俺のことが信用できないのなら……そうだな、俺はエルランド海軍大尉ランベール・プランシェ。まあ、軍人だ」
それで強かったのだ。
いかにこの国が現在平和であって、海兵が哨戒以外の仕事をしていないとしても、万が一に備えて鍛えているのだろう。いや、帆船は運航するだけで楽な仕事ではないのかもしれないが。
ポーレットがほっとしたのがランベールにも伝わったようだ。にこりと笑った。
こういうわかりやすい表情をする人は初めてかもしれない。
「あんたの名前は?」
『ポーレット・ミシリエです』
指先が伝える言葉に、ランベールはうなずいた。
「ああ、わかった。あんたはミシリエ男爵家の令嬢か」
グッと喉が絞めつけられたような苦しさが込み上げる。
話せないミシリエ男爵家の長女の噂はあちこちに聞こえているのだろうか。
ポーレットは渋々うなずいた。
「家はわかったから、送っていく。でも、その恰好じゃマズいな。醜聞が命取りになるかもしれない」
これでも貴族の令嬢だから、傷物と噂されたら嫁にも行けなくなると気を遣ってくれているらしい。
元々、何ひとつ期待されていない身なのに。
「ほら、行くぞ。こっちだ」
「っ!」
ランベールはポーレットの手をつかもうとしたが、片手には小冊子、もう片手は胸元を押さえている。どちらの手もつかめずにランベールはポーレットの肩を抱いて立ち上がらせた。片手なのに結構な力だった。
ランベールの腕の中にすっぽりと収まってしまい、ポーレットは慌てたが、ランベールはポーレットを見ずに言った。
「早くここから出るんだ」
倒れていた男が小さく呻いた気がして、ポーレットはギクリと体を竦ませたが、ランベールがいるだけで先ほどよりもずっと心強かった。まったく知らない他人なのに。