復讐の起
「ここよ」
廊下に続く扉の一つ、その前で天堂は立ち止まり言った。
もはや万兵衛に対し、止めることもしなければ、彼の心中を察して慰めるようなこともしない。
ただこれから起きる出来事を見届けるのみであった。
「どきな」
今にも破裂しそうな感情を抑え、万兵衛はその扉に手を掛けた。
そして不気味なほどゆっくりと、静かに開く。
天堂の鼓動が高鳴ったのは、恐怖などという単純な感情からではない。
常人には到底理解できないほどの怒りの念が、これより起爆し一人の人間に向けられようとしている。
そこでは恐らく、目を背けたくなるような未知の惨状が待ち受けていることだろう。
天堂は自身に渦巻く歪んだ好奇心を感じずには居られなかった。
「ひっ」
扉を開けた先に待っていた人物は畏怖を目いっぱい込めた声で鳴いた。
それは白髪頭の、立派な口ひげを蓄えた白衣姿の老人であった。
侵入者の知らせを聞いてなお逃亡という手段を取らなかったのは、かつてここまでの侵入を許したことがないという慢心があったからに違いない。
しかしそれも今夜あっけなく覆され、そして語り継がれることなく駆逐されるだろう。
天堂は迫り来る終わりの予感に、目の前に立つ万兵衛の背中を見た。
だが、その背中から若干の違和感を受け取り、彼女は表情を曇らせる。
先ほどまで抑え込まれていた、さりとてはっきりと存在していた筈の、熱く滾る負の感情がしぼむように薄らいでいくのだ。
それを言葉に表すように、万兵衛は動揺した様子で口を開く。
「…誰だ、てめぇは」
疑問を投げかける万兵衛に、相手も同様に訳も分からない様子で答える。
「き、貴様は私の命を奪いに来たのではないのか。それにそこの女、お前は確か、警備隊の隊長ではないか。なにを突っ立っている。早くそいつを斬るなりせんか」
「…」
「こいつはもう警備隊なんかじゃねぇ。それより、今は俺が聞いてんだぜ。俺はてめぇなんぞ知らねぇ。ここの所長はどこだ。榊の野郎はどこだ。妹の命を奪い、俺の右腕を奪ったあの男は」
「さ、榊…?」
老人は一瞬考え、そしてすべてを理解したように口元を微かに歪ませた。
万兵衛はそれを訝し気に見つめていた。
天堂は。
彼女はこの状況を予想していた。
万兵衛が時折口にする榊という男。彼の人生に立ちふさがる最大の障害。
研究所に向かう道で、彼は所長である榊を斬ることで復讐は果たされると言った。
しかし、天堂はそんな人物は知らなかった。
彼女が警備隊に入隊した当時から、すでに研究所の長は目の前の老人であったからだ。
それをあえて伝えなかったのは、熱を上げていく万兵衛の復讐の炎を燻らせたくなかったためであり、また、自身との決闘の約束をふいにされることを恐れたためでもあった。
天堂へ突如襲った不安感を増長させるように、所長である男は嘲笑った。
「ふ、ふふ。そうか貴様、あの方に会いに、わざわざここまで来たのか。ふふ、ふふふ、とんだ間抜けだ、貴様は。本当に愚かな奴だ」
「なんだと」
「榊と言ったな。かつてあの方は確かにこの研究所に居た。この研究所で、初の人体の機械化に成功された。とんでもない頭脳、そして技術だ。そのような人間がいつまでもこんな田舎の小さな研究所にとどまっているとでも思ったのか」
「…」
「何年前の話をしている。貴様は、あの方が何年もこの場所で貴様のような人間が復讐しに来るのを待っているとでも思っていたのか。可笑し過ぎる。頭をこじ開けてどんな脳をしているのか覗きたいぐらいだ。もしかして空っぽなのかもしれんな」
所長は高らかに笑った。
榊という男はここにはいない。
今夜、万兵衛の復讐は果たされることはない。
それは揺るがぬ現実として突きつけられた。
しかし、それと所長が生きてここから出られるかということは全く別の話である。
全ての決定権は、この場で最も強力な暴力を持つ者にある。
「そうか、それならしょうがねぇ。この世のどこかに奴はいるんだな。だったら、せめててめぇを斬り、香織、そして茜の鎮魂の礎としてくれる」
万兵衛はそう言うと静かに刀を抜いた。
まるで気が乗らないように、作業的とでもいうような様子で淡々と所長に向かっていく。
「その前に教えて貰おうか。榊の野郎は今どこにいる」
「へ、へへ、それを私が言うとでも?」
「言ってもらうぜ、何をしてもな」
万兵衛は所長を楽に殺す気などない。
それは天堂にも、そして所長本人にもはっきりと分かっていた。
しかしながら、所長から感じる妙な余裕はなんであろうか。
彼にはこの場を切り抜ける決定的な策があるというのか。
絶望的なほどに強大な復讐の鬼を目の前に、武器も持たない一人の老人が生き延びる術があるというのか。
その時、部屋の入り口から人の気配がし、万兵衛と天堂は咄嗟に振り返った。
二人がそこまで過敏に反応したのは、それが並の人間が発する気配ではなかったからだ。
洗練された、まるで一振りの刀のように研ぎ澄まされた闘気を纏う気配に、思わず身構えずにはいられなかった。
「おぉ…! やっと来たか…!」
所長は溢れんばかりの歓喜を表情に表し、その人物を迎えた。
万兵衛は、うまく言葉を出すことが出来ない。
ただその人物を見つめ、額に冷たい汗を流した。
「あんたは…」
戸惑う万兵衛に、それは落ち着き払った様子でゆっくりと口を開く。
「こんばんは、万兵衛。いや、弟子よ」
いつものように柔らかな表情でその男は言った。
最強の剣士、諸岡月舟がそこにいた。
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