◇17
心にぽっかりと穴が空いてしまった。
この時になって気づく。
これまでの不遇も、死に伴う恐怖も、環境の変化も、すべてランベールへの恋心が緩和してくれていたのだと。
それを失ってしまったら、急に心が重たくなった。母が命がけで生かしてくれたのに、素直に感謝できない。なんのために生きているのか、それがわからなかった。
だから、誰がポーレットを狙っているのかを積極的に突き止める気力もなかった。屋敷にいれば、当座の危険からは護られているだろう、と。
テスはランベールが顔を見せなくてポーレットが落ち込んでいると、多分そんなふうに考えていた。
このまま説明しないでいると、テスはまた裏で手を回す。ランベールに顔を出してくれと頼むかもしれない。
苦しいけれど、ポーレットはテスに決意を告げる。
「私、ランベール様のことは諦めるしかないと思っていて……」
テスは怪訝な顔をした。
少し会えないだけで弱気になるポーレットの気持ちがわからないのだろう。
「どうして? 最初から難しい方だと言ったでしょう?」
「ええ。でもその言葉の意味をよく理解していなかったみたいです。今になってやっとわかりました。私には難しすぎる方のようです」
「本当にいいのかしら?」
念を押された。
ちっともよくないけれど、ポーレットがどれだけ好きだと思っても、ランベールはポーレットのことが嫌いなのだ。
こっくりとうなずいた。そうしたら、テスはそれ以上何も言わずにポーレットを抱き締めてくれた。
それがとても有難かった。
しばらくは感情が上手く整理できなくて、部屋に閉じ籠っているばかりだった。
だから、なるべく庭に出るようにしていた。庭で明るい日差しを浴びながら歌を歌う。
そうしていると、ほんの少し心が落ち着いた。あれからもう、夜会にも出ていない。気持ちが落ち着いたらまた行きましょうとテスは言ってくれているけれど。
そんな日が二日ほど続いた。
そして――。
父がこの屋敷へやってきた。
ポーレットを連れ戻しに。
「私はもう戻りませんとお伝えしたはずです」
玄関先で騒ぎ立てる父に辟易としつつポーレットが出て行くと、父はいきなりポーレットを睨みつけた。
今はもう、父を怖いとは思わなかった。
テスも悠然と構えており、どれだけ上から物を言ったところで父に勝ち目はない。
けれど、この日の父はいつもと少し違った。
押し殺した声で言う。
「それではいかんのだ」
「えっ?」
「お前はメルレ伯のところへ嫁ぐことになった」
メルレ伯とは誰だ。
大体、もう縁の切れた父にそんなことを決める権利はない。
ポーレットが愕然としていると、テスが怒りに震えていた。
「メルレ伯ですって? よくもまあ実の娘をそんなところへ……っ」
父の顔の筋肉が痙攣したように小刻みに動く。
「メルレ伯は、この前の夜会で見かけたポーレットをいたく気に入ってくださったそうだ。それで、我が家に多額の支援を申し出てくださった」
「借金を肩代わりしてくださったと、そういうことですか?」
テスの鋭い言葉に父はグッと呻いた。
ミシリエ男爵家が裕福ではないのはわかっていたが、そんなに借財が溜まっていたとは知らなかった。しかし、本人が不承知なのに話を進めてはどうにもならない。
「私はその方に嫁ぐつもりはありません。援助金はどうぞお返しください」
ポーレットも呆れ果てていた。そんなもの、承知するはずがないのに。
父の目が不安そうに揺れる。そんな目をしてみせたのは初めてのことだった。
「無理だ。ご不興を買っては我が家はどうなることか……」
もしかすると、無理に話を進めれば、テスが渋々ながらにポーレットのために和解金を払うと踏んでこんな話を持ってきたのだろうか。本当に、実父とはいえ情けなくて仕方がない。
娘の表情に蔑みを見たのか、父は矜持を捨てたようだった。
「私がお前に恨まれているのは仕方がない。だが、シュゼットはどうなる? お前の妹だ。あの子はまだ子供なんだ」
「お父様がシュゼットにも私にも関心がおありでないことくらい、ずっと前から知っています。お帰りください」
妹だと言うけれど、決して仲良くない姉妹だ。むしろ互いが嫌いで。
ただし、シュゼットがあんなふうに育ったのは当人のせいではないかもしれない。そのことだけは理解したいと思う。
十五歳は子供だというなら子供だ。路頭に迷うのは可哀想だけれど、だからといって自分を犠牲にはできない。
ポーレットは何か叫んでいる父を置き去りにして部屋に戻った。
「お父様にはお帰り願いましたよ」
しばらくしてテスが部屋にやってきた。
ソファーに突っ伏していたポーレットの肩をそっと撫でる。
「メルレ伯というのは、好色で残忍な老伯爵です。片手で足りないほどの結婚歴がおありですが、ろくな噂を聞きません。そんな方にあなたを絶対に渡したりしませんから」
実の親よりもテスの方に深い愛情を感じる。
それだけが今は救いだった。
「ありがとうございます、伯母様……」
欲張ってはいけない。こんなにも頼もしい味方がいてくれることを喜ばなくては――。
その日から、メルレ伯の名で花束や贈り物がポーレット宛てに届き始めた。
下着まであった日には不快を通り越して泣きたくなった。
テスも怒り心頭で贈り物はすべて送り返した。
生きていると、嫌なことがたくさんある。それを実感するために死に戻ったような気がしてならない。
つらい時に何を慰めにしたらいいのだろう。
ランベールに恋をしていたあの時の幸福感が懐かしい。