Happy End 親愛なるあなた達へ。
海は、この夜も静かだった。
水面は鏡のように穏やかで、星が一つ一つ、そこへ落ちていくように瞬いている。
シアは入り江の岩の上に座り、胸の前で手を組んだ。潮の香りに、少しだけ不安の匂いが混じっている。
「ねぇウィン……ほんとに、来ると思う?」
「さあね。ヒトってのは、約束を守ることもあれば、波みたいに消えることもある」
「むずかしいね、ヒトって」
「まあ、君よりは単純じゃないさ」
「むーっまたイジワルいう!」
頬をふくらませて、尾鰭でぱしゃんと水をはねさせる。そのたびに泡が立ち、星の破片みたいに砕けた。
「でも……ちゃんと話したいの」
「ほんとに、正体を明かす気なんだね」
「うん。だって、嘘のまま“あい?”してるの、苦しいもん」
ウィンはため息をついた。
それでも、止めはしなかった。
「……ヒトに恋をするなんて、愚かだね」
「“愚か”って、きれいな言葉?」
「ちがうよ。“どうしようもなく愛しい”って意味さ」
「ふふ、それなら、いいや」
波がそっと岩を撫でた。
遠くの水平線に、白い帆が見える。
「――来た、のかな」
舟の影が、月明かりのなかに近づいてくる。
揺らめく灯りの中、ひとりの青年が立っていた。濃紺のローブを羽織り、海風に金色の髪を揺らして。その瞳は、あの嵐の夜の色を覚えていた。
「……あなたが、あの手紙の――」
王子の声は、まるで祈りのように柔らかかった。
「……ごめんなさい」
シアは小さく俯いた。
波が、彼女の指先を濡らす。
「わたし、修道女なんかじゃないの。
海の底の、人魚なの」
王子は、静かに瞼を伏せた。
その顔に、驚きも恐れもなかった。
「――やっぱり、そうだったんだ」
「え?」
「最初の手紙の返事を見たときから、なんとなく気づいていた。
――文の香りが、潮の匂いがしたんだ。」
シアは、呆けたように王子を見つめた。
「それでも……あなたが書いてくれた言葉は、
この世界のどんな修道女の祈りよりも、美しかった。」
「……でも、わたし、嘘をついてたの」
「嘘なんかじゃない。君の書いた手紙は、すべてほんとうの気持ちだったろう?
――インクの海をあなたが泳いでいたよ?」
シアの瞳に、涙が浮かんだ。
それは海よりも澄んで、やわらかく光っていた。
「好き……です。
たとえ、陸では息ができなくても、
あなたのそばにいたいって思いました」
王子は微笑み、海へ一歩踏み出した。
冷たい波が、彼の膝を包む。
「――なら、僕が息を止めてあげよう。」
次の瞬間、彼は彼女に口づけを1つ落とした。
シアの髪が夜空に散り、尾鰭が月をはじく。
そして王子は彼女を抱き上げる。
「わぁっ……!」
「やっぱり軽いな。海のひとだ」
「王子さま……くるしいでしょ?」
「平気だよ。君が笑ってくれるなら」
シアは胸の奥で、海が鳴る音を聞いた。
それは、彼の心臓の鼓動と重なっていた。
「ねぇウィン、聞こえる?」
(聞こえるさ。……まったく、もう知らないからね)
風がやさしく吹いた。
泡のようなキスが、二人のあいだに落ちた。
――それは、海と陸の境で結ばれた、
一通の恋文の果て。
彼の腕の中で、シアは笑った。
世界のすべてが、波の音に溶けていった。
ウィンは笑っていた。
1人深海に沈み戻りながら――
……そうしていつか王子様とシアに向けて手紙を書こうと思っていた。
「けど書き出しはどうしよう?
そうだ……そうだな、こんなのはどうだろう?書き出しは――
――“親愛なるあなた達へ。”」
もうちょっとだけ続くんじゃ。




