序章
明野陽平は終始嘘だと思った。放課後の旧校舎裏で異形の返り血が、彼の制服と顔面の右半分を赤々と犯す。常識を逸脱したものが、大きな金槌で裁かれている。押しつぶすような鈍器の音とともに、鉄塊が異形の血肉と骨を叩き割っているのだ。その音は、硬い肉を下品に咀嚼したものに似ていた。恐怖の極まった人間は叫ぶことすらできない。彼はもう、この場に自分が立っていることさえ理解していないだろう。そんな絶望的な表情だった。
この場所で、身の丈をはるかに超えた大金槌を振りまわすのは、彼のクラスメイトの香津美スミスだった。普段と違い黒の修道服に身を纏い、首からは金でできた太めのロープチェーンと十字架をつけていた。か細いそのシルエットからは、大槌を持て余すことはあっても無双の如く振りまわすことなどできそうにない。もはや原形を失った異形に、無表情の彼女は容赦なく鉄塊を叩きつける。息がまだある証拠に、異形は脊髄反射を繰り返し、大きく肉を揺らす。
陽平は嘔吐を催して、一度地面にぶちまける。最後に彼女は、一際高く金槌を振り上げ、渾身の一撃を異形だった肉に振りおろす。食いちぎるような音の後、肉は動かなくなった。
返り血まみれの美少女は、流した視線を一度、彼に向けてほほ笑んだ。この場所を支配する異常な空気にあてられ、頬笑みに対して引き攣った笑顔を返す。もはや見違えた彼女の見た目は、唯一の目撃者である彼ですら、異形よりも彼女こそが悪魔なのではと錯角するほどであった。
死んだ異形こそが悪魔だと陽平は理解している。彼は始終を見たのだ。だからと言って彼女が正義である保証はない。相手が悪魔と言うだけで、情もなければ慈悲もないこの少女が、正義なわけがないと彼は思うのだった。
「土は土に」
その言葉とともに、両手で持った金槌は砂のように溶け、手からすり抜けた。ポケットから小瓶を取り出すと、破裂して砕けた肉に向かい瓶の口を開く。
「灰は灰に、塵は塵に」
中の水を一滴ほど人差し指に垂らすと、肉めがけて弾いて見せる。陽平はどういう原理か知らない。だが、目の前で炎が上がる。その冷徹で青い炎が、異形には無慈悲だと次の瞬間に無情な口から彼女は告げた。
「落ちるところへ落ちなさい」
肉塊は悲惨にもどこからが土で、とこからが異形かさえわからないほど原形がない。しかし焼かれることにより、灰となり塵のように二人の前から、一片も残さず消え失せるのだった。こんなことは誰も信じない。とっさに陽平はそう思った。なぜなら自分も信じれないのだから……。
彼がここに至るまでには段階があったのだ。同じクラスの女子、名前は四条桐子。地味で目立つタイプの女の子ではなかったが、陽平とは長い付き合いだった。つまりは幼馴染だ。
腐れ縁だが、いつからか男女の枠を越えた仲になりつつあった。男女の違いはあれど、二人は常に同じだったのだ。そうなるとむしろ男女だからこそ、それは自然なことだと言える。幼稚園から中学校、現在の高校に至るまで同じだったのだ。
そんな普通の女の子、陽平にとっては特別な女の子が、親しくもないただのクラスメイトに葬られたのだ。それも悪魔としてたった今、目の前で地獄に落とされてしまった。喪失感と恐怖が同時に彼を襲ってしまうのも無理はないことである。この先、香津美を一生涯恨み辛むのも当然と言えるだろう。
「こんなの理不尽だ!! 異常だ!! 正気じゃない!!」
怯えて震えあがった声で彼は、腰を地面に落しながら喚いた。確かにそうであると言える。しかし彼女の答えは違っていた。鼻で笑ってから間近まで迫ると、彼を軽々と持ち上げて、首を片手で締めあげながら呟いた。
「理不尽?」
喉仏を砕いてしまいそうな力で締めあげらた彼は、息もできずにもがいている。狂気なのか正気なのかは、言わなくともわかるであろう彼女の目つきは、変わることなく呟きは続く。
「あんなのが、のうのうと生きてる方がずっと理不尽。ずっと異常。それを排除して哀れむ方が正気じゃない」
淡々と語る言葉、彼女の手と眉間のしわ、その全ての震えは何を表しているのだろう。怒りや恐怖、或いはどちらでもない別のもの、そう言った何かが彼女を突き動かしている。その正体がわかるなら、人がすれ違うことは無いのかもしれない。
陽平が動かなくなり始めると、香津美は手を離す。彼は喉を押さえながら、何度か噎せた後で視線を彼女に向けた。彼女はその視界に立ちふさがって言葉の追い打ちをかける。
「世界は理不尽ででいてるの。神がいると思うなら、呪うか祈れば良い。状況は何一つ変わらないから」
踵を返して去りゆく彼女の背中を見ながら彼は誓う。とことん呪ってやる。安らかに死ねないように祈ってやる。人の心が壊れるのは、とても簡単だ。必ず同じ目に合わせてやる。いつか死ぬ日に地獄へ落ちろ。その時の顔はまぎれもない鬼畜生の者だった。