名前
「まんべえ」
謎の呪文のような言葉と共に、男は揺り起こされた。
「起きて、まんべえ」
「もう起きてるよ。ったく、まだ日が昇ったばかりじゃねぇか」
男はそう言って唸り声を上げ、重たい瞼を擦る。
扉のない玄関から見える景色は、優しい橙色に染まっていた。
「まんべえ、お腹空いた」
茜が再び男を揺り動かした。
男は不愉快そうに顔を歪ませ、ただ無抵抗に揺られている。
「この家に食いもんはねぇ。外に生えてる草でも食え。じじいが埋まってる辺りなんか良く育ってるんじゃねぇか」
「お腹壊しちゃうよー」
男はふくれっ面の茜に背を向け、これだからガキは、などと呟きまた眠りに入る。
恨めしそうな視線を背中で受け流しつつ、安らぎの世界へ落ちていく。
「万兵衛!」
耳をつんざく声がすぐさま男を現実へ引き戻す。
男は電流を流されたように跳ね、心臓がろっ骨を突き破らんばかりに鼓動する。
「うるせぇ! 人は驚いただけで死ぬことだってあるんだぞ! それに、気にしないつもりでいたがなんだ、『まんべえ』って」
茜は怒声に一瞬ひるんだが、投げかけられた問いに待ってましたとばかりに目を輝かせた。
「おじ、お兄さんの名前だよ。さっき思いついたの。」
茜がお兄さんと呼んだのは男の小まめな注意の賜物であったが、それはこの際重要ではない。
今の言葉が聞き間違いであることを祈り、男は聞き返す。
「なんだって?」
「万兵衛っていうのは、お兄さんの名前だよ」
茜は子犬に教え込むように、丁寧に繰り返した。
「うーん」
男は頭の整理がつかず、顔をしかめながら頭を掻いた。
「俺の名前?」
「そうだよ。考えてあげるって言ったじゃん」
そう言えばそうだったと男は思い出す。
そして昨日は流石に自暴自棄になり過ぎたと反省し、さらに渋い顔をしる。
「却下だ。なんだよ万兵衛って。飲み屋みてぇな名前だな」
「あのね、お父さんに聞いたことがあって、昔すごく強いお侍さんがいたんだって。万兵衛っていうのは、それよりもずっと強いって意味が込められてるんだよ」
茜は自信ありげにそう言うのであったが、男の心は微塵もなびかなかった。むしろ誰かと比べられることに若干の嫌悪感を覚えた。
「そうか。でも駄目だ。もうその名前で呼ぶなよ。ちくしょう、お前の相手をしていたら俺も腹が空いて来たぜ」
男は吐き捨てるように言うと、むくっと立ち上がり玄関へ向かった。
「魚でも釣るか。裏に二人分の道具があったはずだから、自分の飯は自分で確保しろよ」
外へ出る男の後を、茜は落ち込んだ様子で付いて行く。
朝の陽ざしを受けて、水面が眩しく輝いている。
静かな川岸には穏やかな風が吹き、水中へ垂らされた釣り糸を振り動かした。
雲一つない青空には、遥か高く円を描くように飛ぶトンビが風を切っている。
時間が緩やかに流れていく。
「釣れないね」
「……」
男が特大の欠伸をした。
茜は退屈しのぎに竿先でトンボを追っていたが、すぐに飽きてただ糸を垂らすのだった。
河には魚など生息していないかのように、二人の竿はひたすらに沈黙していた。
「はぁ」
ため息をついた男の目を、水面の光がくすぐった。
その光に、男の脳裏に月舟の一閃がよぎる。
昨日の一戦、男が放った苦肉の策ともいえる突きは、月舟が放つ太刀にかき消された。
しかし、確かにそれを捉えることが出来たのだ。不可避の斬撃が放たれるその初動を。
その瞬間の、魂を吸い込まれるような威圧感を思い出し男は身震いする。
いつになればあの男を倒すことが出来るのだろうか。そもそも、俺にそんなことが出来るのだろうか。
『今のあなたでは手も足も出ないでしょう。』
月舟は言っていた。その言葉に嘘はないのだろうと男は理解する。
このまま研究所へ乗り込んだところで、あっさりと殺されてお終いであると。
この数日間で、男を支えていた誰にも負けるはずがないという根拠のない自信は跡形もなく消え失せていた。
男は焦っていた。
妹の仇を討つという目的があと少しで果たされるかと思い込んでいた矢先、再び振り出しに戻されたような気持ちにされたのだ。
それでも男は刀にすがるしかなかった。
いつだって目の前に立ちふさがる障害は斬り伏せてきた。それしか方法を知らないのだ。
「はぁ」
遠のいてしまった念願の成就を想い、男は再びため息をついた。
「どうしたの」
茜が心配するように男の顔を見上げた。
「なんでもねぇよ。……なぁお前、そんなんで、どうやってこれまで生きてこれたんだ」
男が訊いたのには特に理由は無い。
ただ退屈していたのだ。
「ここからずっと行った場所でね、お父さんと暮らしてたの」
小さく言った言葉にはどこか悲しみが含まれていた。
「死んじまったのか、父ちゃんは」
それは不用意な問いであるように思えたが、大袈裟に慰めるような真似をして下手に悲しい雰囲気にさせないための男なりの気遣いのようなものであったのかもしれない。
「分かんない」
「分かんないだと?」
男は茜の横顔を見た。
その表情は何も映さない全くの無であった。本当に事情を知らないといった様子である、。
「お父さんとご飯を食べてる時ね、知らない人がたくさん来て連れて行っちゃったの。だから、分かんない」
その言葉だけで、男は全てを理解した。
男がかつてそうであったように、茜の父親は被検体として研究所へ連れて行かれたのだ。
恐らく茜の父親は、茜を匿い一人だけ犠牲となったのだろう。
「そうか」
男はそれ以上聞かなかった。
少女の中にも自分と同じように耐えがたい記憶が根付いていると思うと、男の心は微かに疼くのであった。
「万兵衛は強いから、連れて行かれたりしないよね」
「…当たりめぇだろ。誰が来ようと返り討ちよ」
万兵衛という呼び名を、男は拒絶しなかった。茜の表情をこれ以上曇らせてしまっては、流石に心が痛むと思ったのだ。
やけに明るく響いた声は、止めどなく続く水音にかき消された。
「えへへ、よかったぁ」
しかしそれは確かに茜の耳に届き、花が咲いたような笑顔を作りだしたのだった。
「あっ」
その時、茜が持つ竿が大きくしなり、小刻みに揺れた。
「万兵衛、どうしよう」
「よし貸せ」
男が茜から竿を受け取り、それを一気に引き上げると、銀色に輝く魚が身をよじらせながら姿を現した。
「おお、こいつはなかなか」
「やったね」
二人は魚を囲み、顔を見合わせ喜んだ。
手に魚の力強さを感じる中、男は思い出す。
『自分の飯は自分で確保しろよ』
それは男の言葉であった。この場合、魚は茜の竿に掛かり引き上げられたのだから、これは茜の物になるだろう。
男の表情が、雲がかかるようにたちまち沈んでいく。
「良かったな。あー、俺にも来ねぇかな」
男は魚を袋にしまい込み、座り込むとまた自分の釣り竿を手に取った。
その背中に、茜は歩み寄る。
「万兵衛、これ二人で半分こしよ」
袋を持ち微笑む茜を見て、男は自嘲気味に鼻で笑った。
「かたじけねぇ」
男の照れたような顔を見て、茜の笑顔がさらに大きく咲いた。
「まだ三日目です。焦らずじっくりと行きましょう。ですが、あくまでも殺す気でかかって来なさい」
月舟が棒を手に取り、男の正面に向き合った。
「心配すんな。今日にでもてめぇを叩っ斬ってやる」
刀を構える男から放たれる殺気を確認すると、月舟はいつものように神速の構えを取った。
それに伴い、裏庭に流れる空気が動きを止める。
「それでは弟子よ、いつでもかかって来なさい」
「弟子じゃねぇよ」
そう言った男の様子を、深く身を屈める月舟が上目でちらと見た。
「万兵衛と呼んでもらおうか」
万兵衛はにやりと笑い、ぐっと刀を握りしめた。
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