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深淵に燃ゆる刃  作者: トキタケイ
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師弟

 万兵衛は正面に立つ月舟を睨むように見つめた。


 刀を正中に構え、まるで時が止まったかのように微動だにしない。

 視線は貫くように鋭く、相手のどんな動きでさえ見逃す気配は無い。

 心の内さえ覗くようなその視線に、万兵衛は圧倒されそうになる。

 初めて月舟と会った時から幾度となく目にしてきた光景だ。


 月舟が纏う静の空気は、万兵衛をいつでも慎重にさせた。

 無音の深海の如きその佇まいは深い静けさに満ちていたが、だからこそ生半可な一撃などたちまち飲み込み命まで奪うような恐怖を感じさせる。


 万兵衛は摺り足で僅かに距離を詰め、そしてまたその場に立ち止まった。

 今宵、月舟が持つのは普段彼が使っている棒切れなどではない。

 一太刀でも食らえば後はない、銀色の刃が万兵衛に向けられている。


 極限まで高まった緊張感が万兵衛の体を強張らせ、金縛りにあったように彼の動きを鈍らせる。

「ふぅ」

 万兵衛は一度、深く息をした。

 これから彼は目の前の男を斬らねばならない。

 今まで目指し、越えようとしてきた強さの極致。

 それを越えねばならないのだ。


 だが、一向に踏み込むことが出来ない。

 長期戦はあり得ない。

 恐らく一瞬のうちに勝敗は決する。

 それが分かるからこそ迂闊に踏み込めないのだ。


 その時、固く閉じられていた月舟の口が僅かに開き、そこからゆっくりと息が漏れた。

 静けさに浮かぶ不動の双眸。

 その静けさの奥で、月舟も同様に攻めあぐねているのだろうか。

 万兵衛がそう感じた時。

「…来ないのですか」

 月舟が言った。


 優しさに満ちた声が耳に届き、万兵衛は思い出す。

 月舟の家の庭で、初めて彼と立ち合った時のことである。

 彼は一心不乱に斬りかかる万兵衛を、まるで子供の相手をするようにあしらった。

 その時に万兵衛がぶつけた武は、月舟にとってはじゃれつく程度の未熟なものでしかなかった。


「へっ…」

 万兵衛は思わず笑みを零した。

 思い出に浸り、それを懐かしいと感じたからなどではない。

 理解したからだ。


 月舟は待っている。

 取るに足らない幼稚な剣が今、こうして強大な敵として立ちはだかっている。

 その軌跡を、命の奪い合いの中で確かめようとしている。

 月舟の刺すような視線の中に暖かな光を見つけ、万兵衛は確信する。

 敵としてもなお、この男は師であろうとしている。


「…度肝抜かれんなよ」

 呟くや否や、万兵衛は踏み込んだ。

 間合いに入った時には、既に刃は月舟の頭上に迫っていた。

 万兵衛は躊躇なく振りぬく。

 しかしそれは空を切り、床を突いた刃先は火花を散らした。


「こっちです」

「知ってらぁ…!」

 言われるまでもなく、万兵衛は声のした右方へ薙ぎ払う。

 だがまたしても刀は空を切り、刃の下へ躱した月舟が万兵衛の腹を斬り払った。

「それも知ってる…!」

 月舟の一撃は身をよじり躱した万兵衛のわき腹を掠め、返す刀で今度は手元を襲う。

 それを受けようとすかさず構えるが、軌道を変えた刃は踏み出された脚を裂いた。

 傷は浅い。

 万兵衛の腿から緩やかに鮮血が流れる。

 

 まるで分かっていたかのように、万兵衛は全ての斬撃を回避した。

 否、分かっていた。

 全てが再現のようだった。

 一つ一つが、かつて万兵衛が月舟を訪ねて来た日のように同じだった。

 異なるのはその一つ一つに殺気が溢れていたことだけである。

「…なんのつもりだ」

 万兵衛は刀を握り直しそう言った。


 その言葉に、月舟は微笑みで返した。

「強くなりましたね」

 さらに口角が上がり、微笑みは狂気を含んだ笑みに変わった。


 肉を斬ることを楽しむ機械。

 月舟の脳は今、殺傷の快楽を求めているのだろうか。

 これまで見せることのなかった表情に、万兵衛は目を細めた。

「久しく味わえなかった斬り合いの予感がします。どうか気を抜かぬよう」

「安心しろ。俺がその難儀な脳みそから解放してやる」

 息を吐く間もなく、再び両者はぶつかり合う。


 苦し気な軋みを上げて押し合う刃の向こうで、万兵衛と月舟は互いに相手の目を見つめた。

 刃ごと押し切ろうとする万兵衛の剛力を、月舟はその歳からは想像できない力で押し返す。

 むしろ口元に笑みを浮かべるその様は、有り余る力を隠しているようにも見える。


「力のみで押し切ろうなどと考えないことです…!」

「これでもかよ…!」

 万兵衛はそう言うと、相手の体勢を崩そうと刀に力を込めた。

 しかし、月舟はまるでそれを知っていたかのように一瞬身を引き、押された力を受けずに流した。

「何っ」


 前のめりになった万兵衛へ、振り下ろされた刃が迫る。

 剥き出しの殺気が首筋へ迫り、万兵衛はその先へ右手を掲げた。

 刃は機械の右手から小指を奪い去り、軌道を逸らして生身の肩を斬り裂く。

「小細工に頼るなど…!」

「ぐぅっ…!」

 苦し紛れに放った突きは月舟の頬を掠め、すぐさま斬り払われた。

 瞬きする間もなく、開かれた万兵衛の身体に次の刃が触れると同時、それと同調するように万兵衛は後方へ転がった。


 膝を付いた万兵衛の胸から腹にかけて肉が裂け、そこからは勢いよく血が噴き出した。

 休む暇などない。

 身を屈めた万兵衛の顔面へ、目の前まで刃は迫っている。

 それをさらに低く躱すと、踏み出された月舟の左足へ蹴りを放った。


 月舟はそれをこともなげに回避し、相手の脳天へ煌めく銀色を振り下ろす。

 その一撃は命を奪うこと能わず、横へ転回した万兵衛の髪を散らした。


「ふぅッ」

 呼気と共に、月舟の隙をついた斬り上げが放たれる。

 裂かれたこめかみから血を吹き出しながら、月舟が放った薙ぎ払いは風を斬る。

 万兵衛は刀身でそれを受けると、痺れるような衝撃を感じながら再び鍔ぜり合いへ持ち込んだ。

「あと一つ踏み込みが甘いです」

「…稽古でも付けてるつもりかよ…!」


 月舟が一度強く押した時、今度は万兵衛が刀を引きそれを流した。

 だが月舟はそれを察するや、互いの刃が離れた瞬間に相手の刀を横へ弾いた。

「退けば死にますよ、万兵衛…!」

「てめぇは…!」

 万兵衛は切り返し襲い来る刀を、己の刀の腹で滑らせそのまま振りぬいた。

 僅かに届いた刃先は月舟の首から鮮血を散らせる。

「そうです!」


 笑顔の月舟は宙に舞う血の珠を浴びながら刀を引き、万兵衛の脇腹を貫いた。

「ぐっ、がふっ」

「それが甘いと言っているのです!」

「ああぁぁぁ!」

 万兵衛が叫びながら月舟のどてっ腹を蹴飛ばすと、血塗られた刀は滑らかに引き抜かれた。

 月舟はすぐさま踏みとどまると、蹴られた腹を片手で押さえながら苦し気に構える。


 当然その瞳からは一切の闘志は失せておらず、睨みつけるように万兵衛を見据えている。

 万兵衛も息を荒げながらそれを睨み返す。

 斬り裂かれた体、特に腹の出血が激しい。

 予想より勝負が長引く中、これ以上の長期戦は万兵衛にとって分が悪い。

「…」


 万兵衛は刀を握る手に力を込めた。

 それは月舟の目にこの戦いを終わらせる決心と映ったか、諸手で刀を握りなおすと静かに口を開いた。

「私は、まだあなたの全てを見てはいない」

「……俺は手を抜いたつもりは無ぇ。いつだって俺はあんたを…」

 そこまで言って万兵衛は口をつぐんだ。

 そして今では笑顔の消え失せた月舟の瞳の奥を見る。

 そこに未だ存在する暖かな光を感じた時、万兵衛はやっと分かった。


 月舟は戦いに快楽など感じてはいない。

 必死に自我を保ち、師として刀を握り、師として命を懸けている。

 万兵衛にそれが分かったのは、彼が感じた優しい光の中に隠された苦しみを見たからであった。


『あなたは私の意志を継ぐに足る唯一の人間なのです』


 かつて月舟が言った言葉が呼び起こされる。

 全てを悟った時、弟子を見つめる月舟の瞳が揺れた。

「月舟、あんたは…」


 月舟は。

 彼はこうすることでしか伝えることが出来ない。

 刀を握れば何もかも壊してしまうからだ。

 抑えきれない力が師として刀を握ることを許さない。


『あなたは間違いなく私にとって一番の弟子です』


 月舟は探していた。

 一生かかっても出会えなかったかもしれない、己の剣を受け継ぐべき人間。

 全てをぶつけてもなお、己を越えて行く存在。


「俺に背負えと言うのか」

 万兵衛は言い、さらに強く刀を握りしめた。

 迷いはない。

 月舟は何も言わず目を閉じ、そして深く息をすると同時に再び万兵衛を見た。

 もはや言葉を必要とせず、師弟は通じ合っていた。

「ならばぶつけるがいい、俺はあんたを越えて行くぞ…!」


 万兵衛は一直線に駆けた。

 孤高に立つ最強の武、剣の真髄へ。


「月舟!」

 二つの刃はぶつかり、火花を散らして擦れ違う。

 両者同時に振り返り、その構えもまた同じ。

 深く身を屈め、抑え込めるように引かれた刀は隠すように背に回されている。


 邂逅。

 師へ捧ぐ神速の刃、それを迎える至極の神速。

 不可視の一撃はついに対峙する。

 最後に立つは一つのみ。


 終末の刃が今、放たれた。


読んでいただきありがとうございます。

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