塵の嵐の中
糞王山を降りた青年は黄色い雲の下でざわめきを聞いた。砂粒が群れをなして霧のように立ち込めていた。その不確かな霧の奥からは独特な熱と臭いと、そして音が聞こえた。青年はニヒルに笑って、その貧相な体を何かで隠すこともなく、その霧へ突入した。霧を形成する砂の一粒一粒が熱さを抱えており、青年は無数の砂に常時傷つけられる。火の傷は青年の背中を赤く焦がした。それでも青年は笑うことをやめない。霧中を進むにつれ、あの臭いと音は段々と強くなってきた。
「テメェ誰だ。」
青年の背中にかけられた怒号。それからすぐに青年の肩に重い沈みが加わる。赤く龍龍とした手の甲が映る。青年は振り返って応えた。
「語り部だ。」
目と鼻の先に正対していたのは大鬼であった。真っ赤に全身が充血し、血管が浮き出た鬼の口が今もう一度開かれた。
「どこの奴だと、聞いておる。ここは我らの縄張り。誰が勝手に入って良いと言った。ああ?」
気づけば砂の霧でぼやけるものの周囲一帯、何頭もの鬼の瞳がぎらりと輝いているのを感じた。青年はそれら周りの全ての大鬼どもに再度答えるかのように高らかに声を上げた。
「墳王山の頂から降りてきた、ここはあまり馴染み深いものでなくてな。一つ、ご教授願いたい。」
すると大鬼どもはゲラゲラと手を広げて笑いだした。青年はその様子を眉を顰めて見る。大鬼どもは一通り笑い終えた後、滲む涙を拭きながら言った。
「墳王山だと、テメェがか?新参もいい加減にしな。あそこは神山だ。死神が統治するこの国で最も恐ろしい境界だ。まあまあ、歓迎してやるから我らと宴を共にしようではないか。」
青年は音もなく静かに頷くと大鬼はまた笑い出した。それを半ば無視するかの如く、騒ぎ声の聞こゆる方へ青年は独り歩き出した。大鬼どもは青年の後をゆっくりと大きな股で進む。じきに大きな鉄の鍋釜と、メラメラと火花を弾けて燃ゆる焚き火が見えてきた。青年はその近くに座り、大鬼どもは円を作るようにあぐらを描いて座った。
初めから座っていた一人の大鬼は金の盃を、今訪れた大鬼どもと青年には樫の木の盃が配られた。青年は木の盃を見て眉をしかめた。何も入っていない空の盃。辺りを見渡してもどの盃にも酒も食物も何も入っていない、皆が空であった。
金の盃を持つとりわけ大きな大鬼が天に盃を掲げた。それから一同、皆それぞれの盃を掲げ煽り出した。青年はテンポ遅れながらもそれを真似て、最後には空の盃に口をつけた。喉の渇きは潤わない。もちろん空腹も変わらない。青年は盃の意味に疑問を感じた。宴といえども鬼が集まっている他、なんらないのだった。そこにはご馳走も女も、そして何より酒すらもなかった。鬼が口を開いた。
「私は酒呑童子と過去に呼ばれし鬼の類。汝は塵の子とお見受けする。ここは砂の子しか存在を許されぬ黄泉の国。汝いかにして、またどのような理由でここにおられる。」
金の盃の鬼はそう言って盃を煽った。眼光はどの刃の切先よりも鋭く、厚い布の下の肉体はどんな神々よりも隆々として、そして何より毛むくじゃらの黒髪から突き出た二本の角はどの奇獣よりも獣らしい様子であった。青年は深く頭を下げて応える。
「私は墳王山より来たりもの。モノによって甦りし語り部の末裔なり。私は生前のことも、そしてこの国のことも何も知らぬ。ここにいる理由も、そして存在する理由すらも私にはわからぬ。あなたはここの頭領のようだ、酒呑童子様。あなたには私の意味が分かるだろうか。」
周りの大鬼どもは皆、口を固く閉じて砂の子の童子と、塵の子の青年の行く末を見守っていた。砂の霧もいつしか晴れて、出づる太陽光線が地を襲う。酒呑童子と呼ばれるその大鬼は青年を諭すような声色で返答した。
「モノとはなんと所以ありしか。モノより生まれし塵の子は皆、災いを運ぶ。故にモノより出づる汝もまた災いを運ぶ存在であろう。」
酒呑童子が言い終えた後、大鬼どもは青年をその鋭い眼光で押さえつけるように睨みつけた。青年は地の砂を捉えたまま顔を動かさない。じりりと暑い太陽光線が青年の頬に汗を垂らす。大鬼どもは青年から目を離さない。金の盃が地に置かれた音と共に童子が再び声を上げるまでは。
「災いとはすなわち嵐なり。嵐は常々、人も鬼も他の妖怪百鬼の街と世と個人にさえ打撃を与えるものなり。しかし豊富な雨水に喉の渇きが潤うことも、また嵐は季節の変化を教える存在であることも真実なり。汝もまた嵐ならば、この国に善きことも促すだろう。」
青年は顔を上げて童子を見た。何よりも鋭かった彼の眼光は今や知性の宿った大らかな瞳をしていた。唇は緩み、微笑みかけるように青年を見返していた。他の大鬼どももそれに釣られ、青年から目を離してそれぞれ盃を煽り出した。青年は一つ、うなずいてからまた口を開いた。
「なるほど。乾き切ったこの国に嵐という名の災いを運ぶことが私の存在意味なのですね。しかと承知いたしました。しかし、私は身寄りなき者に変わりない。できればここに今晩泊めてくださらぬか。」
青年の問いかけに酒呑童子は深く頷いてみせた。酷かった太陽光線も次第に落ち着いていた。墳王山の山陰に陽は落ち始めていたのだ。モノのいない墳王山は今や誰のものであろう。酒呑童子は青年の胃の中を透視して考える。モノに監視されていた我らは今、いかに動くべきであろうか。この青年をいかにすればよいだろう。そして、あの屈辱をも今ならば晴らせるかもしれない、と。
墳王山から離れた地、この国の大鬼が集う鬼神会。かつて天下随一の百鬼集団の長であった酒呑童子には未来の事象も見えていたのであった。青年はまだ知らない。鬼酒の深みを。




