塵の子
深々と礼をする少年がそこにはいた。端末から聞こえる男の叱責は止まることを知らない。大海の飛沫のように何度でも、そう何度でも。携帯電話の電源がついに切られた頃には太陽はとっくに落ち、夏の星座が川面にぼんやりと映っているばかりであった。
少年は歩き出した。土手に停めていた二輪車に跨って夜の冷たい風を切った。車が少年を次々と抜かしていった。街灯の灯りは道を照らしても少年の顔は照らさなかった。失意に堕ちた少年の額に光は宿らないのだ。三途川に架かった天明橋を超えるとすぐに住宅街に入った。物音一つしない家々を少年は編み物をするかのように、するすると通り抜けた。真夜中の都会で一人。
突然、少年の前に大型の自動者が見えた。自動車の前方に取り付けられたヘッドライトが少年を照射した。少年の瞳孔は人の瞬きのように収縮し、それからバランスを崩した。少年は顔をひきつらせて必死に立ち直そうとした。大型自動車は加速させた両輪で、明らかに失速した少年とその自転車を抜き去った。両者に巻き起こる風は凄まじいものだった。たちまち少年は自転車を下敷きに、硬い大地の上に体を押し付けられた。すれ違ったあの自動車はバックライトを輝かせて遠ざかっていく。蛍の尻の光の玉ほどに弱まっていたバックライトは、暫してから完全に消失した。
少年は動かず、ひんやりと冷たい路上に倒れたままであった。懐に自転車のハンドルが深く刺さっていたのだ。急所を勢いよく錫杖で突かれた虚無僧のように、少年は顔を必死に滲ませるのがやっとであった。秒針が軽く一周した後のことであった。
路上に放りだされたまま、今や眠りに落ち掛けつつあったその少年に近づく足音があった。アスファルトの路上を闊歩する長靴の音は重く、大地を通じてその振動が少年の耳に届いていた。ぼんやりと消えかけた意識が足音と共に立ち昇ってくる。灯りの届かない路上の隅で少年は出会った。その足音の主に。
手を差し伸べられた。骨が浮き上がっている青紫色の手だった。少年は暫くそれを死んだように見つめ、それから手の主へと視線を動かした。死神だ、そう少年は言った。肉が剃られた皮のような頬に黒い血が通っていた。純黒の瞳の奥には何も宿っていなかった。線のように薄い髪の毛が数本、長く長く腰先まで垂れていた。そのモノの足先は見えなかった。
少年は死神だと言ったまま動けずにいた。息が荒くなるわけでもなく、叫ぶような事もなかった。ただそのモノを死神だと呼んだだけであった。少年は妙に落ち着いていた。その死神と呼ばれたモノは口を開いた。同時に魚臭い臭いが少年の鼻腔を責め立てる。そのモノは言う。
「モノは砂の子供だ。モノは汝に目をつけた。汝はあの語り部の末裔。モノは汝を誘いに来た。」
細かく言葉を区切りながらそのモノは最後に、
「黄泉の国に。」
と言った。それからすぐに少年は体を震わせ始めた。顔は真っ青に染まり、瞳の色は『虚』を示すように空っぽになる。少年の髪は束となって抜けていき、しまいに皮膚が溶けていく。肉が溶けた液が少年を包んでいく。少年のシルエットが人を示さなくなってから夜の街を突風が吹き抜けた。秒針がぴったり一周するまでそれは吹き止まなかった。天神川からやってきた湿気を乗せた夜の風は少年の残った残滓まで刈り取った。翌朝その路上には、籠が凹んだ自転車と、線のように細くて長い黒髪が数本落ちていただけであった。
夏休みが始まる前夜のこと。一人の高校生の失踪は始業式まで、かれこれ1ヶ月誰にも悟られなかった。
これが人の時代というのなら神の時代から何がどう変わったのであろう。妖怪百鬼が蔓延る夜の街をどうして人の世と言えよう。数千年に数百年が過ぎても砂時計の砂が何一つ変わらぬように、砂の子は劣りも盛りもしない。ただ塵の子達の循環が目につくだけである。次は黄泉に行った少年の、その後の死後を振り返ろう。現世に人の時代がまだ訪れぬというのなら、常世ならば見れるかもしれぬのであろうから。




