揺れる炎
「立ちなさい、万兵衛。」
月舟の言葉が遠のいていく万兵衛の意識を引き戻した。
「寝ちまうところだった。」
地に伏し、しばし沈黙していた万兵衛は言い、蜂の巣にでも突っ込んだかのように腫れ上がらせた顔を上げた。
強烈な日差しが降り注ぐ午後、この日も二人は月舟の家の裏庭で剣を交えていた。
そうは言うが、月舟が持つのは相変わらず木の棒である。万兵衛が月舟のもとへ通い始めてからもうすぐ一カ月が経とうとしており、棒は万兵衛の血で赤黒く染まっている。
「不覚を取った。だが次こそはてめぇを斬る。」
立ち上がった万兵衛はそのようなことを言うのであったが、この一カ月、未だに月舟へ一太刀浴びせるどころか刀をかすらせることすら出来ていない。
常に殺す気で斬りかかる万兵衛を、月舟は流水の如くゆるりと受け流し、次の瞬間には重たい一撃で沈める。そうして目を覚ました万兵衛は顔面に脈打つ痛みを抱え、足取りも重く河原のボロ屋へ帰って行くのだった。
万兵衛にとって歯がゆい日々が続いていた。
しかしいくらやけになろうと、鬱憤を込めた太刀は受け流され的確に自らへと返される。
常に冷静であらねばならない。容赦なく叩きのめされる毎日の中、気の短い万兵衛はようやくそれを学び取った。
「御託はいいですから、すぐにかかって来なさい。」
月舟が無感情に言い放ち、刀を身体の正面に構えた。その佇まいは、打ち込まれた杭のように揺るがぬ安定感を保っている。
「そんじゃ、お言葉に甘えて。」
気の抜けた言葉とは裏腹に、万兵衛は一歩踏むと刀をかまえたまま月舟へと一気に距離を詰める。
間合いに侵入し刀を振りかぶる万兵衛を見ても月舟はまだ動かない。
「ンッ。」
月舟の脳天へ、気合の乗った一撃が迫る。
風を切る刃は迷いなく振りぬかれた。しかし手応えは皆無。
くそ、まただ。
戦いの最中、思わずそのような言葉がよぎった万兵衛の背へ、横へ回り込んだ月舟による痛烈な一撃が叩き込まれる。
「くっ、おらぁ!」
早くも冷静さを失った万兵衛は、背に伝わる衝撃のみを頼りに相手の位置を憶測、右方向へがむしゃらな振り払いを放つ。
「稚拙が過ぎます。」
声は刀が描いた軌道の遥か下から聞こえた。
次の瞬間には、膝のバネを利用した切り上げが万兵衛の顎を打ち、開いた胸へ鐘を打つような突きが続けざまに見舞われた。
万兵衛は白目を剝き、そのまま後ろへ大の字に倒れた。
「あなたは背中を裂かれ、顎を割られ、おまけに心の臓を貫かれました。一度に三回も死ぬ人間がありますか。さぁ、早く立って打ち込んでくるのです。」
月舟は再び刀を構えるが、対する万兵衛は泡を吹いて伸びている。
「はぁ。」
落胆から洩れた溜息も万兵衛には届かず、月舟は棒を壁に立てかけ勝手口から家の中へ入って行った。
相変わらずの強烈な日差しが、残された万兵衛を容赦なく焼いていた。
万兵衛の目の前に置かれた湯呑みへ、茶が湯気を上げながら注がれた。
それをただ見つめる万兵衛の向かいの席へ月舟が腰を掛けた。
裏庭での、月舟曰く鍛錬が行われた後には、二人はこのように家の中で茶を飲み反省会じみた談話の時間を設けた。現在は茜も加えた三人による茶の時間である。
「はぁ。」
月舟は先ほどよりも深く、淀んだ溜息をつき、茶が立ち上らせる湯気を揺らした。
万兵衛は湯呑みを両手で包み込み、無言でそれに目を向けた。
「おせんべい、食べて良い?」
茜が上目遣いに月舟に問いかけた。
「いくらでも食べて下さい。お茶のお代わりもありますよ。」
「ありがとう!」
月舟は茜が皿に盛られた煎餅に手を伸ばす様を見て微笑み掛けてから、万兵衛へ厳しい表情を向けた。
「今日の敗因は?」
月舟の言葉に、万兵衛は心してかかるように茶を一口飲み、静かに口を開く。
「途中で冷静さを失ったことだ。あれはまずかった。だがそれ以前に、あんたに刀が届かねぇ。この一カ月、一度だってあんたに傷一つ付けることさえ出来てねぇ。」
言い終わると、部屋には茜が煎餅を貪る音のみが残った。
月舟と万兵衛は向き合い、ただそれを耳に入れていた。
やがて、万兵衛の口が再び開かれ不完全な静寂を破る。
「俺は、果たして成長しているのか。」
万兵衛の口から成長などという言葉が発せられたことは予想外であったが、月舟は表情を変えることなくそれに応える。
「あなたは確実に成長しています。並の相手ではあなたに敵う相手はいないでしょう。」
そこまで言って月舟は言葉を切り、若干の語気を強めて続けた。
「ですが、警備隊の連中を相手にするとなれば別です。単刀直入に言います。あなたは遅すぎる。太刀筋だけを指して言っているのではありません。むしろそれは高い位にいると言って良いでしょう。何と言いましょうか、瞬間の閃きというものがあなたには足りないのです。命のやり取りにおいて呑気ともいえる程です。」
「そんなあやふやなことを言われてもよ…。だったら次からはあんたも真剣を使ってくれよ。もしかしたら、相手が棒を使ってることで俺に慢心があるのかもしれねぇ。」
「それは…。」
万兵衛の言葉に、月舟が表情を曇らせ口ごもる。
「どんな相手であろうと、不覚を取ることのないように鍛錬しているのではありませんか。何を甘えたことを…。」
それは歯切れが悪く、部屋が煎餅の砕かれる音に満たされようとした時、月舟が慌てたように言ったのだった。
「甘えちゃいねぇよ。しかし、そろそろ真面目にやってくれてもいいんじゃねぇのか。相手が棒じゃ、どうしても気が抜ける。」
「私が刀を使えば、まともな勝負が出来ると?」
やけに低い声に威圧感を感じ、万兵衛は気圧されたように唾を飲み込んだ。
月舟の鋭い視線が万兵衛を射抜く。
「今はあくまで、あなたの実力不足を指摘しているのです。まさか、そこまで自惚れていたとは。」
「いや、俺はそこまで…。」
「分かりました。」
万兵衛の言葉を制し、月舟は湯呑みを力強く卓へ叩きつけた。
「研究所へ行きなさい。そこで警備隊の一人と斬り合うのです。もしかしたら相手に一太刀浴びせることが出来るかもしれませんし、敗れて命を落とすかもしれない。どちらにしても、あなたは己の実力を実感できるでしょう。」
それにはしばらく呆気に取られていた万兵衛であったが、やがてその表情は歪んだ攻撃的な笑みを浮かべた。
「分かったぜ。いや、その言葉を待っていた。あんたは俺が無残にやられる様を想像しているのかもしれねえが、きっちり警備隊の人間を斬って帰ってきてやるよ。」
月舟は万兵衛が放つ獣臭い闘気を感じたが、それに対して眉ひとつ動かさずに己に向けられる熱い視線を受け入れた。
「やる気があるのは結構です。ですが、くれぐれも頭は冷静に。今日はゆっくり休み、万全の状態で臨むことです。」
「今から行っても負ける気はしねぇが、良いだろう。楽しみで今夜は眠れるか心配だぜ。おい茜、帰るぞ。」
万兵衛はそう言って席を立ち、五枚目の煎餅に手を伸ばす茜の首根っこを掴んだ。
「あ、もう一枚…。」
「持ち帰って食べなさい。」
月舟が言うと、茜は万兵衛の手を振りほどき卓上の煎餅を鷲掴み、腕に抱えた。
「へへ。」
茜が向けた眩しい笑顔に万兵衛は答えず、黙って玄関へ向かう。
「待ちなさい、万兵衛。」
それを月舟が呼び止め、茜は全ての煎餅を取ったのはまずかったかと顔をひきつらせたが、万兵衛は無表情で振り向いた。
「なんだ。」
「これを。」
月舟が万兵衛に歩み寄り手渡したのは、一本の刀であった。鞘だけを見ても明らかに使い古された、傷だらけの得物である。
「明日はこれを使いなさい。見た目は古いが、あなたの使っている物よりは扱いやすい筈です。手入れもしっかりしてありますから、なんの心配も要りません。」
「ふぅん。」
万兵衛は受け取り、刃を鞘から引き抜こうと柄に手を掛けた。
それをすかさず月舟の手が制す。
「今は抜く必要はありません。明日、研究所へ行き相手と向き合う時までは納めておきなさい。初めて振るう刀にその場で順応するのです。」
「……。」
万兵衛は無言で、月舟の妙な重圧感のある瞳を見据えた。そして刀を腰に差してからまた入り口に向き直った。
「…分かったよ。ありがたく使わせて貰うぜ。じゃあな。」
そう言って万兵衛は戸を乱暴に開け、家を出て行った。
「おせんべい、ありがとう。」
その後を茜がそそくさと付いて行き静かに戸を閉めると、部屋はたちまちしんと静まり返った。
しばらくその場に立っていた月舟であったが、部屋を振り返り椅子に腰を掛けた。
そして肘をつき、組まれた両手で額を支えながら目を閉じる。
「これで良かったのでしょうか。」
懺悔をするように呟かれた言葉は、誰の答えも返ってくることなく静寂に染み込んだ。
「真剣同士の命の奪い合い…。その土壇場で、彼は化けることが出来るでしょうか。」
月舟が抱えるのは、師が弟子を想うがゆえの厳しさであるのか、はたまた万兵衛の成長を急いだが故の半ば自暴自棄な決断であるか。
もしくは全く別の…。
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