探索と興味
なるようにしかならない。だったら今は、流れに身を任せるしかない!
そう心の中で開き直って毛布を押しのけると、ちょこんと床に足を下ろした。
あらためて部屋を見渡す。
壁もカーテンも白を基調にしていて、可愛らしい花模様の刺繍や、丸みを帯びた家具が置かれている。
淡い色合いのクッションや、小さな花瓶。全体がふんわりとした空気で満ちていて、子ども部屋の優しい雰囲気。
部屋の奥には大きな姿見があって、そこに向かってとことこと歩く。
鏡の前で立ち止まると、そこには泣いたあとで赤い目をした、小さな女の子が映っていた。
肩まであるふわふわのミルクティーベージュの髪、幼い丸い輪郭、ヘーゼルのきゅるんとした大きな目。
私が顔を傾けると鏡の中の子も、首をかしげる。
「え、かわいい…」
見るからに美少女。父も兄も超絶美形だったため期待していたが期待以上だった。
小さな顔でいろいろな表情を作ってみる。ほっぺをふくらませたり、にこっと笑ってみたり。真剣な顔をしてみると、どうしても幼さが残ってしまって少し可笑しい。
思わず、ふっと小さく笑った。
鏡から離れると、今度は部屋の中を一歩ずつ歩いてみた。
大きなベッド、白いレースのかかった窓辺、この背では届かない位置に花瓶に挿した花が置かれていてふんわりとした甘い香りが、そこから漂っている。
壁際には、小さな本棚のような家具。近づいてみると、絵本が並んでいる。背伸びをして背表紙に触れてみるけど、小さな手では一冊引き出すのも大変だった。
小さな手ではなかなか掴めなくて、何度か引っかけるようにして、やっとの思いで一冊を引き抜くことができた。
床にぺたんと座り込んで、膝の上でぱらりと開く。
大きな絵と、ところどころに短い文字。見たことのない文字は読めないけれど、そこに描かれている美しい絵に目が惹かれた。
大きな灰色の狼。瞳は鋭くもあり、どこか寂しげで森の中で一匹孤独にたたずんでいる。
次のページには、白のワンピースを着た女の子が現れた。優しい微笑みを浮かべ、狼にそっと手を差し伸べている。
女の子が狼の頭を撫でる姿、一緒に寝ている姿、二人が並んで静かに森を歩く姿が描かれていた。
その絵を見つめながら、小さな手がぎゅっと絵本の端を握った。
◻︎◻︎◻︎
ページをじっと見つめていると、背後でそっと扉の開く音がした。
「お嬢さま」
落ち着いた低い声に、びくりとして振り返る。
扉のところには、きちんとした身なりの執事が立っていた。優しげな瞳でこちらを見て、静かに歩み寄ってくる。
慌てて絵本を閉じようとしたけれど、小さな手ではうまく閉じられず、ぱたぱたとページが揺れてしまう。
「そんなに急がなくても大丈夫ですよ」
執事は膝をついて目線を合わせ、絵本をそっと押さえてくれた。
「フェンリルの物語を見ていらしたのですね」
「…ふぇん、りる?」
執事の低い声が耳に残ったまま、その言葉をまねする幼い声がぽつりと漏れた。
舌がもつれて、うまく言えなかったけれど、執事はふっと目を細めて笑った。
「ええ、そうです。フェンリル。
この国では古くから語られる、大きな狼の英雄のことですよ」
優しい声でそう教えてくれる。
ページの中の灰色の狼をじっと見つめながら、幼い声で、途切れ途切れに問いかける。
「ほんとうにいりゅの?」
執事は少し驚いたように瞬きをしてから、
ゆっくりとうなずいた。
「ええ。伝説の存在ではありますが……
この国では、フェンリルは確かに“いる”とされております。森の奥深く、人の目に触れぬ場所で静かに息づいている、我々を見守ってくれている、と」
その声は穏やかで、物語の続きをそっと語るようだった。
「運命に選ばれた者は、いつかフェンリルに出会えるかもしれませんね」
執事の言葉に、私はまたページを見下ろした。しばらく絵本の絵を見つめていると、視界の隅で隣でしゃがんでいた執事が立ち上がるのが見えた。
「お嬢様、旦那様がお呼びです。
ご一緒に参りましょうか。」
その言葉に少し戸惑いながらも、小さくうなずく。
執事は静かに膝を曲げて、優しく腕を差し伸べる。迷いながらも、小さな手をそっと重ねた。
絵本を抱えたままひょいと抱き上げられた身体は、高い位置から部屋の景色が一望できる。
「フェンリルのお話は、また後で続きをいたしましょう」
◻︎◻︎◻︎
廊下を歩く途中、ふとわたしは思い出したように小さな声でつぶやいた。
「おなまえは?」
「私はハロルドと申します。代々グレイフォード家に仕えさせていただいております」
「はろるど…」
白い髪にわずかに混じった灰色が年齢を物語っていたけれど、その動きは驚くほど静かで正確で、長い年月を積み重ねた者ならではの余裕があった。
名前を聞いて、わたしはゆっくりと口に出してみた。ハロルドは足を止めて、少し顔をほころばせた。
「……はい、ティアローズお嬢さま」
わたしの声はまだまだ幼くて、たどたどしいけれど、名前を呼ばれることが嬉しいのかハロルドの頬がほんのり赤くなった気がした。
◻︎◻︎◻︎
静かな廊下を進み、やがて重厚な扉の前にたどり着く。
ハロルドは私をそっと下ろし、優しく背中を支えながら立たせてくれる。
「お嬢さま、少々お待ちください」
ハロルドは私に一礼した後、静かにノックを打った。
扉の向こうから低くも力強い声が返ってきた。
「入れ」
ハロルドが一礼して扉を開け、私を部屋の中へ入るよう促した。恐る恐る足を踏み入れると、部屋の奥には高そうな大きな机があり、その向こうに父が腰かけていた。