砂の子供
生命が生まれ落ちた日から砂時計の砂はいくつこぼれ落ちたのだろう。ひっくり返すたびに動き出す砂はいくつがまた生きているだろう。生きた砂はいつか神と呼ばれるようになり、崇められ祭られ、そしてついには忘れ去られる。これは砂が生きていた頃の話。つまり昔話。連綿と語り継がれてきたこの談話に誰が耳を傾け、いつの月夜に語られたものであろうか。今から話すのはただのお話だ。
お話はお話でしかなくて、現実にあった出来事なのかも空想上の出来事なのかも分かりえない。今となっては語り継ぐ事しかできない。まずは数万年と数千年語り継いで今なお残る、そんな談話の始まりの一節を語ろう。
少年がいたのだ。いつの時代も真っ青に広がる空の下に生まれ、数々の嵐を耐え凌ぎ、そして多くの動物を殺めて生きる、そんな少年がたった一人でクスノキの枝の上に座っていた。黒い瞳は黒髪に隠されて、細身でなお落ち着きを感じさせる佇まいは森の射手の資質の証拠で、そして水牛から削いだ革の矢筒に金の矢を入れて、夏の暖かな風を感じていた。その少年は眼下に広がる下草を注意深く見定め、頃合の獲物を見つける。クスノキの枝に引っ掛けた大弓を引っ張り出して矢筒から金の矢を取り出して弓に掛ける。獲物はまだタンポポを齧ってもぐもぐと胃の中に葉を落とし込んでいる最中だ。夏の空を甲高い音で鳴り響く金の矢。丸く太った大ウサギは野に伏して赤く綺麗な血を流す。瞳孔はしだいに落ち着いて出血もしだいに収まる。クスノキから大地に降りた少年はウサギを担いで村へ帰る。
大昔、砂時計の砂が百回も回っていない神代の時代の人々は日々を生きる事で満足をしていた。村では貝を集める者や神の教えを説く老婆。他の村から一族を守らんと汗を流す若大将に、猪に罠をかける小さな子供。そのどれもが血を流して病に侵され、そして田畑の実りに感謝をし、火を焚いて神に祈りを伝え、そして朽ちて土葬された。
人々の肉体は大地に循環される。そしてまた新たな生命が芽生える。けれども砂時計の砂が最初から最後まで増えも減りもしないのと同じように、魂としての思念は消えも増えもしなかった。この後、この村には別の神がやって来た。鉄製の武具を授かった東洋の強者どもに侵略され、村は呆気なく消え失せた。龍が青い空を駆け巡り、しばらく経たずに黒雲が立ち込めた。金の矢の射手はクスノキの幹の上で必死に抵抗した。あるものは極東へ逃げ延びた。射手も逃亡者も侵略者も、そのどれもが朽ちて死んだ。肉体の死という限界を越える事なく衰えて死んだ。
力自慢の強者もいずれは老いて背も曲がる。美しき美貌の女もいつかはシワだらけの老婆になろう。邪気なしの子供もいつかは金の亡者になり、成金は年でこの世を去る。聖人も裁かれて禁錮で死に、神もいつかは忘れ去られる。
けれども砂は消え失せない。死に行く肉体は循環する。砂時計の砂は何度でも動き出す。一度ひっくり返されれば動き出す。僕らの言葉は世界には届かない。世界の叫びは嵐となってあるいは大地震となって僕らの街を大いに砕く。僕らはいつしか大地に帰り、そして大地から新たな生命が蘇る。
全てはそれだけのこと。それだけがそれだけであるだけのこと。だから今の僕の思いも孤独も環境も過去も、ただ僕という魂が覚えている思い出に過ぎない。僕が死ねば全て無くなる。大地に帰ってしまう。
だから残したいのだろう。そう考えたのだろう。何千年も数万年も語り継いでほしい言葉は、文章は、そして伝承は。こうして生まれて来たのだろう。
だから僕も伝えたい。僕なりの世界を。そして僕という魂の思い出を。
時は現代に巻き上がる。砂時計はあの日から何万回、何億回と回転してようやく今に至る。人の時代だ。
僕は河川敷で空を見上げていた。神代の時代から青いままの大空を。そして手には携帯電話をつかんでいた。
大空を飛び交うカラスの一群が視界の右奥から左奥の彼方まで消えるのを待ってから、携帯電話は鳴き出した。




