戦いの後
「茜は本当に優しい子だね」
大きく暖かな手が少女の小さな頭を撫でる。
その手に身を任せるように、茜は目を閉じた。
「だってお父さんの子だもん」
「ふふ」
どこまでも深い愛に満ちた父の手。
茜はその愛にいつまでも浸っていたいと思った。
しかし、それは叶わぬ願いである。
少女は知っていた。
これは己の寂寥が見せる過去の記憶であることを。
いつか覚める夢であることを。
それなら、せめて一秒でもこの幻影に囚われていたい。
茜は父の手を取り、自分の頬に当てた。
だが、柔らかな優しさをくれるはずのその手は驚くほどに冷たく、そして硬かった。
「お父さん?」
茜は恐る恐る目を開ける。
そこに居たのは、父の形をした人形だった。
虚ろな目は少女に向けられているが何も見ていない。
力なく僅かに開かれた口からは涎が溢れ、顎から滴り落ちている。
「ひっ」
茜は人形の手を投げ出すと、勢い余って尻もちをついた。
「どうしたんだい、そんな顔をシテ」
人形が父の声で茜に語り掛ける。
その顔面が小刻みに震え、首が軋みを上げている。
「ホラ、お父さンだよ」
「お父さんじゃない。あなたはお父さんじゃない」
「ヒドイことを言うンダね、茜は」
恐怖に涙を流す茜のもとへ、人形はゆらゆらと揺れながらぎこちなく歩み寄る。
そしてしゃがみ込んで少女の顔を両手でつかむと、口を拳二つ分もの大きさに開いた。
「や、やめて…」
「茜はワルイこだ!」
人形の口から唾液が飛び散り、茜の顔を濡らした。
茜は抵抗することも出来ず、唾液と己の涙に塗れたまま人形の目を見つめた。
「アカネハワルイコダ! ワ、ルイ、ガ、ガガ」
人形は狂ったように震え、その手にはさらに力が込められる。
顔が歪むほどに押しつぶされながら、茜は徐々に意識を失っていく。
悪夢の中に一人取り残されていく人形の目から一粒の涙が零れた。
目を覚ますと、目の前には万兵衛の背中があった。
今では見慣れた、とても大きな背中である。
茜はその背中を一文字に裂く傷に気付き飛び起きた。
「万兵衛!」
肩を揺さぶると、万兵衛は「うーん」とありきたりな唸り声を上げて目を覚ました。
いつものように鬱陶しそうに振り向いたその顔も傷だらけである。
「なんだ、寝小便でもしたか。っておい、まじで漏らしてるじゃねぇか。てめぇそれでも、あれ、何歳だっけ」
「そんなのはどうでも良いんだよ! どうしたの、その傷!」
茜は着物の濡れたところを押さえながら叫ぶように問いかけた。
寝起きにぶつけられる大声に、万兵衛は顔をしかめながら頭を掻いた。
「これは、そうだな…、熊だ。また熊にやられた」
「前と同じ熊?」
「…そうだ。やっぱ強えわあいつ」
万兵衛はごまかすようにへへっと笑って見せたが、茜がこのような粗末な嘘に騙されるなど、一度はあっても二度目は無かった。
「……果たし状の相手と戦って来たんでしょ? それでこんなにボロボロになって…」
「熊だって」
「私があのおじいさんを助けて欲しいって言ったから…」
茜は万兵衛の着物を掴み、涙を浮かべた。
万兵衛は一つ息をつき、その手を引きはがすと再び茜に背を向けて寝転んだ。
「寝るぜ」
「手当てしなきゃ」
「もう自分で済ませた。それに、月舟のおっさんに手当てしてもらおうにも今日は留守だしな。傷を癒すには寝るに限る」
「…ごめんね」
「何を謝ることがある。俺はただ、あのじじいそっちのけで熊狩りに出かけただけだ」
そう言った万兵衛の背中に、少女の悲痛な念がひりひりと伝わった。
こんな状況で安心して眠ることなどできようか。
万兵衛はもう一つ、深く息を吐いた。
「そうだな、飯をたらふく食えば傷の治りも早いだろうな。今日は珍しく川魚を腹いっぱい食いたい気分だ」
「外で釣ってくる!」
茜は弾かれたように駆けると、入口に立てかけられた釣り竿を手に取り外へ出た。
「おい」
それを万兵衛の一声が立ち止まらせる。
振り向いた茜は一刻も早く川へ向かいたい気持ちを抑え、横たわる万兵衛に目を向けた。
「これは俺の勘だが、あのじじいは無事だ。それとあの女、いや、果たし状の差出人も恐らくこの河原の住人に手を出したりはしないだろうぜ。そんな気がする。俺の勘はけっこう当たるから間違いない。それだけだ」
「あ…」
「はやく魚を釣ってこい。ついでに着物も乾かして来るんだな」
その言葉を最後に、万兵衛の背中は沈黙した。
茜は釣り竿を握りしめながら、その傷だらけの男を見つめた。
「ありがとう。優しいもんね、万兵衛は」
遠ざかっていく小さな足音を聞きながら、万兵衛は微かに微笑んだ。
「なんのことやら」
痛む傷がむしろ誇らしかった。
万兵衛は、今は亡き妹の笑顔をその身に背負って生きている。
しかし、ここにもう一つの守るべき笑顔があることを実感した。
それは万兵衛が生きる深淵の中に、点のように心許ない光であるが暖かな火のようであった。
長く忘れていた暖かさを胸に抱き、傷ついた刃は眠りにつく。
「おい、見ろ」
川面に糸を垂らす少女の背中を、少し離れた土手の上から眺める男がいた。
「ああ、分かってる」
男はもう一人いた。
いつもは汚れ切った白衣を着ているその男は、今は質素な若草色の着物を着て笠をかぶっている。
もう一方の男も同様の格好をしているが、汚れ白衣の男が着ているものはやたら皺が寄っており清潔感がない。
身なりに無頓着な人間というのは、何を着てもその本質が現れてしまうものだ。
「あれは、どう見ても十二には満たない子供だ」
「ああ。まさかこんな所で見つかるなんて。どうする」
「落ち着け。こんな場所で、一人で暮らしてるわけがない。しばらく観察を続け、確実に採取できる機会を窺うのだ」
「了解した。まずは、研究所へ戻って所長へ報告をしなくては」
ぼそぼそと話し合っていた二人は一つの結論に達し、そしてそろそろと河原を後にした。
無垢な少女は何も知らぬまま輝く水の流れとにらみ合っている。
穏やかな時間はまるで病のように、緩やかに脅かされていこうとしていた。
晴れ渡っていた空には、気づけば薄い雲が覆っていた。
研究所。
天堂は自身の部屋を出ると長く続く廊下を歩き出した。
一歩踏み出すごとに腹部に鈍い痛みが走る。
その痛みは、彼女が何よりも望んだ敗北の証であった。
しかし彼女は何も変わらず警備隊隊長としてここに居る。
人々を守る役割という忌々しい立場から解放することなく、ただ屈辱だけを残していったあの男。
天堂は万兵衛の顔を思い浮かべ歯噛みした。
「絶対に許さないわ…」
眉間に皺を寄せたその表情は憎悪で満たされている。
天堂は壁伝いに、しかし力強い足取りで廊下の角を曲がった。
「おや、天堂さん。こんにちは」
その先に居た人物は天堂を見ると、優しく落ち着きのある声で言った。
天堂は咄嗟に怒りの念を押し隠し、いつもの彫刻のような無表情を作った。
「こんにちは、月舟先生」
微かに微笑みを浮かべ挨拶を返す彼女へ、月舟も柔らかな笑顔で答えた。
「どうしたのですか、傷だらけではありませんか」
「これは…」
天堂は口に手を当て考え込んだ。
ここで先日の騒ぎを起こした犯人と斬り合い、負けて帰ってきたなどと言うわけにはいかない。
懸命に頭を働かせ、天堂は答える。
「熊です。研究所の外で熊に襲われました」
「熊、ですか」
「ええ、それは大きく、刃も通らぬほどに強靭な熊でした」
「それは…、大変でしたね。よく生きて帰って来たものです」
月舟は半ば信じ難いというような、良く分からない表情で言った。
天堂は巧みな嘘により上手く言いくるめることが出来たと確信し、普段の落ち着いた様子で続けた。
「でも、悔しいわ。警備隊の隊長を務める私が、まさか野生動物に不覚を取るなんて。こんな気持ちは初めてです」
「我々も普段は熊との戦闘を想定してはいませんからね。しかし天堂さん、悔しいという割には、なんだかいつもより生き生きとした様子ですが」
「え?」
「よほど良い勝負をされたのですね、その『熊』と」
「…ええ、それはもう。稽古ではあり得ない、互いに命を差し出した状態での勝負でしたから」
月舟は相変わらず穏やかに天堂を見つめていたが、その視線は全てを見透かしているように不気味に見えた。
天堂は早まる鼓動を隠すように口を開いた。
「なんとか退けることは出来たのですが、腹に重い一撃を貰ってしまいまして。申し訳ないのですが、今日の稽古には出られそうにありません」
「無理をなさらずに。今日だけと言わず、怪我が治るまではしばらくゆっくりお休みなさい。皆さんには私から伝えておきますから」
「ありがとうございます」
「それでは。すでに皆さん稽古場に集まっている頃でしょうから、私はもう行きます」
「はい、それでは、また」
月舟は微笑みながら小さく会釈をすると、廊下を曲がって行った。
天堂は足音が十分に遠ざかるのを確認してから、再び歩き出す。
「喰えない男。何を考えているのかさっぱり分からないわ。まるで機械ね」
悪態をつきながら進んだ先で、前方から一人の男が歩いて来るのが見えた。
皺だらけの着物を着たそれは、万兵衛の情報を天堂へ提供した汚れ白衣の男だった。
汚れは天堂の姿に気が付くと、顔に喜色を浮かべ足早に近寄る。
「奇遇ですね、こんなところで会うなんて。おや、怪我をされてますね」
天堂は、目の前の男に馴れ馴れしく話しかけられたことに対し鳥肌が立つのを抑えながら、表情を変えずに応じる。
「大したことないわ。それより、良いところに来てくれたわね」
「え、俺のことを探していたんですか? 嬉しいなぁ。それで、どんな用事があって?」
「……先日、私の使っている槍が壊されてしまったの。あなたから技術部に頼んで特別製の物を作ってもらえないかしら」
「え、俺からですか? そんなことしなくても、隊長が頼めば快く作ってくれるでしょうに」
「あまり人には事情を話せないの。だから、あなたが上手いことやってくれないかしら」
「そう言われても俺、あそこには知り合い少ないからな…」
「一週間待ってあげる。頼んだわよ。とても頑丈で、それなりに軽いやつを作ってちょうだい」
そう言い残し、天堂は早々にその場を立ち去ろうと歩き出した。
「あ、ちょっと待って下さい」
「何」
天堂は汚れの言葉に立ち止まり、もはや不快感も隠さずに答える。
それさえも喜びに変換し、汚れは駆け寄る。
「聞いて下さいよ。俺、実験に必要な材料として十二歳未満の女子を探してたんですけど、これがなかなか見つからなくてですね。ほら、下に住んでる人間なんてほとんどジジババばっかでしょ?」
「……」
「それが、ついさっき見つかってですね。いやー、これでようやく実験が進みますよ」
「…どこで見つけたの」
「河原に浮浪者の集落がありますよね。そこですよ。まさかあんなところに居たなんて」
「……ふぅん」
天堂は踵を返し、また歩きだした。
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