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深淵に燃ゆる刃  作者: トキタケイ
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諸岡月舟①

 男は丘を下り、河原の道を歩いていく。

 背の高い草が風に揺れ、緩やかに流れる水の音が聞こえている。

 しかしその風景に、男の心は安らぐことは無かった。それには理由がある。


 この河原には、河に沿って線を引くように掘っ立て小屋が立ち並んでいる。それらは今にも倒壊してしまいそうなほどの趣きであるが、れっきとした人の住む家である。

 ある者は周辺で作物を育て、ある者は魚を釣って日々の命を繋いでいた。

 ここに住む者の多くが、明日への目的なぞ持たずに今日をただ生き永らえている。


 しかし住む家があるだけましなのである。この時代、ほとんどの人間が掘っ立て小屋すら建てる余力すらなく、屋根も無い野外を寝床とする。そうして、やがて静かに死んでいく。

 男はその眺めを前に、目を細めて憂いに沈む。



 歩き続けたのち、男は一軒の小屋の前で立ち止まった。

 それはボロ屋であるのは言うまでもないが、他と比べると幾分か立派な掘っ立て小屋である。

「おい、じじい。生きてるか」

 男は玄関と呼ぶべき入り口に足を踏み入れた。小屋の中は妙にひんやりとしており、じめじめともしていた。


 男の言葉に反応し、部屋の中央で何かが動いた。

「おお…、ゴホッ。いいところに来た。もうすぐで三途の川を渡り切るところだったぞ」

 そこには茣蓙の上に老人が横たわっていた。

 体はやせ細り、細い目は開いているのか閉じているのか区別がつかない。

「そいつは邪魔したな」

「馬鹿、まじで死ぬところじゃったぞ。向こう岸でばあさんが手招きしておったわ」

「馬鹿はどっちだ。おめぇはずっと独り身だろうが」

「……そうじゃった。」

 老人が息を漏らすように言った。枯草のような口ひげが悲しく揺れる。


「それで、今日は何しに来た。死人同然の老いぼれをからかいにでも来たか」

「そんなことに貴重な体力を使ってられるか。いやぁ、腹が減ってな。悪いが、芋でも分けて貰おうかと思って」

 男が申し訳程度の詫びを入れつつ頼み込んだ。

「食いもんなんぞ無い。もはや全て糞になってしまったわ」

 そう言った老人から異臭が漂い、男の鼻を刺激した。

 見ると、老人の臀部が僅かにこんもりと盛り上がっている。

「いや、垂れ流しかよ。ひでぇ臭いだ。しっかりしてくれよ」

 男は顔をしかめ、鼻をつまんだ。


「尻の感覚なんてもんはとうに無い。勝手に漏れる糞が悪いのだ。それよりお前さんこそ、血の匂いがするな。また人を斬ったのか」

 老人が僅かに片眼を開いてみせた。そこには皺だらけの顔面に似つかわしくない光が宿っていた。

「殺しちゃいねえよ。少し生意気だったもんで、身の振り方ってのを教えてやっただけだ」

「そうやってまた弱者を痛めつけたのであろう」

 ため息が再び口ひげを揺らした。

 そうして老人はそのまま永遠に眠ってしまいそうな様子で目を閉じる。


「俺が強くなったんだ。そこでだが、そろそろいいんじゃねえかと思うんだ」

 男の言葉に、老人は反応を示さなかった。

 本当に死んでしまったのではと若干心配した男であったが、構わず語り続けた。

「もう十年も待った。それで分かったんだ。ここらで俺の敵になるような人間はいねぇ。ならば行くしかねぇだろ。やるぜ、俺は『研究所』をぶっ潰す」


「ふっ、ふふふ、ゲホッ、ガハッ」

 不意に老人が笑いながら吐血した。

「ゲホッ、ハァハァ。ふふ、よもや己が最強とでも言うつもりではあるまいな」

 粘度の高い赤黒い血を口からこぼしながら、なおも老人は笑った。


 男は老人を労わることもなく、不愉快そうに眉をひそめた。

「どういう意味だ」

「お前さんには井の中の蛙という言葉があつらえたようにお似合いじゃ。いや、金玉の中のオタマジャクシとでも言うべきか。若すぎるぞ。そして滑稽だ」

「挑発してんのか。良いぜ、表へ出な。」

 男の頭髪が逆立ち、体中から噴き出した殺気がたちまち小屋を満たした。

「待て、そうじゃない。わしはただの糞もらしじゃ。刀を持つ気力すらない老いぼれじゃ」

 老人は目を見開き、掠れつつもここ一番の声で弁明した。


 その様子を見た男は流石に哀れに思ったか殺気を解くと、老人は元の糸目に戻り安堵のため息を漏らした。

「無駄に恰好をつけずに単刀直入に言え」

「隣村へ行け」

 男の言う通りに、老人が一言だけ言い放った。


「この河原を歩いてすぐだ。そこに諸岡月舟という男がおる。かつては剣術指南役として道場を営んでおったが今は分からん。月舟こそ、ここら一帯では最強じゃ。そいつと手合わせしてみるといい。己の小ささを知ることが出来るだろう」

「そいつに勝つことが出来れば、俺は堂々と最強を名乗れるということだな」

「無理だろうが、そういうことになる」


 老人の言葉を聞き、男は口元に不敵な笑みを浮かべ背を向けた。

「良いことを聞いた。最近は手ごたえのねぇ相手に飽き飽きしていたところだ。さっそく行って来るぜ。すぐに最強の名を背負って戻ってきてやるよ」

「待て、奴は…」

「じゃあなじじい。俺が戻ってくるまでに糞の始末くらいはしておけよ」

 男は老人の台詞を遮り足早に小屋を後にした。その背中を見送り、老人はこの日何度目になるとも分からないため息をついた。

「お前は奴に勝つことは出来ない。なぜなら奴は…。」

 そこまで言って、老人は力尽きるように目を閉じ深い眠りについた。

 微かに漏れる吐息が、命の終わりを告げるように。



 老人が言ったように、男が河原の道を進んでいくと家屋の立ち並ぶ集落が見えた。

 家屋と言っても、河原の掘っ立て小屋よりも幾分かましといった具合の朽ちた家ばかりである。

 すれ違う人々も、誰もが粗末な着物を着ており、その顔はどれも生気が感じられない。

 この場所も寂れた空気が支配していた。

「…どこも同じようなもんだ」

 辺りを見渡し、男が心の声を漏らした。


 あばら骨が浮き上がるほどに痩せた野良犬を横目に、男は一軒の家屋の前に辿り着いた。

 道場らしきものは見当たらないが、立てかけられている朽ちた看板からは、辛うじて道場という文字だけが読み取れる。

「ここ、しかねぇよな」

 男は一歩踏み出し、挨拶も無しにその家の戸を勢いよくこじ開けた。

「おい、いるか」

 不躾な言葉は部屋に響き、そして静寂の中に染み込んでいった。


 静けさの中から人の姿を探す男の目に、その人物は映った。

「なにか御用でしょうか」

 質素な椅子に腰を掛けた男が、湯気の上がる湯呑みを静かに卓へ置いた。

 姿勢は上から糸でつられたように正しく、目元の小じわが加齢を表しているが全体として若々しさを感じさせる佇まいであった。


「諸岡月舟とはあんたのことか」

「そうですが」

 月舟は落ち着き払った様子で言った。

 男には決定的に欠けている礼儀というものが、その対応から受け取ることが出来る。

「ここらじゃ最強の剣士だと聞いて来たんだが」

 慣れない対応にやや物怖じしつつも、男は月舟に言った。


 その言葉を聞いて、月舟はようやく男に視線を向ける。

「なるほど、道場破りというわけですか。残念なことに道場なんてありませんし、門下生も一人としていませんが、良いでしょう。ちょっとだけなら手合わせしてあげても」

「手合わせなんてもんは望んじゃいねぇ。俺はお前を斬りに来た」

「斬る、とは。真剣勝負をお望みですか」

 月舟はそう言って、口に手を当てくすくすと笑った。


 それを見た男の中で、沸々と怒りが湧いてくるのを感じた。

「何が可笑しい。やるのかやらねぇのか答えろ。どちらにしても俺はお前を斬るまで帰らねぇからな」

 男の熱気を感じていないかのように、月舟は茶を一口だけすすると深く息を吐いた。

「すみませんでした。あまりに突拍子もない申し出だったもので。そうですねぇ、良いでしょう。それならば裏庭へ行きましょう。表で騒ぎを起こすわけには行きませんから。付いてきてください」

 月舟はもう一口茶をすすると、立ち上がり勝手口に向かった。

 男も部屋に踏み込み、足取りも荒くそれに付いて歩いた。


 裏庭は想像していたよりも広く、中央は踏み慣らされ地面が露出していた。

 剣を交えるには十分な場所だ、と男は思った。

 しかし、男のそんな思惑とは裏腹に、月舟は傍らに立てかけられた三尺半ほどの木の棒を拾い上げ、そして言った。

「それでは早速、始めましょうか」


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