煉獄より
灯りに照らされた明るい廊下。
等間隔にいくつもの扉が並ぶその廊下を万兵衛は駆ける。
どの部屋も眼中にない。
今は遠くに小さく映る最奥の扉へひたすら進んでいく。
背後から聞こえていた喧噪はいつしか消え去り、万兵衛の耳には己の足音のみが聞こえていた。
研究所の中は妙に静まり返っている。
人の姿も見えない。
警備隊はほとんど外に出張っており、そして研究員たちは恐らく…。
『手術室』。
被検体を機械に作り替えるための実験室。
天堂はなぜそこへ向かうよう指示したのか。
それは彼女がそのように言うほど、時が迫っているということだ。
被検体である茜を使用した改造手術。
そこで何が行われるのかは分からない。
だが実験により、茜は人間ではない何かになってしまうことは明らかである。
光を反射するほどに磨かれた廊下が、急ぐ足を僅かに滑らせ万兵衛を苛立たせる。
「香織…」
万兵衛は亡き妹の名を呼んだ。
幼い頃、助けることが出来なかった唯一の家族。
刀も持たず、力も無かった万兵衛にはどうすることも出来なかった過去。
「…今は違う」
腰に差した刀を握りしめ、ついに扉の前に立つ。
十数年の時を経て目の前にするそれは、万兵衛の心に懐かしさなど感じさせるわけもない。
積年の恨みを晴らすように、万兵衛はその両開きの扉を思いっきり蹴り開けた。
「茜!」
狭い部屋に叫びは響き渡った。
部屋の中心にいた七人の研究員は一斉に入り口を振り向き、そして突然の侵入者にそろそろと後ずさっていく。
研究員たちが去ったその場所には、一間ほどの台が置かれていた。
その上に横たわるのは他でもない。
「茜!」
万兵衛はすぐさま茜の元へ駆け寄った。
誰もそれを止めようとはしない。
恐らく彼らにも侵入者の知らせは届いている。
下手に手を出せば命を失いかねないという緊張感から、一人としてその場を動けずにいた。
「おい茜、起きろ! こんな所さっさと出るぞ!」
万兵衛は茜に呼びかけた。
頭髪は刈られ、深緑で覆われたその少女は目を閉じたまま、呼びかけに反応を示すことはない。
「おい、いつまで寝てやがる!」
万兵衛は目を覚ます気配のない華奢な肩を揺さぶった。
しかし少女は目を覚ますどころか、声さえ届いていないかのように瞼一つ動かさない。
「……」
万兵衛は無言で少女の体を揺さぶる。
彼女を呼ぶことはない。
見えているからだ。
小さな頭に付けられた、拳一つ以上もの大きさの、真新しい傷跡。
新雪が降り積もったかのようになめらかな額のその上に、生々しく刻まれた一筋の縫合後はまるで現実感が希薄で、万兵衛はそれが何かの冗談なのではないのかとさえ考えた。
しかし、万兵衛には見えている。
河原のボロ屋から駆け、門をくぐり、警備隊の猛攻を潜り抜け、ようやく辿り着いたこの部屋に、目の前に茜がいる。
凪いだ海のように安らかな表情も、嘘のように残酷な傷跡も、すべて茜以外の何ものでもなかった。
「息をしてねぇ」
万兵衛は茜の口元に手を当て、無感情に呟いた。
改造された人間というのは呼吸を必要とするのだろうか。
そんな疑問は万兵衛の頭からすぐさま消え去った。
虚ろな、淀みだけを漉し出したかのような目で、万兵衛は正面で固まって動かない研究員を見た。
「息をしてねぇ。元に戻せ」
思わず命乞いをしたくなるような純粋な混沌に見つめられ、その研究員の男は息も絶え絶えに口を開く。
「ぁ…、い、息を、していないのは、ま、まだ麻酔がかかっているからで…」
「よせっ…」
男の言葉を横に立つもう一人の男が制した。
七人の中で最も年長であると見られるその男は、恐らくこの場の責任者であろう。
それは顔中に汗を浮かばせ、震えながらも落ち着いた様子で言葉を発する。
「下手なことを言わんほうがいい」
部下を説得し、覚悟を決めたかのような力のこもった眼差しで万兵衛を見る。
「…元に戻すことは出来ない」
「何故だ」
「無理なのだ。いかに我々が手を尽くそうとも、技術が進歩しようとも…」
男は拳を握り、浮かぶ汗を滝のように流しながら固く目を閉じた。
「……し、死者を蘇らせることなど…」
その瞬間、男の腿に刀が深々と突き刺さった。
万兵衛が刀を抜きそれを投げる動作を、その場の誰一人として目で追うことすらできなかった。
それほどまでに速く、予想だにしなかった凶行が男を襲い、遅れてやって来た意識が激痛を伝える。
「ぎゃぁぁぁ!」
叫ぶ男に万兵衛はゆらゆらと近づき、そこから刀を乱暴に引き抜いた。
「ああぁぁぁ!」
そしてしゃがみ込み、床に転がり悶える男に問いかけた。
「そうか、茜は死んじまったのか」
「し、侵入者の知らせがあってから、所長から実験の継続を指示されたのだ。それもなるべく余計な手順を省き、一刻も早く完了させるようにと。我々にとっては無理な要求だったっ…」
「茜をどうするつもりだった」
「…脳改造を施した人間でも問題なく子を成せるかというデータを取る予定だった。全ては上からの指示で、その本意は我々にも分からん…!」
「俺にもてめぇが何を言っているのかさっぱりだ」
万兵衛は立ち上がり、手術台で眠る茜を見た。
起き上がり、小さな足で床を鳴らしながら駆けて来る姿を思い浮かべる。
いつものように、先を歩く万兵衛の着物の裾を掴みながらともに歩き、河原へ帰っていく。
そして、すっかり焦がしてしまった魚について小言を言われながら固い地面で一緒に眠る。
しかし、それらは叶わぬ幻想だった。もはやこの世のどこを探しても見つからない現実なのである。
万兵衛はその幻想を心の闇に沈めた。
悲しみに暮れるなどということはしない。
ここは敵地。
悲しみは刃を鈍らせるのだ。
いつでも怒りこそが万兵衛の力となった。
茜の幻想を飲み込んだ闇はいつしか燃え盛り、煉獄の炎の如き怒りに変わっていた。
「うおぉぉぉ!」
その時、意を決した研究員の一人が手に持っていた施術用の刃物で、万兵衛の背後から切りかかった。
周囲からは万兵衛の手元が僅かに動いたかと思えた瞬間、低速の刃は腕ごと切断され、重量感のある音と共に床へ落ちた。
「ぐああぁぁぁっ!」
「うわあああ!」
腕を斬り落とされた男の悲鳴と、それを見た研究員たちの叫び声で満たされ、部屋はまさに阿鼻叫喚と化した。
否、真の地獄はここからである。
腕の一本を飲み込んだ程度では、煉獄の炎が鎮まるはずもない。
それは抗う術もないほど容赦なく、慈悲を持たない。
「茜、お前はそれでも人を憎むことをしないのか。違うよな。きっと憎い筈だ。憎くて憎くてたまらない筈だ。安心しろ、今から俺がその恨みを晴らしてやる」
「うわあぁぁぁ、ぐぁっ…」
万兵衛は一心不乱に扉へ逃げる一人を斬り伏せ、彼らの退路を塞いだ。
残った研究員たちはそれぞれ涙を浮かべながら潰れるほど壁際に寄り、震えた。
失禁している者、念仏を唱える者、目を閉じ耳を塞ぐ者。
誰もがその最後を受け入れられずにいた。
「てめぇらここから出るんじゃねぇぞ…」
万兵衛の目から熱い滴がこぼれた。
そこにどんな意味があったのかは分からない。
だが、それが流れ落ちていくたび万兵衛の心は温度を失っていき、しかしどす黒い炎はより勢いを増していくのだった。
やがて滴は枯れ、狂気に満ちた瞳は微笑んだ。
「万兵衛さん……!」
天堂は手術室の扉を開け、飛び込むように部屋へ入った。
体中に傷を負い頭から血を流す彼女は、目の前に広がる光景に絶句した。
床には血の海が広がり、人体のあらゆる部位が散乱している。
壁はまるで台風でも通ったかのように濡れていたが、それは全て血液によるものであり、元の色が分からないほどに赤く染まっていた。
沸き立つ悪臭が天堂の鼻をつき彼女の意識を引き戻した時、その目が中央の手術台を捉えた。
天堂は全てを理解する。
そして床を覆う血肉の上に立つ万兵衛を見た。
「茜ちゃんは…」
「よぉ、生きてたか。やるじゃねぇか」
妙に淡々とした口調はこの状況とまるで不釣り合いで、天堂は底知れぬ恐怖に鳥肌が立つのを感じた。
「他の連中は」
「死んだわ。でも彼らのおかげであれを破壊することが出来たの」
「…そうか」
そう言って万兵衛は天堂へ近づいた。
思わず身構える天堂に、万兵衛は僅かに鼻で笑った後、ゆっくりと口を開いた。
「なぁ、ここの所長はどこにいる。あんたなら知ってるだろ。案内してくれよ」
天堂はそのまっさらすぎるくらいに無垢な表情に息を呑む。
一人の男が一線を越え、ある領域に達した。
説明のつかない抽象的な理解が、天堂に絶対的な了承を強いた。
「…分かったわ」
二人は部屋を出た。
天堂は万兵衛に何も言うことなく廊下を歩き出す。
いや、何も言うことが出来なかったのだ。
彼からは、その内に抱えているであろう怒りや憎しみ、無念、それらの一切が感じ取れないばかりか、生気すら伝わってこない。
それがむしろ天堂を緊張させた。
すぐ後ろを歩いているはずの男から、まるで人の気配というものを感じない。
しかし確かに今、廊下には二人分の足音が響いている。
いつもよりぎこちない己の足音と、血を含んだやや粘度のある足音。
天堂の研ぎ澄まされた聴覚がその二つの足音に集中する中、彼女の耳にもう一つの音が聞こえた。
何かが軋みを上げるような。
苦し気に鳴る微音。
天堂は背後の万兵衛に目を向けた。
瞬きもせずに、視線は廊下の先に向けられている。
口は一文字に閉じられ、感情というものは全く無い。
音は彼の手元から発せられていた。
腰に差した刀。
万兵衛はそれをまるで獰猛な獣を押さえつけるが如く握りしめ、柄がもがき苦しむように軋みを上げている。
血が滲むほどに力が込められた手は細かく震えている。
それを目にした天堂は目を逸らすように前を向いた。
万兵衛は感情を失ったわけではない。
必死にこらえているのだ。
憤怒、憎悪、哀惜。
それらを一人の人間にすべてぶつけるべく、内に凝集させている。
無の奥底で、焼けるような負の感情を煮詰めているのだ。
天堂の脳裏に、手術室での惨状がよぎった。
それ以上の混沌がこの先に待っている。
強張った彼女の背中を、一筋の冷たい汗がなぞった。
読んでいただきありがとうございます。




