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Sounds Good!

作者: 南 琥珀

 窓ガラスを雨粒が叩く音が、妙に耳に障った。

 胃の奥がムカムカとするような気持ち悪さに襲われて、山下ひまりは口許に左手を添えて俯いた。

 椅子に座っているはずなのに、足許が覚束ないような、地面が揺れているかのような、奇妙な感覚が襲い掛かってくる。

 ひまりの席は、一番廊下側の一番後ろ。

 誰よりも目立たない席であったことは不幸中の幸いだった。

 同じ格好をした背中が、たくさん並んでいる。

 黒板の方を向いて話し続けている数学教師は、ひまりの不調には気付けないらしい。

 けれど、半端に気付かれて、クラスメイト達がこちらを振り向いたりしたら。

 そう考えると、ひまりの背筋をゾクゾクとした悪寒が走り抜けていった。

 目立ちたくなかった。

 いつもいつでも、舞台の片隅に控えるその他大勢でいたかった。

 吐き気を堪えながら、なんとか視線をあげた先。

 時計は授業終了の三分前を示していた。

 ・・・・・・あと三分。

 きっとクラスメイト全員が同じことを考えていただろう。

 けれどきっと、ひまりの胸に浮かんだそのカウントが一番切実だったはずだ。

 秒針が、驚くほどゆっくり動いている。

 きっとあの時計が壊れているんだ。

 ひまりは現実逃避にそんなことを思った。

 体感で五分ほどの時間をかけて、ようやっと秒針が一周した。

 頭がズキズキと痛んでいるような気がする。

 小学校に戻りたい。

 中学も二年になって、そんな情けない考えが頭に浮かんだ。

 進学してからずっと、ひまりは週に二、三回しか登校していない。

 せっかく登校してきても、授業中にこうして腹痛からくる吐き気に襲われて、早退してしまうことも多い。

 そんな自分が異端であると、ひまりは重々承知していた。

 キーンコーンカーンコーン。

 ようやく鳴り響いたチャイムに、ひまりは自分の全身から力が抜けていくのを感じた。

 やっと、やっとだ。

 号令に合わせて立ち上がり、頭を下げる。

 椅子に座り直すと同時に机の上に出ていた教科書とノートをまとめて、机の中、ではなくスクールバックの中へと片付けて、そっと立ち上がり、誰にも言葉をかけず(もちろんかけられもせず)に教室から抜け出した。

 授業終了直後。

 まだ他の生徒たちは席に着いたままだったり、近くの席の友人たちと会話を楽しんでいる。

 クラスは二年一組。

 すぐ隣が階段だ。

 早歩きで階段へ向かい、誰もいないことを確認して、階段を駆け下りていく。

 向かう先は、この一年と二ヵ月で通い慣れてしまった保健室だ。

 声をかけながら保健室のドアを開いて、ひまりは隙間からそっと室内を覗いた。

 ここまでは幸運にも誰にも会わずに来ることができたけれど、保健室に先生以外の誰かがいたら。

 そう思うと、怖くて仕方がなかった。

「おはよう、山下さん」

 果たして、保健室にいたのはひとりだけだった。

 壮年の養護教諭だ。

 おっとりとした笑顔は、お母さんをイメージさせる。

 ひまりの母親に似ているという意味ではなく、世間一般のイメージするお母さん像である。

「おはよう、ございます」

 そんな自分の挨拶が、また情けなかった。

 一時限目と二時限目の間。

 頑張ったつもりだったのに、まだ「おはようございます」の時間なのだ。

「少し休ませてもらっても構いませんか?」

 この言葉を言う時、ひまりはいつだって恐怖に圧し潰されそうだった。

 一年の頃からひまりが保健室に通っているのをよく思わない教師もいるのだ。

 特に国語の教科担当はひまりが授業をだらけてサボっているのだと怒っていて、三度ほど、授業前に保健室に迎えに来られたことがある。

 養護教諭が諭してくれたおかげでなんとかなったけれど、それ以来ひまりは保健室に来ることだって恐ろしくて仕方がないのだ。

「えぇ、どうぞ」

 柔らかな微笑みを見て、ひまりはようやくホッと息を吐きだすことができた。

 促されるままに、奥のカーテンの中へと入る。

 ベストとスカートを脱いでー下は体操着のズボンだーベッドに腰かけた。

 呼吸は楽になったけれど、まだ気持ちの悪さはなくならない。

 ベッドに横になって、ムカムカと違和感を訴えている腹を抱えるように体を丸める。

 泣きたくなんてないのに、涙が出てきた。

 自分は普通ではない。

 そんなプレッシャーに、圧し潰されそうになる。

 普通の人間はきっと。

 普通に小学校に通って。

 普通に中学校に通って。

 普通に高校に通って。

 普通に大学を受験して。

 普通に就職活動を行って。

 普通に会社に就職して。

 普通に毎日働いて。

 普通に恋愛をして。

 普通に結婚をして。

 普通に子供を産んで。

 普通に生きていくのだ。

 ふたつめで躓いてしまったひまりはどうなるのだろうか?

 この出席日数で、普通の高校には行けるのだろうか?

 高校生になったら、普通に通学できるようになるのだろうか?

 もしもできなかったら?

 こんな自分が働くことなんてできるのだろうか?

 学校という狭い世界ですら普通に生きられないひまりに、社会という広い世界で普通に生きていくことはできるのだろうか?

 明確な理由があればきっと、ひまりはもう少しだけ楽だったかもしれない。

 酷い苛めに遭っているだとか。

 授業が難しくてついていけないだとか。

 そんな説明できるような理由があれば、それさえ解消することができればきっと普通になれるのだ。

 そこまで考えてから、ひまりはゆっくりと首を横に振った。

 自分の考えがどんなに残酷で最低なものだったのかを理解したのだ。

 酷い苛めに遭って今にも命を絶ちたいと思っている人がいるかもしれない。

 それなのに、そうではないひまりがその状況であることを望むなんてことは、あってはならないことだ。

 ひまりは枕に顔をうずめて、嗚咽を噛み殺した。

 カーテンの向こうにも、きっとひまりの嗚咽は届いている。

 それでも、なんとか噛み殺そうとしているひまりを思ってか、養護教諭は声をかけてこなかった。

 それに甘えて、ひまりはそのまましばらく泣きじゃくった。

 泣いても何も解決しないことはわかっていた。

 将来を不安に思うのなら、こんなところで泣くのではなく、教室に戻って授業を受けるべきだ。

 わかっているのに、体が動かない。

 そんな情けない自分が、ひまりは大嫌いだった。



 ・・・・・・目が覚めた。

 どうやら、泣き疲れたひまりは泣きながら眠ってしまっていたらしい。

 むくり、と体を起こすと、頭がズキズキと痛みを訴えた。

 これは、泣きすぎたせいかもしれない。

「起きた?」

 カーテンの向こうから聞こえた声に頷いてーーから慌てて「はい」と声を返す。

 シャッ、と音を立てて開いたカーテンの向こうから、養護教諭が顔を出した。

「今、三時限目がはじまったところだけど・・・どうする?」

 戻ります。

 そう言おうと、ひまりは口を開いた。

 戻らなければならないことはわかっているのだから。

 ひまりの唇は正しく「も」の形になっていたはずだ。

 それなのに。

 ぎゅーっ、と胃を絞りあげられるような痛みに襲われて、ひまりはお腹を抱えて体を折り曲げた。

 あまりの痛みに、吐き気が再び湧き上がってくる。

 温かな手が、優しく背中を撫でてくれている感覚が、どこか遠い。

「……お母さんに、迎えに来てもらおうか」

 養護教諭の言葉に、情けないひまりは頷くことしかできない。

 いつもそうだった。

 ひまりは自分の口からは、帰りたいと言うことすらできないのだ。

 みっともなくて情けなくて、また涙が出てきた。

 養護教諭はもう一度、優しくひまりの背中を撫でて、大丈夫よ、と一言囁いてくれた。

「連絡してくるから、もう少し横になっているといいわ」

 ひまりは絞り出すように「はい」となんとか返事をして、お腹を抱えて丸まるように再びベッドに横になった。

 待ってください、と声をかけるべきだということはわかっていた。

 ひまりは中学生なのだ。

 中学生は授業を受けるのが普通なのだ。

 だから、普通の中学生になるためには授業を受けなければならないのだ。

 けれど、ひまりにそんな勇気はなかった。

 ただ、ただ、追い詰めるような痛みに耐えて、猫のように丸まっていることしかできない。

 保健室のドアが開く音がした。

 誰かが入ってきたのではなく、恐らくは養護教諭が職員室に行くために出て行った音だろう。

 強い痛みのせいで、意識が朦朧とする。

 仮病ではないか、という人もいた。

 学校に来るだけで体調が悪くなるなんておかしい、と言う人もいた。

 でもそんなこと、他でもないひまり自身が一番思っている。


 歩いて十分の距離を、十五分ほどかけて帰宅したひまりは、目許に冷えたタオルを

当ててリビングのソファに横になっていた。

 しっかりと冷やしたおかげで、目の痛みは随分とマシになっている。

 タオルを取って起き上がると、ダイニングテーブルでお茶を飲んでいた母が近寄ってきて、ひまりの目を見て、微笑んだ。

「うん、もう大丈夫ね」

 泣いたせいで真っ赤になっていた目許も、どうやらもう大丈夫になったらしい。

「買い物に行かないといけないの。付き合ってくれない?」

 母の言葉に、ひまりは少し迷ってから頷いた。

 早退した中学生が出歩いていいのか、という不安もあったけれど、母がこうして誘ってくれているのは、学校にうまく通えない引け目から引きこもり気味なひまりを少しでも外に連れ出そうという優しさからだと知っている。

 制服で出歩く勇気なんてあるはずもないから、ひまりはラフなシャツとジーンズに着替えてから、母と共に家を出た。

 まだお昼前で同じ中学の生徒が出歩いているわけがないけれど、それでもどうしたってビクビクしてしまう。

 歩いていける距離にある、大型ショッピングセンター。

 館内には大きな図書館もあり、こういう日に母が連れて行ってくれるのは大体このショッピングセンターだった。

 スーパーマーケットの前で別れて、ひまりは図書館で本を読みながら母の買い物を待つというのが恒例だ。

 いつも母の買い物の方が長くかかるから、ひまりは中庭で借りた本を読んで待っていることが多い。

 ありがたいことに、その間に知り合いに声をかけられたことはない。

 今日も五冊の小説を早々に選び終えたひまりは、定位置と化している中庭のベンチに腰を下ろした。

 中庭にはたくさんのベンチがあるけれど、雨に濡れない位置にあるベンチは三つしかない。

 あとふたつのベンチは、老夫婦とスリングで赤ちゃんを抱いた母親が座っていた。

 鞄から小説を引っ張り出してページを開こうとした時、ちょうど図書館側の入り口から男の子が出てくるのが見えた。

 浅黒い肌にはっきりとした目鼻立ち。

 東南アジア系のハーフだろうか。

 確か、ひまりと同じ中学校にも何人かいたはずだ。

 鞄がないのか、むき出しのままの本を左腕に抱えている。

 キョロキョロと視線を彷徨わせているけれど、残念ながら雨よけのあるベンチはすべて埋まってしまっている。

 目が、合った。

「よかったらここ、どうぞ」

 口をついて言葉が出た。

 言ってからはじめて、なんてことを言ってしまったのだろう、と後悔する。

 クラスメイトとだってうまく話せすことができないひまりが、知らない人に声をかけてしまったのだ。

 日本語が通じなければいい……なんて最低な願いは叶わなかった。

 にっこりと笑った少年は、ありがとう、と言いながらひまりの隣に座ったのだ。

 隣、といっても、並んで三人が座れるベンチなので、間にひとりぶんの隙間があいている。

 にもかかわらず、ひまりの心臓は痛いくらいに激しく鳴り響いていた。

 ひとりぶんの距離があるにも関わらず、心音が聞こえてしまうかもしれない、と思ってしまうくらいには。

「ボクは大橋イサラ。中学二年生。君は?」

「や、山下、ひまり。私も、中学二年生、だよ」

 心臓が潰れてしまうかもしれない、なんて恐怖を抱きながら、ひまりはなんとか自己紹介を終えた。

「同じ学年だね!」

 イサラが続いて口にしたのは、隣の学区にある中学の名前だった。

 ひまりは無意識に詰めていた息をホッと吐きだした。

 ひまりがつっかえながらも通っている中学の名前を言うと、イサラは「お隣さんだね」と軽やかに笑った。

 もしかしたら仲間なのかもしれない。

 そんな淡い期待が、ひまりの胸に浮かんでいた。

「なんの本を読んでいるの?」

 ひまりは読みはじめる前だった小説の表紙を見せるようにイサラの方に向けながら、答えた。

「夜のピクニック」

 イサラはわかりやすく目を見開いた。

 驚いているというより、なんだか楽し気である。

「Sounds Good!」

 唐突な英語に、今度はひまりが目を見開く番だった。

 直訳すれば「音がいい」だけれど、この状況で出てくる言葉とは思えないので熟語なのだろう。

 成績は悪いわけではないけれど、習っていない熟語を調べて覚えるほど勉強熱心ではなかった。

 意味を尋ねるために口を開こうとしたタイミングで、スーパーマーケットの方からエコバックを持った母が出てくるのが見えた。

 ひまりは慌てて本を鞄に仕舞って、立ち上がった。

「お母さんが来たから、これで」

「うん。……さっき、呼んでくれてありがとう」

 ひまりは首を横に振った。

「ボク、毎週水曜日にここに来るんだ。もしもまた会えたら」

「うん」

 ひまりは小さく手を振って、ベンチから離れた。

 同年代と話すのは、なんだか随分と久しぶりだった。

 同級生と話すのは怖くて仕方がなかったのに、どうしてだろうか。

 イサラと話している間、少しだけ心が安らいだ気がした。

 ひまりの事情を彼が知らないからかもしれない。

 それからひまりは、毎週水曜日に図書館へと足を運んだ。

 ひまりが先に中庭で読書をしている日もあれば、イサラが先にいる日もあった。

 イサラは持病のせいで週に一度病院に通う必要があり、その病院帰りにこの図書館に寄っているらしい。

 本来ならば、学校にも行っていない学生が週に一度遊びにいくだなんて許されないけれど、ひまりがイサラと話しているのを見ていた母が「せっかくお友達ができたんだから」と背中を押してくれたのだ。

「ボクも読んでみようと思ったんだ」

 ある日、イサラが照れくさそうにひまりに見せてきたのは「夜のピクニック」だった。

 ひまり自身大好きで、何度か読んだ本だ。

 イサラとはじめて会った日も、ちょうどこの本を読もうとしていた。

「Sounds Good!」

 イサラの真似をしてひまりがそう言うと、イサラは目を見開いて、それから笑った。

 ひまりははじめて会った日にこの言葉の意味を調べていた。

 いいね! という同意や共感の意味があるそうだ。

 イサラと過ごす時間は、とても楽だった。

 隣にいるのに、話さなくてはならない、という圧を感じないのだ。

 並んで、ただ無言でそれぞれが手にした本に目を通して、けれどたまに休憩がてら言葉を交わす。

 イサラはひまりに、どうして平日の昼間にここにいるのかなんて一度も聞かなかった。

 だからこそ、ひまりは安心してイサラと時間を過ごすことができるのだ。

 隣のイサラが身じろいだ気配を感じて、ひまりも本から視線を離した。

「ボクの名前、イサラっていうんだけど」

 ぽつり、とイサラが呟いた。

 いまさらなにを言っているのだろう、とひまりは思った。

 ひまりはイサラのことを名前で呼んでいるというのに。

「晴れて楽しいって書いて、晴楽いさら

「……え?」

 思わず、目を見開いてしまった。

 確かに聞いたわけではなかったけれど、勝手にカタカナの名前だと思っていたのだ。

 小さく笑ってから、イサラは視線を空に向けた。

 梅雨とは思えない、綺麗な晴天だ。

「びっくりするよね、ごめん」

 傷付けたのだ、とひまりは気付いた。

 ひまりを傷付けないようにしてくれたイサラを、ひまりが傷付けたのだ。

「ボク、クォーターなんだ。お父さんが、フィリピンとのハーフ。なのに、なんでかな。ボクの方がお父さんよりもおばあちゃんに似てるんだ。……隔世遺伝、っていうらしいんだけど」

 ぽつり、ぽつり、とイサラは静かに言葉を重ねた。

 小さな頃から、同年代の子たちに外人だと揶揄われること。

 普通に日本語で話しているのに、外国語はわからない、なんて無視されることがあること。

 今通っている病院にはじめて行ったとき、イサラが口を開く前に勝手に英語で対応しようとされたこと。

 家では日本語と英語を半々で使っているせいか語彙力が同年代に比べて劣っていて、話している内容が理解できずに会話に加われないことがあること。

 そういう時は、自分の足許が揺れるような不安の強い孤独感に襲われること。

 だからこうして図書館に通って、たくさん本を読もうと思ったこと。

「日本で生まれて日本で育ってきた。ボクは日本人だと自分では思ってる。……でも、受け入れてもらえないんだ」

 イサラは泣いていなかった。

 諦めたような、そんな顔だった。

「私の名前は、ひまりっていうんだけど」

 そんな悲しい顔を見たくなくて、ひまりは口を開いた。

 奇しくも、口火の切り方はイサラと同じだった。

「漢字では、向日葵って書くの」

 ひまりは鞄から取り出したノートの端に、向日葵、と書いて見せた。

「いつもね、ひまわり、って名前を間違えられる」

 イサラの悩みと比べたら、軽すぎる悩みだろうか。

「自分の名前は好きなの。夏生まれだし、お父さんが向日葵の花が大好きでね。娘が生まれたら向日葵って名付けるって決めてたらしくて。……でも、ひまりの方が呼びやすいから、って読み方だけひまりにしたみたい」

 ひまりは自分の名前が大好きだ。

 それは間違いない。

 けれど。

「たまに、たまにね。何度も何度も名前を間違えられると、嫌になっちゃうことがある」

 うん、とイサラは頷いた。

「わかるよ。……ボクのお母さんは、絶対に『晴』っていう漢字を使いたかったみたい。知ってる? 晴って、澄んだ青空と太陽の漢字なんだ」

 ひまりは頷いた。

 日に青。

 ニコニコとした笑顔の似合うイサラによく合った漢字だと思った。

「澄んだ青空のようにおおらかに、太陽のように明るく、楽しい人生を送れるように。こめられた気持ちは、すごく嬉しい。ボクだってボクの名前が大好きだよ。……でも」

 途中で言葉を切って、イサラは再び空へと視線を向けた。

 晴れと呼ぶに相応しい、澄んだ青空だ。

「いっそ本当にカタカナだったらな、って思うこともある」

 勝手にカタカナの名前だと思っていたひまりは、静かに頷くにとどめた。

 イサラのことを、これ以上傷付けたくはなかったのだ。

「……イサラは、さぁ」

「うん?」

「毎週病院に通ってるから、平日の昼間に図書館に来るんだよね?」

「うん、そうだよ。終わる時間はまちまちだから、水曜日は午後から登校することにしてるんだ」

「そっか」

 何故かはわからない。

 けれど、ひまりは思ったのだ。

 ーー今なら、話せるかもしれない。

「私はね、あんまり学校に行ってないの」

 うん、とイサラは頷いた。

 驚いたような反応はない。

 きっと、気付いていたのだろう。

「週に二、三回かなぁ。それも、途中で帰ってきちゃうことが多いの。……おかしいでしょ」

 あはは、とひまりはわざと声をあげて笑った。

 棒読みのような乾いた笑声が耳に痛い。

 イサラは笑っていなかった。

 いつもニコニコと笑っているはずのイサラは、今に限ってはニコリともせずに、笑うことしかできないひまりを見つめている。

「理由があるんでしょ? なら、おかしいことなんかなんにもないよ」

 ーーひまりちゃん、おかしいよ。

 ーー仮病でサボってるんじゃないの?

 ーーなんで学校来ないの?

 ひまりはもしかしたら、単純な人間なのかもしれない。

 胸に突き刺さっていた言葉の棘が、少しだけ溶けたような気がした。

 同年代からーー家族ではなくカウンセラーでもなく、ただの同年代の友人からの言葉。

 意識する間もなく、ひまりの頬を涙が伝った。

 頬がピクピクと痙攣しているのがわかる。

 きっとひまりは今、表情の切り替えが上手くいかずに引き攣った笑みを浮かべながらボロボロと泣いているのだろう。

「大丈夫」

 涙のせいで滲んだ視界では表情も見えないけれど、それでもいつも通りの優しい笑顔が目に浮かぶような、優しい声だった。

「大丈夫だよ」

 イサラの優しく落ち着いた声に促されるように、ひまりは口を開いた。

 一年生の時、他の小学校出身のヤンチャな男子と同じクラスだったこと。

 授業中に大きな声で騒ぐことが多かったこと。

 ムードメーカー的な立ち位置で教師陣に気に入られていた彼が授業中に騒いでもあまり問題にならなかったこと。

 むしろ、授業が盛り上がると受け取られていたこと。

 けれどひまりにとっては、その騒がしい授業が怖くて仕方がなかったこと。

 最初は故意の寝坊からはじまったこと。

 目覚ましに気付いていながら、わざと布団に潜りこんだこと。

 遅刻して教室に入るのが嫌だから休みたいと母親に頼んだこと。

 休めると決まった瞬間に、心が軽くなったこと。

 それを三日続けた時点で、さすがに安心感を超える焦燥感が芽生えたこと。

 土日を挟んで久しぶりに登校した時、ヤンチャな男子にずる休みだったのではないかと揶揄われたこと。

 お腹が痛くなって、そのまま早退してしまったこと。

 それからずっと、週に二、三日しか登校できないこと。

 休む日が増えれば増えるほど、学校に行くのが怖くなること。

 人の目が怖くて仕方がないこと。

 きっとみんなにサボり魔だと思われていると思うこと。

 今のクラスにはなんの問題もないこと。

 問題がないにも関わらず教室に長時間いられないのは自分がおかしいせいだと思っていること。

 中学生の時点で普通のレールから外れてしまった自分は大人になってもまともに生きていけないと思っていること。

 将来が不安で仕方がないのに、それでも普通のことができないこと。

 こんな自分が嫌いで嫌いで仕方がないということ。

 頑張れ、と色んな人から応援されるのに、応えることができないこと。

 しゃくりあげながら、ひまりはつっかえつっかえに色んなことを話した。

 誰にも言っていない……親にもスクールカウンセラーにも思春期外来の医師にも話せなかった不安が、制御する余裕もなくボロボロと口から零れ落ちていく。

 話しながら、ひまりはようやく気付いた。

 ひまりはずっと、話したかったのだ。

 どうしても甘えてしまう親にではなく。

 カウンセラーや医者といった肩書を持った大人にではなく。

 同年代の友人に、不安を吐露したくて仕方がなかったのだ。

 涙のせいで上がる呼吸と嗚咽のせいで聞き取り辛かっただろう。

 けれど、イサラはひまりの話を聞いてくれた。

 途中で遮るようなことはせずに、ひまりのペースを崩さない小さく丁寧な相槌を返しながら。

「……頑張ったね」

 ひまりが話し終えたタイミングで、イサラがそんなことを言った。

 意味がわからなくて、ひまりの思考は一時停止してしまう。

 だって、みんなが言うのだ。

 今日は頑張って学校に行ってみよう、だとか。

 頑張って授業を受けないか、だとか。

 そう。

 ひまりは頑張れないから、こんな平日の昼間に図書館にいるのだ。

「ひまりは、頑張ってるよ。自分がちゃんと頑張れてるってことは、認めてあげなよ」

 ぽかん、と呆けた顔をしている自覚があった。

 ひまりは頑張っていないから頑張れと声をかけられるのだと思っていた。

 それなのに。

 治まりかけていた涙が、止まることを忘れたかのように再発した。

「無理なんてしなくていいんだよ。ボクら、まだ中学生だよ? 中学に行けなかったからって、高校に行けないとは限らないし、大学に行けないとは限らない。それに、学生と社会人は全然違う世界だって言うよ。学生の方が楽だから、社会人の方が大変だから、なんて言う大人が多いけど、でもそれってさ、合う合わないの問題もあると思うんだよね」

 ひまりの目から、涙と一緒に鱗が落ちた。

 学生生活もまともに送れないから、社会人生活も送れるわけがない、と思っていたのだけれど。

「ひまり、我慢してることとか、ない?」

 唐突な問いかけの意味がわからなくて、ひまりは首を傾げた。

 もう泣きすぎて、上手く声も出せない。

「ちゃんと学校に行ってないから、授業を受けてないから、やっちゃダメだ、って思いこんでる、やりたいことはないの?」

 ーーやりたいこと。

 聞かれても即座に思いつかないのは、やりたいことなんて考えてもいなかったからだ。

 イサラの言う通り、普通のこともできない自分に、やりたいことをやる資格なんてないと思っていたから。

「ボクは、あるよ。外人だなんて言われない外見だったらやってみたかったこと、たくさん」

 考えてみて、と促されて、ひまりは言われるままに考えてみた。

 ひまりが、ひまり自身が、やりたいこと。

 ーーそういえば。

「私ね、実は部活に入ってるの」

「部活?」

「うん。うちの中学、必ず部活に入部しなくちゃいけなくて。洋書とか洋画とかで海外文化に興味があったから、国際部っていうのに入ったの」

 あまり人気のない部だった。

 去年、ひまりが入部を決めた時点で、部員は僅か十名ほど。

 現状がどうなっているのかは、ひまりにはわからない。

「でも、本格的な活動がはじまる前に学校に行けなくなって……まだ、一回も参加してないんだ」

「……参加してみたい?」

 授業にも出られないのだから、部活なんて参加してはいけないのだと思っていた。

 けれど、できることなら。

「うん」

 ひまりは答えながら、頷いた。

 自分でも確かめるつもりで、もう一度。

「……うん」

「じゃあさ、それを目標にしてみたらいいんじゃない? 学校に行かないと……! じゃなくてさ。国際部に参加したい! って」

「できるかな?」

「できるよ」

「いきなり部活に行ったら、変に思われるかも」

「じゃあ、来週の火曜日に行ってみなよ」

「え?」

「上手くいってもいかなくても、ボクがひまりの話を聞くよ」

 だから大丈夫、と。

 イサラはそう言って笑った。

 大丈夫、という言葉はあまり好きではなかった。

 大丈夫だと言われても大丈夫じゃないことが多かったから。

 けれど、イサラの大丈夫は上辺だけではないような気がした。

 ひまりの話を、受け止めてくれたからだろうか。

「……頑張ってみる」

「気張らずに、気楽にやってみて。ひまりは頑張りすぎだよ、多分」

 気楽に、なんて言われたのははじめてだった。

「……干からびちゃうよ」

 こんなに涙が止まらないのも、はじめてかもしれない。

 中庭に設置されている時計が、正午を知らせる鐘を鳴らした。

 いつまでも話し続けているとキリがないから、と普段はこの鐘を目途に話を切り上げている。

 泣き顔ばかりを見せ続けるのも女子としてなんとなく気拙くて、ひまりは最後に笑顔を浮かべた。

 きっと真っ赤になっているだろう目許と、それでも流れ続ける涙のせいで格好はつかないかもしれないけれど。

 イサラも、最高の笑顔でひまりの笑顔を受け止めてくれた。

 どちらからともなく立ち上がり、軽く手を振って別れる。

 先程まで話し続けていた反動で、閑静な住宅街を無言で歩く時間がなんだか寂しい。

「イサラは優しい、な」

 ぽそり。

 誰かが隣を歩いていても聞こえないくらいの音量で、ひまりは呟いていた。

 呟くつもりはなかったけれど、口を突いて出てきてしまったのだ。

 イサラが優しいのはきっと、それだけ辛い目に遭ってきたからだろう。

 なにかできないかな、なんて。

 自分のこともなんとかできていないひまりが考えるのは、烏滸がましいだろうか。

 ーー気張らずに、気楽にやってみて。

 その言葉をお守りに、ひまりは椅子の上で小さく縮こまっていた。

 小休憩の度にそこらじゅうで集まって話している友人グループを見るたびに、珍しく教室にいるひまりについて話しているのではないかーーなんて恐怖が湧き上がる。

 胃がズキズキと痛んでいるけれど、普段の吐き気を催すほどの強烈さはない。

 気張らずに、気楽にやってみる。

 お守り代わりのその言葉を、何度も何度も胸の中で繰り返し続けた。

 ……一時限目、二時限目、三時限目、四時限目。

 授業が進むたびに、ひまりは硬くなっていた体が少しずつほぐれていくのを感じた。

 もしかしたらひまりは、授業を受けるという、他の大勢にとっては当たり前の行為を、まるで勇者が魔王に立ち向かうような、強大な試練だと思いすぎていたのかもしれない。

 気張らずに、気楽にやってみる。

 資格を持ったカウンセラーも医師も、そんなことは言ってくれなかった。

 ーーイサラと出会えてよかった。

 ひまりは数学の公式を聞き流しながら、そう思った。

 もう少し。

 もうほんの少しで、二年生になってからはじめての授業コンプリートだ。

 最後のチャイムを聞いて、ひまりは大きく息をーー目立ちたくないので音は立てないようにーー吐き出した。

 コソコソと気配を消して、終礼が終わると同時に教室を出る。

 話しかけられるのが怖かった、というのは自意識過剰だろうか。

 早退せざるを得ない日は午前中に帰ってもぐったりと疲れ切っているのに、今日は思ったよりも元気なままだった。

 コソコソとしながらも、ひまりの足は迷わない。

 国際部の活動場所は、視聴覚室だと、事前に担任から聞いてあった。

 最初は無理をせずに五時限目から登校してみてはどうか、というスクールカウンセラーの勧めを断って朝から登校したのは、ちょっとした意地だ。

 明日、イサラに胸を張って報告したい、なんて。

 こんな感情が自分の中にまだ残っていたことに、ひまり自身驚いている。

 十五分ほど歩いて、ひまりはようやく視聴覚室を見つけた。

 教室からまっすぐに来ることができれば、五分もかからなかっただろう。

 ひまりは扉に手をかけた。

 瞬間、その向こうから複数人の声が聞こえて、思わずためらう。

 一番最初に教室を出たけれど、視聴覚室を探して彷徨っている間に他の部員が来ていたのだろう。

 扉にかけた手を離すこともできないまま、ひまりは固まった。

 けれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。

 手に力を入れて、扉を開けなくては。

 そう思うのに、覚悟が決めきれない。

「山下さん?」

「ひゃあっ!」

 唐突に背後から声をかけられて、ひまりは情けない悲鳴と共に飛び上がった。

 きっとひまりの悲鳴は視聴覚室の中にも聞こえている。

 誰か来たらどうしよう。

 部活に参加するつもりでここまできたというのに、そんな本末転倒な気持ちが湧き上がる。

「山下さんだよね?」

 女の子の声がもう一度聞こえて、ひまりは恐る恐る振り返った。

 小麦色の肌に、彫の深い顔。

 イサラに似ている、とひまりは思った。

「私、赤石ミシェル。一年の時同じクラスだったんだけど……覚えてないかな?」

 言われてみれば、という程度の記憶はあった。

「山下さんも国際部だもんね! ふふっ、ようこそ!」

 明るい声と太陽のようなキラキラした笑顔と共に、ひまりがあんなに躊躇していた扉がいとも簡単に開け放たれた。


「ーーそれで?」

 イサラに促されて、ひまりはギュッと両手を握った。

 興奮が、感動が、喜びが、伝わればいい。

「すっごく、楽しかった……!」

 昨日の夕食は、ひまりの大好物ばかりだった。

 ひまりの大切な一歩なのだから、と母が気合を入れてくれたのだ。

「中から声が聞こえた時は、正直もうダメだって思ったの。……私、部活に参加したいと思ってたのに、部活には他の人がいるのをすっかり忘れてたみたい」

 ひまりがそう言って笑うと、イサラも笑ってくれた。

「ミシェルが……同級生なんだけどね、助けてくれて」

「ミシェル? 外国の子?」

「ハーフだって。お母さんがフィリピン人」

「へぇ!」

「それでね、夏休みに市内国際ビックミーティングっていうイベントがあるみたいなの。私、それに参加してみようと思って」

 ぴくり、とイサラの眉が跳ねた。

「それは楽しそうだね」

 けれど、すぐにいつもの笑顔が浮かぶ。

 ーー気のせい、だったのかな?

「うん!」

 ひまりは大きく頷いた。

 どうしたって、声が大きくなる。

 昨晩は、興奮しすぎて寝付けなかったくらいだ。

「学校もね、少しだけ通い方を変えてみようかと思って。スクールカウンセラーの先生と相談して、週に一回、朝から部活まで学校で過ごすことを目標にしてみよう、って」

 ひまりの心は、少しだけ軽くなっていた。

 今日も行けなかった。

 今日も行けなかった。

 今日も行けなかった。

 そんな風に、毎日毎日、自分の思考に追い詰められていた。

 そんな日々が、少しだけ楽になる。

 週に一回を当たり前にしてから、週に二回を当たり前にすればいい。

 そう思えるようになったのは、やっぱりイサラのおかげだ。

「そっか。ひまりなら大丈夫だよ」

 はじめて朝から夕方までを学校で過ごした昨日は、確かにひまりの自信になった。

 それをできて当たり前のことだと蔑んでいるのは、ひまりだけ。

 家族にも、カウンセラーにも、もちろん友人にも、ひまりは恵まれている。

 今日もまた、十二時の鐘が鳴る。

 ひまりはまだ話し足りなかったけれど、昼食も取らずにイサラを拘束するわけにもいかない。

 いつも通り、どちらからともなく立ち上がる。

 そして、いつも通りに手を振って別れた。

 ーーそれから。

 水曜日のいつもの時間。

 あの中庭に、イサラが現れることはなかった。



 毎週火曜日。

 部活を終えた後、ひまりはミシェルとふたりで帰るのが恒例になりつつあった。

「ひまりは、どうして国際部に入ったの?」

 ミシェルの日本語は流暢だ。

 見た目はどうあれ、日本で生まれ育ったのだから当然のことかもしれない。

 日本語が流暢だと思うこと自体、差別だ。

 そう気付いて、ひまりはハッとした。

「本や映画が、好きだったの。その世界で見る外国が、なんだか不思議な世界みたいで。もっと深く知りたい、と思ったのがきっかけかな。ミシェルは?」

「ーー私、最初は入る気なかったの。でも、赤石は国際部だろ、って言われて」

 ひまりは横目でミシェルを見た。

 諦めたような、そんな笑顔。

 イサラが浮かべていた笑顔と、酷似していた。

「入ってみたら楽しかったし、別にいいんだけどね」

 嫌だな、とひまりは思った。

 どうしてミシェルが、イサラが、こんなに悲しそうに笑っているのだろう、と。

「私の友達が」

 友達、と言った声が、少し震えた。

 イサラとは、もう一ヵ月も会っていない。

 名前と通っている中学しか知らない。

 家も知らないし、電話番号も知らない。

 学校に連絡したって繋いでもらえるわけもない。

 ひまりには、イサラに連絡をする手段はなかった。

 なにか理由があって来れなくなるのなら、一言くらい挨拶をしてくれると思っていた。

 それくらいの関係に、友人に、なっているつもりだった。

 それは、ひまりの一方通行だったのだろうか。

 病院に行く日が変わったのかもしれない、とひまりは一週間毎日ーー火曜日以外ーー中庭に通ってみたけれど、イサラに会うことはできなかった。

 週に一度、会うだけ。

 二時間ほど話をして、別れるだけ。

 会った時間はそれほど長くはないのに、それでもひまりは寂しくて仕方がなかった。

 なにか事情があったのだろうとは思うのだけれど、それでも、哀しかった。

「ひまり?」

 不思議そうにミシェルに呼びかけられて、ひまりはハッと息を呑んだ。

 きっと今、ひまりの眉間には深い皺が寄っていたに違いない。

「ん、ごめん。私の友達がね、言ってたの」

 ひまりはイサラに聞いた悩みを口にした。

 ミシェルは何度も頷いて、ひまりの言葉を聞いてくれた。

「そうそう! 私も、勝手に通訳さんを用意されたことがあるわ! 日常会話の中で、わざと英語を使われたり!」

 怒ったような口調でそう言いながら、ミシェルは笑っていた。

 きっと、笑うしかないのだ。

 ひまりだって、どうして学校に行かないのかと聞かれたら、ごまかすように笑うことしかできない。

「ひまりのお友達に会ってみたいな。このあたりに住んでる子なの?」

 ミシェルの問いかけに、ひまりは首を横に振った。

「そうだと思うんだけど、家を知らなくて。私も、急に会えなくなっちゃったの」

「そっか。……それは、哀しいね」

 さっきまで、哀しさをごまかすように笑っていたのに。

 ミシェルは本当に哀しそうな顔でそう言ってくれた。

 そんなミシェルの優しさが、嬉しくて。

 でも。

「うん。すっごく哀しい」

 イサラに会えない哀しさは、消えてなくなってはくれなかった。



 結局イサラには会えないまま、夏休みに入ってしまった。

 どうしても同年代に会うのは怖くて、夏休みになってからは図書館に行けていない。

「いよいよだね!」

 ミシェルの声に、ひまりは頷いた。

 緊張のし過ぎで、声が出せなかったのだ。

 夏休みも中盤に差し掛かり、今日はついに国際ミーティングだ。

 市が開催しているとはいえ、今回のミーティングはそれほど大規模なものではない。

 市役所のコミュニティルームを使って開催されるのだが、それでも参加人数は五十人程度になるという。

 ひまりは、人の多い場所が苦手だ。

 夏にも関わらず、緊張のせいで指先が冷たい。

 ーー大丈夫、大丈夫。

 自分を落ち着けるために、ひまりは何度も何度も繰り返した。

 ーー大丈夫、大丈夫。

 大丈夫という言葉は、繰り返すとこんなにも弱弱しいものだったか。

 ーー大丈夫、だいじょ……。

「だぁいじょうぶ!」

 冷えきった指先が、熱に包みこまれた。

 知らず俯いていた顔を上げると、笑顔のミシェルがひまりの手を握っている。

「大丈夫、ひとりじゃないよ。私がいる!」

 あんなに自分で繰り返した大丈夫より、ミシェルのたった二回の大丈夫の方がずっと力強かった。

 ミシェルに手を引かれるまま、ひまりは歩き出した。

 それでもやっぱり怖くて、どうしたって視線は俯きがちになる。

 ふっ、と。

 視界の隅に懐かしい姿を見た気がして、ひまりは顔を跳ね上げた。

 前を行くミシェルは、ひまりが顔をあげたことに気付いていないようだ。

「イサラ……?」

 小さく呼びかけながら視線を巡らせてみたけれど、それらしき姿はもう見えない。

 見間違いだったのだろう。

 ひまりはミシェルに続いて、コミュニティルームへと入った。

 会場にはパイプ椅子が並べられていて、すでにほとんどの席が埋まっている。

 スーツ姿の女性に促されるままに、ひまりとミシェルは席に座った。

 ちょうど真ん中あたりの席だ。

 暫くすると、入り口のドアが閉められた。

 参加者が全員到着したのだろう。

 心臓が痛いほどの緊張は継続しているけれど、不思議と教室にいる時ほど怖くはなかった。

 程なく時間がきて、ひまりにとってはじめての国際ミーティングがはじまった。

「続きまして、代表挨拶を。大橋晴楽さん、お願いします」

「えっ?」

 思わず声が出た。

 響くほど大きくなかったことに、ひまりはホッとした。

 果たして、ステージに上がったのは見覚えのある男の子だった。



 ーー多くの参加者たちが、イサラの挨拶に感銘を受けたようだった。

 日本で生まれ育ったのに日本人として扱われない辛さを、イサラは諦めきったような笑顔で切々と語っている。

 ひまりはそっと周囲を見回した。

 隣のミシェルは言わずもがな、他にもイサラと同じ諦めたような笑顔を浮かべながら頷いている人がたくさんいる。

「代表挨拶のお話を頂いた時、ボクは一度お断りをさせて頂きました」

 イサラのそんな言葉に、ひまりは少しだけ驚いた。

 こんなに堂々と話すことができるイサラは挨拶をするに相応しいと思ったからだ。

「今回の国際ミーティングの議題は、日本での生活の悩みについて。この議題で代表の挨拶をすること自体、まるで自分で自分が日本人であることを否定しているような、そんな気分になりました」

 あぁ、と納得したような声が小さく聞こえた。

 ひとりひとりの声は吐息程度でも、重なればそれなりの音量になる。

「でもボクは、友人から勇気をもらったんです」

 イサラがひまりを見た。

 ーー確かに、目が合った。

「週に一度、会うだけの友人です。連絡先も知らず、年齢と名前と通っている中学校しか知らない、そんな友人です」

 私のことだ、とひまりは思った。

 イサラはまっすぐにひまりを見ている。

 ひまりも、イサラの目を見返した。

「悩んで苦しみながらも、ゆっくりでも小さくても一歩を踏み出した彼女を見て、ボクは思ったんです。ーーボクも一歩を踏み出してみよう」

 イサラは一度言葉を止めて、覚悟を決めたように大きく呼吸をした。

「世界を変えるなんて大きなことは言えません。でも、声をあげることはできると思いました。ーーボクの日本での生活の悩みは、日本人であるにも関わらず日本人だと受け入れてもらえないこと」

 いつのまにか、イサラの諦めきったような笑顔は消えてなくなっていた。

 いつもどおりの、明るいイサラの笑顔がそこにある。

 まるで悩みなどないと言いたげな、太陽のように、晴れた空のように明るい笑顔。

「それが当たり前のことだと諦めずに、声をあげることからはじめよう。……ボクがそう思えたのは、怖い怖いと泣きながら、それでも勇気を振り絞って一歩を踏み出す姿を見せてくれた、ボクの大切な友人のおかげです」

 いつの間にか、涙が出ていた。

 気付いたミシェルが驚いたような顔をしているけれど、大丈夫だと伝える余裕もない。

 ひまりだって、イサラに勇気をもらったのだ。

 ひまりが一歩を踏み出せたのは、イサラが勇気をくれたから。

 そんなイサラに少しでも勇気を与えられていたのなら、すごく嬉しい。


 イサラの挨拶からはじまった今回の国際ビックミーティングは大成功だった。

 最初の挨拶でイサラが声をあげたことによって、意見交換の時間にはたくさんの人たちが、諦めきったような笑顔ではなく、明るい笑顔で、真剣な表情で、前向きな話をしたのだ。

 懇親会がはじまってすぐに、ひまりはイサラへと駆け寄った。

「びっくりしたよ!」

「びっくりさせたくて、図書館に通うのを控えてみた」

「寂しかったんだから!」

 代表挨拶で嫌われたわけではなかったとわかっていたけれど、まさかそんな理由だったとは思わなくて、ひまりは思わず責めるような口調になってしまった。

 けれど、それでも喜色は隠しきれない。

「ごめんごめん。だってボク、ひまりに会ったら嬉しくて全部喋っちゃいそうだったんだもん」

「もー!」

 ぺしり、とひまりはイサラの肩を叩いた。

「イサラ、友達に紹介してもいい? 一緒に来てるんだけど」

「うん、是非」

 イサラを伴って少し離れた場所にいたミシェルへと駆け寄ると、ミシェルはパッ、と笑顔を浮かべてくれた。

「ミシェル! 紹介するね、この前少し話した……急に連絡が取れなくなった友達!」

「その紹介はやめてよ」

 ひまりの紹介に、イサラは苦笑いを浮かべている。

「大橋晴楽です。よろしく」

「赤石ミシェルよ。よろしく」

 それぞれ挨拶をして、ふたりは握手を交わした。

 イサラとミシェルが話している間に、ひまりはそっと周囲に視線を巡らせる。

 今回のテーマは日本での生活の悩みについて、なので、会場にいるのはほとんどが外国人だ。

 もちろん、イサラやミシェルのようにハーフやクォーターの人もいるだろう。

 けれど、飛び交っているのは英語だった。

 参加者の中には日本語を話せない人もいたから、自然とそちらに言語が合わせられたのだろう。

 ざわり、とひまりの胸が騒いだ。

 勉強は苦手ではなかった。

 授業は受けていないけれど、別室でひっそりと受けるテストは毎回平均点以上をキープしている。

 英語だって、どちらかというと得意科目だった。

 けれど、聞き取れない。

 そこかしこから聞こえる会話を聞き取ることもできなくて、ひまりはどのグループにも参加することができずに、縮こまった。

 イサラが言っていた、不安が強い孤独感とは、きっとこういう気持ちのことだろう。

 ふと、隣に誰かが立った。

 ひまりは思わず下げていた視線をあげる。

 優しい笑顔を浮かべた、イサラとミシェルがいた。

「行こう、ひまり」

 ミシェルに手を引かれて、足を踏み出す。

 ひまりは結局最後まで自分から声をかけることはできなかったけれど、ミシェルがたくさんの人にひまりを紹介してくれて、話についていけなくなると隣でイサラがフォローをしてくれた。

 ーー優しくて素敵な友人がふたりもいる私は幸せ者だ。

 懇親会も無事に終わり、ミシェルと別れたひまりとイサラは並んで帰路へとついた。

「ねぇ、イサラ」

「うん?」

「笑わないで聞いてね」

 ひまりの前置きに、イサラはしっかりと頷いてくれた。

「私、やりたいことができたの」

「やりたいこと?」

「私の世界はまだ小さいけど、もっと広い世界を知りたい。海外のこともたくさん知りたいし……将来は、国際関係の仕事がしたい」

 笑わないで、と前置きをしたのは、自分に自信が持てないからだ。

「あはっ。ひまりには日本が狭すぎるのかもしれないね」

 笑わないで、と言ったのに、イサラは笑った。

 けれどそれはひまりが危惧した、バカにしたような笑いではなく、柔らかくて温かな笑顔だった。

「ひまりなら大丈夫だよ。……すっごく頑張り屋さんなの、ボクは知ってるからね」

 うん、とひまりは頷いた。

 声を出したら、また泣いてしまうかもしれないと思ったのだ。

 ーー国際関係の仕事をするとしたら。

 もちろん英語の勉強は必須になるだろう。

 今日のように、ほとんど英会話ができないようでは話にならない。

 ひまりの頭に浮かんだのは、国際特進科を有する県内の高校の名だ。

 週に一度はすべての授業を英語で受けると聞いて、驚いた覚えがある。

 いつになく前向きな自分が、なんだかおかしかった。

 急には無理かもしれない。

 いきなり毎日学校に通うことは、さすがに難しいかもしれない。

 でも、週に一度の登校は、もう問題なくできるようになった。

 ーー夏休みが明けたらもう一日、登校日を増やしてみようか。

 そう考えても、胃は痛まない。

 できることから、一歩ずつ。

 ひまりはひまりのペースで進んでいけばいい。

「ボクにも、夢ができたよ」

 そう言って、イサラが楽し気に笑った。

「学校の先生になりたいんだ。できれば小学校のね」

 小学校の先生をしているイサラは、簡単に思い浮かべることができた。

 とても似合っていると思う。

「ハーフやクォーターの教員って、結構珍しいんだよ。……どうしたって、色々不利になるから」

 その言葉に、ひまりはハッとした。

 イサラが受けているという差別のような扱いが、ずっと続いていくとしたら。

 けれどイサラは、なんでもないことのように笑っている。

「ボクが大学を出る頃にはさ、そういうのも当たり前になっててほしいな……ってね」

 にっこり、とイサラが笑う。

「何年後かにさ、やろうよ。ボクが先生をしてる小学校で、ひまりの国際文化授業!」

 頷こうと動きかけた首が、寸前で止まる。

 代わりにひまりは、イサラに負けないような明るい笑顔を浮かべて、グッと親指を立ててみせた。

「Sounds Good!」

 イサラと出会った日に、知った言葉。

 相手を肯定する、素敵な言葉だ。

 イサラも親指を立ててみせてくれた。

 透き通るような青空が美しく澄んだ日。

 夏の太陽が、ふたりを応援するように輝いてくれていた。

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