博士とその死
「おいじじい、戻ったぜ」
男は河原にある老人のボロ屋へ帰ってきた。
暗く湿った部屋からは返事はない。
「寝てんのか?」
老人には外出する元気がないはずであるが、人の気配すら感じないことに男は一抹の不安を覚えた。
部屋の奥へ進むと、老人は昼間と同じ姿勢で横になっていた。
男は全てを理解し、ゆっくりと老人の傍へ寄り首筋へ指を添えた。
「…逝っちまったか」
予感はしていた。
多少おかしな言動は見受けられたが、いつものように接する老人の様子に、気のせいだと思い込もうとしていたのかもしれない。
もしくは人の死とは止めることが出来ないものであると、心のどこかで覚悟していたのだろう。
しかし、男は老人が死んでしまったことに対して、悲しいだとか名残惜しいなどとは微塵も思わない。
むしろ喜ばしくあるとさえ感じていた。
目の前に横たわる老人の形をした入れ物の中には、先ほどまで魂が宿っていた。
それが今では、この地獄のような世から解き放たれ天へ昇って行ったのだ。
それをめでたいと言わずしてなんと言うのだろうか。
「いや、あんたのことだ、さらに地獄へ落ちたのかな」
男はもう二度と目を覚ますことはない老人へ向けて言った。
だがそれに対する返事は決して返って来ることはない。
「羨ましい、なんて思わないぜ。俺にはまだやることがある」
男は誰ともなしに言い、立ち上がると、ボロ屋の外へ出て裏へ回った。
そこは三畳ほどの草地であったが、生前の老人曰く、れっきとした庭である。
やせ細った柿の木だけが庭としての体裁を保っている。
男は、ぐちゃぐちゃと柿を貪る老人を思い浮かべた。
「ここでいいか。じじいもきっと気に入るだろう。」
そう言って、顎髭をいじりながらまたボロ屋へ戻って行く。
日も暮れ、周囲は夜の闇に包まれようとしていた。
「ふぅ」
汗を拭った男の前には、土がうずたかく盛られている。冷たい地面の下には老人が眠っているのだ。
だがそれは男にとっては重要ではない。冷たい土の中だろうが、灼熱の炎の中だろうが、ここに老人はいない。彼はとっくに旅立ったのだ。
それならば、なぜこんなに時間をかけてまで老人を埋葬したのか。
じじいの死体なんか見苦しくてかなわねぇ。
男はきっとぶっきらぼうにそう言うことだろう。
だが、死者を弔うという最低限の人間性くらいは男に備わっていた。そのはずである。
「おい、何をしてる」
ボロ屋の陰に隠れるように、一人の浮浪者風の男が覗いていた。
着物は熊にでも襲われたかのようにいたるところが破れ、髪と髭を思うがままに伸ばしている。
浮浪者風というより明らかに浮浪者である。恐らく、この河原の住人であろう。
「じじいを埋めていた」
男はありのままに伝えた。
だが浮浪者はそれを聞いても驚く様子は見せず、ボロ屋の陰から姿を現わすと、小高く盛られた土の近くへ歩み寄った。
「あの人は、博士は死んだのか」
浮浪者の言葉から、男は老人がこの界隈で『博士』と呼ばれていたことを知った。
確かに、老人はこの河原に長く住んでいただけあって物知りであった。何か困ったことがあれば、助言を求めて老人のもとへやって来る人間も少なくは無かった。
『博士』という呼び名は、そんな人々からの人望の厚さを表しているのだろう。
「ああ、死んだぜ。ついさっきな」
「…そうか。博士があまり長くないことは知っていた。こうしてちゃんと埋葬してもらえたんだ、あの人も幸せだろう。それで、あんたは博士とどんな関係だったんだ」
「ガキの頃から色々と世話になってな。それなりに長い付き合いだ」
「あの人が世話をしていたのなら、あんたも悪い人間ではないのだろう。残念だが、あまり悲しまないことだ。博士も成仏できん」
「ああ」
浮浪者は目を潤ませてそう言うと、土の山、もとい老人の墓に向けて手を合わせた。
「じじいは言っていた。もし、わしが死んだら家はお前にくれてやると。俺はその遺言に従うつもりだ。じじいがそれを望むのならな」
「そうだな、そうすると良い。博士も喜ぶ」
男の嘘は浮浪者の心に深く染み込み、さらなる涙を誘った。「良かったな、博士」と言って土を撫でている。
「俺はもう中へ入るぜ。遺品の整理をしなくちゃならねぇ。あんたは気が済むまでじじいに別れを告げると良い」
涙を流し悲しむ浮浪者をこれ以上茶番に付き合わせるのも気の毒に思い、男は庭を後にした。
「博士、あんたの見込んだ子は優しく育った。なにも心配することはない。」
浮浪者の言葉を背にしながら、男はボロ屋へ入った。
「確かここら辺に…」
男は暗闇の中から手さぐりにマッチを探すとそれを擦り、魚油に浸された灯芯へ火をともした。
部屋が橙色の暖かな光に照らされると、薄暗い部屋の隅に、隠すように布が掛けられた籠が浮かび上がった。男はすかさずそれを漁った。
そして一本の瓶を手に取ると、口元に笑みを浮かべた。
「じじいの奴、酒なんぞ隠してやがった。」
男は壁によりかかると、酒瓶の蓋を開けてそれを己の口に傾け、流れ込んでくる液体を口に含んだ。
飲み込まれた酒は確かな熱を男の喉に伝え胃に落ちた。
「かぁ~」
男から暖かな吐息が漏れ、部屋を照らす火を微かに震わせた。
火が作り出す影がまどろむように揺れる。
男は、かつて老人が横たわっていた部屋の中央を見つめている。
「あんたの言うとおりだった。奴はまさに最強だ。手も足も出なかったよ」
そう言って男はまた酒を口に含み、一気に飲み込んだ。
光を反射した瓶が目をくらませるようにちかっと光る。
「俺に弟子になれってさ。まったく調子が狂っちまうぜ。俺はあいつを斬りに行ったって言うのによ」
家の外では蛙のやかましい鳴き声だけが聞こえている。
なおも男は虚空に向かって話を続ける。
「あんたはこうなることを知っていたんだろうな。でも、どうすれば良い。このまま大人しくあいつのもとで剣術を学べとでも言うのかい」
そこで口をつぐみ、男は顔を伏せた。この世に存在しない人間に答えを求めるなぞ、馬鹿らしいと言うほかない。
「酔ったらしい」
自嘲気味に呟くと、男はそのまま静かに目を閉じた。
馬鹿。
男の耳に聞こえたその声は、酔いが聞かせた錯覚であったのだろうか。
火の灯りは徐々に勢いを失い、陰る。






