◇14
獰猛な犬を前に、ポーレットは驚きと恐怖で体が固まってしまった。
食べ物の匂いに釣られてきたところ、人が多いので潜んでいたのだろうか。
運悪く、ポーレットたちはそこへ近づいてしまった。
迷い犬に気づいた人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。そのせいで犬を余計に刺激した。
犬は喉が見えるほど大きく口を開き、ガウッと大きく吠えた。その声に体が竦む。
これは、ポーレットが命を落とした凶事とは別の不運だ。あの日に繋がる出来事ではない。
運命の日を回避するためにまったく違う道を歩み続けていると、別の危険に遭遇してしまうことは当然あるのだ。
この時、ドニスはというと。
ポーレットのやや手前に立っていたドニスは、ポーレットを庇って犬との間に立ち塞がる――なんてこともなく、顔面蒼白でポーレットを押しのけて下がった。
「ひっ! た、助け――っ」
ポーレットとドニスの肩が強くぶつかり、ポーレットはバランスを崩した。
倒れたら飛びかかられるとわかっていても、ヒールの高い靴では踏み留まれなかった。
ぼんやりした男性は、こんな時に女性を見捨てて我先にと逃げるらしい。こうした気弱な男性がポーレットには合っていると、ランベールは本気で思うのだろうか。
誰だってこんな狂犬が飛び出してきたら怖い。それを責めてはいけないとしても、護るふりさえしてくれなかった。
あの牙はきっと痛いだろう。体を傾けながら覚悟をしようとするが、できればそんな覚悟はしたくない。
犬が地面を蹴って躍りかかってきた。ポーレットは悲鳴すら上げられなかった。
「ポーレット!!」
目を瞑ってしまうと、ランベールの声が聞こえた。それも、ほとんど耳元で。
倒れ込むポーレットの体を背中から受け止めてくれたのはランベールだ。ハッとして目を開けると、ランベールは飛びかかってきた犬の口に自らの右腕を押しつけていた。犬の牙がランベールの腕を噛み砕くかに思えた。
けれど、ランベールはポーレットを横に押しのけると、噛みつかれた片腕で犬を押し戻し、猛る犬の頭に自分の上着を被せて抑え込んだ。頭部を覆われ、腹に膝でのしかかられた犬は憐れな鳴き声を立てるばかりになる。
草の匂い、血の匂い、獣の臭い。
それらが合わさって頭がぼうっとしてしまう。
あまりのことにポーレットは座り込んだまま立てなかった。
他の男性たちがランベールに加勢して犬を連れ去るまで呆然としていたが、やっと立ち上がってランベールに駆け寄る。
「ラ、ランベール様、腕がっ!」
焦っているポーレットに対し、ランベールは眉を顰めただけだった。
「とっさにテーブルにあったケーキナイフを仕込んで巻いたから、深く食い込んでない」
当人が言うように、ランベールの腕から細長い銀のケーキナイフが出てきた。機転が利くのと、荒事に慣れているのは軍人だからか。
「でも、血が……」
まったくの無傷ということもない。白いシャツには血が滲んでいる。
「犬の涎が混ざって、血が多く見えるだけだ。ああ、あんたの服も汚して悪かったな」
犬の涎とランベールの血が混ざり合ってスカートに点々と染みを作ったけれど、ポーレットが噛まれていたらそんなものでは済まなかった。
ランベールはケーキナイフを捨てると、何故か急にうつむいてフッと笑った。
そして、ポーレットではなくドニスの方にスタスタと歩み寄る。ドニスは怯えて立ち尽くしてた。
ランベールは、そんなドニスの胸倉を無事な左腕でつかんで揺さぶった。ドニスは、ひぁっ、と怯えた声を出している。それでもランベールの怒りは治まらなかったらしい。
「自分よりも弱い女を見捨てて逃げるなんざ、男のすることじゃねぇんだよ」
「す、すみません、でも、僕……っ」
ランベールはドニスの言い訳を聞くつもりはなかったらしく、腹立ち紛れに手を放した。そうしたら、ドニスはよろけてへたり込んだ。
「ランベール、あっちで手当てをするから!」
友人らしき青年がランベールに呼びかける。ランベールは軽くため息をついて屋敷の方へ歩いていった。ポーレットは緊張で硬くなった脚に鞭打って後を追う。
「ランベール様! 助けてくださってありがとうございます!」
それを言うと、ランベールは足を止めて振り返った。
「怪我がなくてよかったな」
笑顔ではない。どちらかといえば苦りきった表情だ。その理由は多分、助けないわけには行かなかったが、これでまたポーレットが自分を美化すると思うせいだ。
危機に駆けつけて勇敢に助けてくれる。これで好きになるななんて無理だ。
「あの、お礼がしたいので、またうちに来てください」
どうしても、この人のことが好きだ。
その気持ちは止められない。
ランベールのような人が身近にいて、ぼんやりした人を好きになるなんて、やっぱり無理だ。
けれど――。
「礼は要らないし、行かない。あんたはどうしてこう、すぐに厄介ごとに巻き込まれる? 俺はあんたの相手ばっかりしてるほど暇じゃない」
とてもはっきりと拒絶されたが、ここで引き下がったら終わってしまう。
ポーレットは必死で言った。
「でも、待ってます!」
ランベールは呆れたような目をして背を向けた。
駆け引きができないから、ただ全力で追いかけることしかできない。
その直後、ドニスが謝ってきたけれど、ポーレットは怒っていなかった。
何も気にしていない。ドニスのことはすでに頭の片隅に追いやってしまって、彼の居場所はポーレットの中のどこにもなかったのだから。
「あなたが無事でよかったです。もうルネの魔法はないのですから、くれぐれも気をつけてくださいね」
帰りの馬車の中でテスに言われた。
「ええ、ご心配をおかけしてごめんなさい」
謝るポーレットにテスは何故か苦笑する。
「まだ顔が赤いですよ。惚れ直したのも無理のないところでしょうか」
「えっ、そ、それはっ」
「ランベール様も罪作りですねぇ」
その意見には同感だ。
こんなにも好きなってしまったのに、応えてくれないのだから。
けれど、何故ランベールはドニスにあんなにも怒ったのだろう。
それから、離れた場所にいたのに危機に間に合ったのは、ポーレットのことを気にしてくれていたからではないのか。自分がそう思いたいだけでなければいいのに。