17.
執務室の壁に開いた穴に右の拳を突っ込み、俯いたままのルーカスの肩が僅かに震えていた。
「……殿下、今日はもう夜も更けました。この先は、明日にいたしましょう」
ヴィンセントがルーカスの手を壁の穴から引き抜き、ぽつぽつと突き刺さった木片を、一つ一つ丁寧に抜いていく。
借りてきた猫のように大人しく鳴りを潜めているルーカスに、スティアートとウォーレンは、暫くその様子を呆然と眺めていたが、どちらからともなく動いて手当に必要な包帯や湯などを持ち寄った。
「あぁ、すまない。アート、レン。ここは、もういい。明日に備えて休んでくれ」
その心遣いにヴィンセントが礼を言うと、二人は了承の会釈をし、執務室を後にした。
「……ヴィンス」
きれいな布を湯に沈め、細かな傷口を拭っていたヴィンセントに、ルーカスは声をかけた。
「どうされました? 殿下」
「……お前、どうしてそんなに冷静でいられるんだ?」
「なんの事でしょう?」
「しらばっくれるな! あれが“魔女”だと、つっ!」
手当を受けている右手が、強い力に締め付けられ、あまりの強さに顔を歪める。
「……あれ、ではありません。ユウ、ですよ? ルー」
ヴィンセントはいつもと変わらぬ表情で、しかし、手当には少し強すぎる力で包帯を巻いていく。
「ヴィンス、わかった、すまん。少し緩めてくれないか?」
「わかれば結構。……で、ユウの事ですね?」
ヴィンセントはふっと笑って、ルーカスの右手を引き締めていた包帯を適度に緩め、始末した。
締め付けから解放された右手に、ほぅ、と一つ息を吐く。
「ユウは、本当にあの“魔女”なんだろうか? だとしたら、戦争なんかが始まれば……」
「落ち着いてください。まだ、そうと決まったわけではありません。いずれにしろ、今夜はもう休まなくては。明日に響きます」
「……わかった。今日は、ここまで、だ」
ヴィンセントに遮られ、ルーカスはすくと立ち上がると、扉へ進み、ノブに手をかけた。
「……悪かった、な」
「いえ、殿下。良い夢を」
そして、扉が静かに閉められた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
いつも通りに、いつもと変わらぬ朝がやってきた。
ベッドから起きだし、カーテンを開け、窓を解放し、夜の空気と朝の空気を入れ替える。
一つ大きな伸びをして、鏡に映る自身の姿に、暗示をかけるように呟く。
「……エヴァ=メル・ウォードン……」
ドクン、という空間が歪むような衝撃とともに、ユウは取り囲む空気が一変するのを感じた。
再び鏡に目を落とすと、見ず知らずの女が映り込んでいた。
取り立てて目立ちそうにないその容姿は、ごく普通の街娘の様でもあった。
しかし、明らかに街娘ではない証。
この大陸に住まう人間には、見られない色彩。
濡羽色の艶やかな長い髪。 漆黒の闇夜を思い起こさせる瞳。
鏡に映る女は、昨日の絵本に書かれていた“偉大なる魔女” の特徴を全て持ち併せていた。
「あなた、は……」
ユウが口を開いた直後、扉をたたき割りそうな勢いでノックされた。
「ユウ! ユウっ! 無事か? 無事なら、返事してくれ!」
「は、はいっ! ただいまっ!」
その勢いに、自分がどんな格好かも忘れ扉を開けると、蒼白の顔のヴィンセントが立っていた。
「良かった、無事で……」
そのまま、グイと引き寄せられ、ユウはヴィンセントの腕の中に囲われる。
「ヴィン……」
抗議しようと顔を上げたところで、ヴィンセントの唇で自身の唇を塞がれる。
突然の出来事に、ユウは、抵抗することを忘れてしまった。
うぅ~ん、思うように前に進まない。
いろいろと、ゴメンナサイ……。