母とフェンリル
机の上には書類が広がり、整然と並んだ羽ペンやインク壺がこの部屋の主の厳格さを物語っている。
わたしに視線を向けた瞬間、その鋭さがふっとやわらぎ手を止める。
父は椅子から立ち上がらずに、両腕を広げてわたしを招いた。ハロルドが背中を軽く押してくれ、わたしはおそるおそる、その広い胸に向かって歩き出した。
広げられた腕の前まで行くと、父は大きな手でそっとわたしを抱き上げ、そのまま膝の上に乗せてくれた。
ごつごつした手なのに、動きは驚くほど優しい。
「…よく来たな、ティア」
「疲れていないか?」
顔をのぞき込まれ、首を横に振ると、父は安心したように目を細めた。
「そうか。しばらく一緒に過ごそう」
「…おしごといいの?」
顔を上げて見つめると、父は一瞬だけ目を見開き、それからすぐに優しく笑った。
「気にしてくれるのか」
ごつごつした大きな手が、またそっと頭を撫でてくる。
「大丈夫だ。急ぎの案件は終わっているし、今はお前のほうが大事だ」
「…えへへ」
思わず声がもれて、にやける。
父はそんな私を見て、口元を緩めながらもう一度頭を撫でた。
そのあと、膝の上であれこれと他愛のない話をした。
父がアレクシス、兄がフレデリック、グレイフォード侯爵領を治めておりアレクシスが当主、フレデリックは次期当主としてアレクシスの補佐をしていること。
「、おかあしゃまは?」
部屋の空気がぴたりと止まる。
アレクシスの腕が、ほんの少しだけ力を込めて私を抱きしめた。
少しの沈黙のあと、低い声がゆっくりと降ってくる。
「……ティアの母は、お前を産んですぐ…亡くなった」
お昼ご飯のときに現れなかった母親。聞く前からなんとなくわかっていたのに胸に響くその言葉を、幼い頭でどう受け止めればいいのかわからない。
ただ、アレクシスの腕がぎゅっと強くなったのだけはわかった。
「でもな、ティア。ローズマリーは命を懸けて自分の命よりも大事な宝物を私たちに残してくれたんだ。
ティアが笑って過ごしてくれることが、ローズの…母様の願いなんだよ」
「もちろん私もフレデリックも、そこにいるハロルドもそのことを願っている」
涙がこみあげてきて、喉がきゅっと苦しくなるけれど、必死に目をこらして、にっこりと笑った。
「わたし、えがおでいるね」
声が少し震えて、涙があふれそうになる。それでも、アレクシスの優しい瞳を見つめながら、小さな口元をふわりと上げてみせた。
◻︎◻︎◻︎
「ところでティアが持っているのは…フェンリルの物語か」
「しってりゅの?」
しんみりとした空気がただよっている中、アレクシスはティアが大事に抱えている本に気がついた。フェンリルの絵本をみたアレクシスの目には少し驚きと懐かしさが混じっていた。
父は少しだけ視線を落とし、懐かしそうに息を吐いた。
「…ローズがな、若いころに一度だけフェンリルを見たことがあると言っていた」
「ほんと!?」
思わず身を乗り出すと、父の胸に小さくぶつかってしまった。
「本当だ」
父は穏やかに微笑んで、続ける。
「森の奥で迷ったとき、灰色の大きな狼が現れて…その足音に導かれるように進むと外に出られたのだと話してくれた」
「こわい?」
「不思議と怖くなかったと言っていた。優しい瞳をしていて、気がついたら消えていたそうだ」
アレクシスの声はどこか遠い思い出をなぞるように話す。アレクシスは私の小さな手を包み込み、ゆっくりと目を細めた。
「フェンリルは心を見抜くと言われている。ティアも強く、人に優しくしていればいつかきっと出会える。」
「…ティア、がんばりゅね」
言葉を選ぶように一生懸命そう言うと、父の表情が一瞬驚きで止まり、すぐに柔らかくほころんだ。
「そうか。約束だな」
大きな手がわたしの小さな手を包み込み、ぎゅっと軽く握ってくれる。
「会えるように努力するティアを、父さまは応援しよう」
その声に胸がじんと温かくなって、わたしは力いっぱいうなずいた。