17 木蔭さん
五十鈴さんが見つけた木蔭明菜は、とても影の薄い子だ。
身長が低くて、メガネをかけていて、声が小さくて、自己主張が弱く性格も控えめ。ただそれだけならばどこにでもいる普通の少女なのだが、木蔭さんの影の薄さは天性のものだ。
同じ教室にいるのにクラスメイトは誰も木蔭さんの存在に気付かない。両親と出かけるといつも迷子になり、朝礼で先生に名前を呼ばれない時も頻繁にある。
だから誰かの記憶に残るような人間関係を作れたことがない。
苦労の絶えない悩ましい体質だが、利点もある。
それはトラブルが起きないことだ。
クラス内にいじめっ子がいても、不良がいても、何か事件が起こっても、木蔭さんはターゲットにされることも巻き込まれることもない。
いつも静かで、平穏で、平凡な毎日。木蔭さんはその平和を噛みしめることで、自分の体質を受け入れていた。
だがその考え方は、中学で限界を迎える。
(私だって…友達を作りたい)
木蔭さんは存在感のない、空気でしかない自分から脱却したかった。
(天才が集まる華岡学園…ここでなら、自分を変えられる…!)
多くの天才が在籍するこの華岡学園なら、自分を見つけてくれる人がいるはず。そして新しい自分を見つけることが出来ると思っていた。
しかし、華岡を選んだのは逆効果だった。
個性的な生徒に囲まれ、無個性である木蔭さんの影は更に薄くなってしまった。しかも同じクラスには全校生徒が注目する五十鈴さんがいる。
そんな環境では、誰も木蔭さんの存在に気付かない。
(きっと…私は一生こうなんだろうな…)
高校一年の序盤だというのに、木蔭さんはいろいろ諦めてしまった。
※
木蔭さんは影で人の役に立つことが好きだった。
教室の掃除をしたり、落とし物を返したり、教材を整えたり…誰にも気付かれずこっそりやることがポイントだ。
(変わりたいといっても、表舞台に立ちたいわけじゃないんだよね。小説の登場人物で例えるなら…ヒロインを支える友達の友達くらいな立ち位置がベスト…)
木蔭さんの考え方は根本的に控えめだ。
それもまた存在感の薄さに繋がっているのだが、こればかりは性格なので変えようがない。
(さて、みんなが来る前に掃除しよう…)
先生やクラスメイトが綺麗な教室で過ごせるよう、木蔭さんは朝早く来て誰もいない内に教室の掃除をしていた。
(…あんまり汚れてない)
箒を取り出したが、教室はあまり散らかっていない。
(また…五十鈴さんたちが掃除してくれたのかな)
木蔭さんは知っている。
あの恐ろしいお嬢様で有名な五十鈴さんが、たまに放課後残って教室の掃除をしてくれていることに。
(他にも西木野さんと園田くんが協力して、教室を掃除してくれてる。なんだか私だけ影で掃除して…惨めだな)
そう考えた木蔭さんは掃除の手を止める。
(教室の掃除はあの三人に任せて、朝の掃除は止めようかな…)
ここで五十鈴さんたちの輪に加わろうとせず、自分のことを影と表現して卑屈になってしまうのは木蔭さんの悪い癖だ。
影が薄いのなら、自分から動かなければ現状を変えることは出来ない。それは日本語が話せないという誤解を受けてしまった五十鈴さんと同じだ。
「おはよう……」
その時、木蔭さんの背後から高貴な声がかかる。
(…!)
この華岡学園に入学して、木蔭さんは初めて他人から声をかけられた。突然の事態に動揺しつつ、恐る恐る背後を振り返る。
「……」
そこには、五十鈴さんがいた。
(五十鈴さん…!?いつもより登校時間が早い…)
普段から朝が早い五十鈴さんだが、今日は一段と早い。
「お、おはよう…ございます…」
木蔭さんは何とか挨拶を返したが、有名人である五十鈴さんに声をかけられると思っていなかったので困惑していた。
(この人が私の存在に気付くなんて…でも、なんで私に声をかけたんだろう…?何を話せばいいのかな…日本語通じるのかな…)
どう対応すればいいのか木蔭さんは考えを巡らせるが、対人経験が少なすぎて全く分からない。
「…」
だが木蔭さんは気が付いた。
五十鈴さんの綺麗な手に、塵取りが握られていることに。
「掃除、手伝います……」
そして五十鈴さんは小さく呟いた。
「………」
全てが唐突すぎて木蔭さんは放心状態だが、五十鈴さんと一緒に掃除をするという夢のようなチャンスは逃せない。
「あ、えっと…ありがとう…!」
木蔭さんは咄嗟にそう答え、二人で教室の掃除をすることになった。
「…」
「……」
掃除中、二人の間に会話はない。
それはとても控えめな関係の始まり方だが、内気な五十鈴さんと木蔭さんにとっては大きな前進だ。