失われた絆
** 1944年 秋 **
ベルリンの地下室は湿気と恐怖に満ちていた。
ダヴィド・レヴィは、カール・シュミット一家にかくまわれて二年になる。上階からは、カールの妻アンナと、子どもたち──ヨハンとグレーテルの足音が聞こえてくる。
「また配給が減った」
カールが階段を降りてきて、わずかなパンをダヴィドに渡した。
「申し訳ない。君の分を頂いて...」ダヴィドは言った。
「何を言っている」カールは首を振った。「君は僕の親友だ。過去に大学で一緒に学んだ、あの日々を忘れたのか?」
二人は微笑み合った。だが、その笑顔には影があった。連合軍の爆撃は日に日に激しくなり、ソビエト軍は東から迫っていた。
「カール」ダヴィドが真剣な表情で言った。
「もし何かあったら、君たちは私を見捨てて逃げてくれ。」
「...そんな話はするな」
────
ソビエト軍がオーデル川を越えた。ベルリンはパニックに陥った。
「カール、徴兵令状が来た」アンナが泣きながら言った。
五十歳のカールにまで召集がかかったのだ。国民突撃隊、フォルクスシュトゥルム。老人と少年による最後の防衛線。
「行かなくては。」カールは静かに言った。
「カール、君が死んだら...」ダヴィドの声が震えた。
「ダヴィド」
カールは友の肩を掴んだ。
「必ず戻る。戦争が終わったら、また一緒にあのカフェでコーヒーを飲もうじゃないか。」
「約束だ」
二人は抱き合った。それが最後だった。
────
ベルリンは地獄と化していた。
カールは市街戦の最前線に立たされた。
訓練も不十分な死を待つ老人たちに、ソビエト軍の戦車を止めることなど不可能だった。
4月下旬、赤軍がベルリン中心部に迫っていた。カールの部隊はノイケルン地区近くで激しい戦闘に巻き込まれた。
カールは瓦礫の中で倒れていた。
足を撃ち抜かれ、動けなかった。
しかし、この世界は無情だ。
ソビエトの兵士が近づいてきた。
「待ってくれ。」
カールはロシア語で叫んだ。
「私は戦いたくない。友人がいる、ユダヤ人の友人を助けてきたんだ。頼む、見逃してくれ....」
だが、兵士たちは聞く耳を持たなかった。彼らの目には、憎しみと怒りがあった。彼らの故郷を焼き払ったのはドイツ軍だった。戦場では、個人の良心など関係なかった。
────銃声が響いた。
カール・シュミットは、友との約束を果たせぬまま、瓦礫の中に倒れ、その生涯を終えた。
**1945年5月**
戦争がついに終わった。
ダヴィドは地下室から出た。三年ぶりの太陽は、目を刺すほど眩しかった。
アンナと子供たちは生き延びていた。だが、カールの姿はなかった。
「カールは?」
アンナは泣き崩れた。
「わからないの。4月から消息不明で...」
ダヴィドは走り出した。病院、避難所、捕虜収容所。あらゆる場所を探し回った。
「カール・シュミットを知りませんか?」
何度も何度も尋ねた。
─────
二週間後、ダヴィドは臨時の遺体安置所に辿り着いた。
そこには、名前も分からぬ死者たちが並べられていた。市街戦の混乱で、身元確認すらできない遺体が山積みだった。
係員が記録を調べた。「シュミット...ノイケルン地区付近で発見された遺体の中に、その名の身分証を持った者がいます」
ダヴィドは震える足で、その遺体の前に立った。
カールだった。
「いや...いや、いや、いや!」
ダヴィドは友の遺体にすがりついた。三年間、命がけで守ってくれた友。自分のために家族を危険に晒してくれた友。
「カール、約束したじゃないか。一緒にコーヒーを飲むって。また議論しようって...なんで。」
だが、カールは答えなかった。
** 1945年、夏 **
ダヴィドはカールの墓の前に立っていた。
アンナとヨハン、グレーテルも一緒だった。
「パパは英雄だったんでしょう?」十二歳のヨハンが尋ねた。
「ああ」
ダヴィドは答えた。
「お父さんは、私の命を救ってくれた。そして、人間の尊厳を守るために戦った。ナチスに逆らい、友情を貫いた真の勇者だ」
「パパを殺したのは...」
「戦争だよ」
ダヴィドは少年の頭に手を置いた。
「憎しみと恐怖が生み出した戦争が、お父さんを奪ったんだ」
〜エピローグ 1946〜
ダヴィドは毎週、カールの墓を訪れた。
彼は法律家として、戦後の混乱の中で働いた。シュミット家を支え、ヨハンとグレーテルを自分の子供のように育てた。
ある日、墓前で独白した。
「カール、君が私にくれた命を、無駄にはしない。君の子供たちを守る。そして、二度とこんな悲劇が起きないよう、生きていく」
風が吹き、木の葉が舞った。
ダヴィドには、それがカールの返事のように思えた。
友情は死によっても断ち切れない。だが、彼らが再び笑い合うことは、永遠にできなかった。
戦争は、最も美しいものさえ奪っていく。
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〜記憶は生き続ける。失われた命のために。守られた命のために。〜




