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6/10

安心


父はしばらくわたしを抱き締めたまま動かなかったが、やがて片腕だけでしっかり支えながら、もう片方の手でゆっくりナイフとフォークを取り上げた。


「今日はこのまま食べよう」


膝の上に座ったまま、父の胸に寄りかかる。広い胸板の振動が背中から伝わってきて、そのたびに不思議と安心した。


父の胸に寄りかかっていると、丁寧に小さく切り分けたお肉の一切れが、そっと目の前に差し出された。お肉を刺したフォークを持った父をきょとんと見つめた。


「……食べられるか?」


少しだけためらってから、口を開ける。

父の手から「あーん」と運ばれてくる一口は、なぜだか、くすぐったかった。


噛むと、じゅわっと温かい肉汁が広がって――

さっきよりずっと美味しく感じる。

父はその様子を見て、小さく微笑むと、またナイフを動かし始めた。


しばらくすると、今度はパンを少しちぎって差し出してくる。お肉とパン、時々スープの小さな一口。全部、父の手から少しずつ食べた。


その様子を、兄は隣の席からじっと見ていた。羨ましそうに、やってみたいと言いたげな目で。

父は、その視線にだけ気づいている。

けれど何も言わず、口元にかすかな笑みを浮かべただけだった。


私だけは、そんな兄の視線にも父の余裕にも気づかず、身を預けていた。


膝の上で過ごすこの時間だけが、ゆっくりと穏やかに流れていた。



◻︎◻︎◻︎



やがて皿が片付けられ、ざわめきがゆっくりと遠ざかっていく。


父は私を抱いたまま席を立ち、広い廊下をゆったりと歩いていった。途中仕事に戻るという兄に父の肩から顔を出し手を振った。兄はにこにこしながら、少しの寂しさを隠しながら手を振り返した。


どこかの部屋の前で父の足が止まった。よく見ると最初目を覚ましたときに見た部屋だった。

(この子の部屋なのかな…)


ベッドにそっと下ろされる。毛布をかけてくれたあと、父は少しのあいだ私の頭を撫でていた。


「…このあと少しだけ、仕事に戻らなくてはならない。一人でも大丈夫か?」


不安そうな顔をのぞきこまれて、小さくうなずくと、父はほっと息をついて頷いた。


「すぐ終わらせる。何かあれば呼びなさい」


そう言って、名残惜しそうにまた髪を撫でてから部屋を出ていった。


扉が閉まる音がして、部屋に静けさが戻る。

毛布をぎゅっと握りしめたまま、少しずつ冷静に物事を考えられるようになっていることがわかった。


毛布の中で小さく膝を抱えながら、目が覚めたあとのことを順番に並べてみた。


(…わたしは、ベッドで眠って気がついたら、この体だった)


あの瞬間、何が起きたのかはまだよく分からない。ただ、元の世界の体はベッドに置き去りで、魂だけがここに来た――そう思うしかなかった。

あのとき本来の私は病気もしてなければ身体の不調もなかった。突然死した可能性もあるが考えたくなかった。


この体には前まで“誰か”がいたはず。

わたしが来たから、その子はどこかへ消えた。そう考えると、胸の奥がぎゅっと痛む。


(わたしが来なければ…その子はちゃんとここで笑えたのに)


ここの人たちは、何も知らずに“ティア”ではない私に優しくしてくれる。その優しさがあたたかいほど、真っ直ぐな愛を向けられていると、どうしようもなく申し訳なくてたまらなかった。


小さな体をぎゅっと抱きしめながら、これからどうすればいいのかを、必死に考えようとしていた。



どれくらいそうしていただろう。

考えがまとまらないまま、部屋の扉がこんこん、と小さく叩かれた。


返事をしないでいると、ゆっくり扉が開き、見たことのない女の人が顔をのぞかせる。


「失礼いたします。…お嬢さま?」


(…だれ?)


まだ名前も知らない。年の若い、きれいな侍女だった。


「…あら、お休みかしら」

小さくつぶやきながら、そっと部屋に足を踏み入れる。ベッドの上で毛布を抱えたままじっとしていると、彼女は私が寝ていると思ったのか、小さな声でぽつりぽつりと呟きはじめた。


「…本当に、あのお嬢様が笑うなんて……。

産まれてから二年間ずっと人形みたいだったのに…」


胸がきゅっと縮む。


「旦那さまたちがどれだけ心配なさってたか…。でも、さっきは“お父様”って呼んだって…本当に?」


息をのむ音が、自分でも聞こえた。

侍女はそれにも気づかず、「奇跡みたい」と小さく笑ってから、毛布をそっとかけ直してくれた。


そして、静かに部屋を出ていった。



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