◇18
天気のよい日は庭で歌うのが日課になりつつあった。
メイドたちもお嬢様の歌が聞けると嬉しいと言ってくれるのがポーレットにとっても嬉しい。
悲恋の歌詞は歌わない。今の心境にピッタリすぎて悲しくなるから。
幸せな気分になれるように、明るい優しい歌がいい。
こうして歌えるだけで、声が出なかった昔よりはずっと幸せだと思いたいから歌っていたのかもしれない。
今はそう、テスという味方がいてくれる。怖いことも寂しいこともないと自分に言い聞かせた。
そこにランベールがいてくれたら、と願わずにはいられないけれど。
未練だな、と歌い終えてから目元を擦った。そうして顔を上げた時、垣根の向こうにランベールの姿が見えた。
幻を見るようになってしまった。どうしよう。
けれど、幻ならせめて笑ってほしかった。ランベールの表情は硬い。
ポーレットがぼうっとしていると、目の前のランベールは気まずそうに垣根を越えてきた。
「……メルレのじいさんがあんたを嫁にするって言いふらしてるぞ。あんた、正気か?」
幻ではないらしい。
メルレ伯との噂の真偽を確かめに来たのだとしたら、少しくらいはポーレットのことを気にしてくれていたのだろうか。そんな期待は抱かない方がいいのだとしても。
「先方と父が勝手に決めたことで、私は承知していません」
精一杯、動揺しないように心掛けた。少しくらいは笑顔らしきものも作れた。
そのつもりだが、ランベールは笑い返してくれなかった。
「自暴自棄になったわけでも、ランベール様への当てつけでもありませんからご安心ください。これは私の問題で、自分の面倒は自分で見ますから」
それでいいと返されると思った。
泣いても気を引ける相手ではない。それどころか余計に嫌われてしまう。
ランベールはポーレットが頼っていい相手ではないのだ。
涙は見せない。後で隠れて泣くかもしれないけれど。
ランベールはポーレットの言葉にうなずかなかった。苦々しい面持ちになっただけだ。
「誰も頼らずに全部自分で背負い込めという意味じゃない。向こうはあんたのために随分金を出したみたいなことを言っていたが?」
「それは……父との間のことで、私が援助を頼んだわけではありません。私が嫁がなければ父たちは大変なことになるのかもしれませんが、それでも私はお断りします。私、冷たい娘ですから」
ランベールに好かれたいと思っても、家族を見捨てるような冷たい娘だから好かれないのだ。ランベールはポーレットのそんな性質を見抜いていたのだろうか。
そう思ったら悲しくて、不意に涙が滲みそうになってしまう。だから顔を背けた。
ランベールは、そんなポーレットを非難しなかった。
「本当に冷たいなら、見捨てたからってそんなふうに傷つかない。あんたを少しも大事にしない家族のことを気にかけて犠牲になる必要はないからな」
――だから、どうしていつも慰めをくれるのだろう。
自分のことを諦めて別の男のところに行けと言うくせに、諦めきれなくなるようなことを言うのは誰だ。
「どうしてそんなことを仰るんですかっ?」
この人を忘れようと必死なのに。
これ以上苦しみたくないのに。
感情が昂り、声が揺れる。
泣くな。今だけは強い自分でいたい。
ポーレットは顔を背けたまま、声もいつも以上に素っ気なかっただろう。
ランベールはポツリと零した。
「自分で突き放したくせにのこのこやってきて、腹立たしいか? 自分でも自分の言動が矛盾しているなんてことはわかってる」
怒って素っ気なくしているわけではない。弱い自分をこれ以上見せたくないだけだ。
ポーレットの方が困惑しながらランベールを見遣ると、彼は前髪を掻き上げて深く息をついた。
もどかしそうに顔をしかめる、そんな表情は初めて見た。
「あんたはセイレーンだな」
「えっ?」
「歌声で船乗りを惑わせて惹きつける」
ポーレットが目を瞬いていると、ランベールは一歩前に進み、ポーレットとの距離を縮めた。
その目はまっすぐにポーレットを見据えている。初めて出会った時と同じくらい鮮烈な目だった。
「毎日あんたの歌を聴いていた」
どういうことだろう。
ただ立ち尽くしていると、ランベールはさらに近づき、ポーレットの前に立った。
「毎日、この屋敷の前まで来ていた。でも、あんたが追い詰められていないか気にしているなんて、どのツラ下げて言えばいいのかわからなくて。……関わりたくないのに放ってもおけない」
ランベールの手がポーレットの肩に触れる。熱い手だった。
「一途な女ほど怖いものはない。深入りはしないつもりだったのに、あんたはいつでも助けを必要としていて、簡単に忘れさせてくれなかった」
「私は……」
「馬車の事故が起きたと聞いて覗いてみて、そこにあんたが倒れていた時の俺の心境があんたにわかるか? 道に倒れて、死んだように見えた。俺を追いかけて事故に遭ったんだ。俺は、自分の言動ひとつで左右されるあんたみたいな女が一番怖いんだよ」
「昔、何かあったのですか?」
思わずそう問いたくなるほど、ランベールの様子にゆとりがなかった。
苦いものを一気に吐き出してしまおうとするような口調だった。
「そうだ。まだ士官候補生だった頃、俺を好きだと言った女がいたが、俺はそんなものは本気にしてなかった。海に出たら何ヶ月も戻れない海兵相手だ。どうせ戻った頃には別の男とくっついてるだろうと思ってた。それが――」
「……ずっとランベール様を待っていたのですね?」
「思い詰めて病んで、病床でずっと俺のことを待ちながら亡くなったらしい。俺はそんなふうに待ってほしいなんて思っていなかったのにな」
他のことを何も考えられなくなるくらい、ランベールのことが好きだった女性。
死んで今もランベールの心に住み着くことができたのなら満足だろうか。
ポーレットだったらどうだろう。
――多分、嬉しくない。彼の綺麗な思い出の中にいたい。そんな形で縛りたいとは思わない。
その人は亡くなった後、ランベールの幸せを願っていてくれると思いたかった。
「私はあなたを好きになって、幸せな気持ちを味わいました。その方だってきっと幸せな時があったはずです」
目の前にいるのが逞しい軍人のように思えなくなった。人並みに傷つきやすい心を持っている。
ランベールの手が肩から離れた。その次の瞬間には視界が暗くなった。
痛いくらいに強く抱きすくめられている。息が詰まるけれど、放してほしいとは思わなかった。耳元で囁く声が少しずつ体を痺れさせていく。
「あんたが本気で別の男の方を向いたら、俺は邪魔をしたのかもな。あのじじいじゃなくても、誰でも、あんたが他の男に抱かれるのは我慢ならない」
「それは……あなたを好きでいてもいいということですか?」
ランベールの腕の中から問いかけると、絞めつける腕が緩んで、代わりに貪るような口づけが与えられた。
言葉ではなくともそこに確かな返事があったと言ったら、ランベールは笑うだろうか。
腰を支えられたまま、踵は浮いていて、いつの間にか腕をランベールの背中に回してしがみついていた。もう一度優しく抱き締められた後、ランベールはポーレットの背中をポン、と叩いた。
「最初から……話せないあんたと最初に会った時から、本当はずっと気になっていた。幸せそうには見えなかったあんたを護ってやれたらいいのにと思った。でも、あんたを知れば知るほど危うくて、近づきすぎるのも怖かった」
ランベールは、ポーレットを幸せにする自信がなかった。それでいて、幸せにしたいとも思ってくれていた。
葛藤していたのはこちらだけではなかったらしい。
「その本音を聞けて、今はとても幸せです」
「海に出れば会えなくて寂しい思いもさせるけどな」
「私が寂しいと思うのと同じように、ランベール様も寂しいと感じてくださるのなら、それを楽しみます」
「ふぅん。あんたのことを見くびっていたのは俺の方か」
そんなことを言って笑われた。その表情がとても愛しい。
「マダムには俺から言うから、まだ何も言うなよ」
「はい」
「あのじじいと親のことも、絶対に自分だけで抱え込むな。俺がいるから」
幸せ過ぎて、これは夢かなと思いかけた。
ランベールにギュッと抱きついて現実かどうかを確かめる。あたたかい鼓動が聞こえた。
誰よりもまず、母に伝えたい。
護ってくれてありがとう、と。