疲れた姫は仮面を被る
過去のお話になります。
――親愛なるフローラへ
お手紙ありがとう。夏の暑さでぐったりしていないかしら。フローラは暑さにだけは弱いから、ちゃんとお水を取るように。
忙しいのなら無理して手紙を書かなくてもいいのよ? お仕事が詰まっていると風の噂で聞きました。何か手伝えることがあったらまた言ってね。
フローラともアルとも会えない日々が続いていて、心配しています。二人とも忙しいのはわかっているし、私に会うよりもお仕事やお勉強を頑張ってくれて構わないの。休憩もちゃんと取るように、アルにお伝えください。
今度、王宮で祝賀会が開かれるそうね。フローラの美しいお姿をたのしみにしています。私には地味なものを準備してくれたらいいからね。誰も期待していないのにお金をかけたらもったいないわ。フローラのお下がりでもうれしい。わがままを言って申し訳ないけれど、よろしくね。
――愛を込めて、ミアより
妹からの手紙を読んで、深呼吸をした。どうしてこの子はこんなにも、と両親に苛々する気持ちをため息とともに心の奥深くに抑える。
侍従を呼び、言伝を頼んだ。少々癪だが、わたしが直接あの子に会いに行くことのできない今、頼れるのはあの男しかいない。
二時間後、執務室に彼が入ってきた。予想していたよりだいぶ早い。
同じ部屋で仕事をしていた秘書官たちに休憩しましょう、と声をかけ、人払いをする。彼――アルベルト・ルークはわたしの婚約者候補だと思われているから、二人でいようがなにを言われることもない。人々の視線は面倒で単純なものだな、と思う。
「話ってなんだ」
「まあ座りなさい。わたしとあなたの間の話題なんて一つしかないでしょう。わかっていたから大急ぎで駆けつけたのではなくて?」
「……うるさい奴だ」
呼びつけられたせいか図星を当てられたせいか不機嫌そうにしているアルベルトは、執務室のソファにどっかりと腰を下ろした。わたしは机の引き出しにしまっていた手紙を取り、彼の真正面に腰掛ける。
封筒に書いてある字で差出人に気づいたのか、アルベルトはすっと目を細めた。気持ち悪い男、と言いそうになったのを堪える。
「……今日届いたの。読む?」
「いいのか? 私信だろう」
「読まれてまずいことなんて書かないわよ。あの子は賢いもの」
「じゃあ、遠慮なく」
紫色の瞳が、妹の美しい筆致をなぞる。自分の名前が出てきた部分を読み、目尻がふにゃりと和らいでいる。
他人が見たら気づかないかもしれないけれど、わたしには彼が喜んでいることがわかった。やっぱり読ませなきゃよかった。
全部読み終わると、アルベルトも細く嘆息した。
「どういう意味だ、これは」
「さあね。また意地悪が派遣されたのかしら、と思っているわ。あなたは何か聞いていないの?」
「……何も。地味なお下がりが欲しい、がわがままってどういう思考回路をしているんだ? おまえが何か言ったんじゃないだろうな」
「殴られたいの? 一ヶ月も前から新品を準備させているわ。母に任せると何も進まないから。ミアに似合うものを、とデザインをこだわっていたら進まなくて他の仕事が押してしまったのだけど」
そこまで言って、ああ、母かと気づいた。アルベルトも同じことを思ったようだけれど、口には出さない。
双子は昔から不吉なものとして扱われる。殺されたり隠されたりすることは少なくなったが、それでも双子や三つ子は稀な存在であり、異端であることに変わりはない。
母は出産してすぐに精神を病んでしまった。産まれた子どもが双子だったことで、大臣たちや教会からいろいろなことを言われたらしい。
わたしたちが五歳になる頃には寛解の傾向にあったが、今に至ってなおわたしと妹とであからさまに差をつけようとする。しかも、数年間そんな状態だったから、ミアの下にきょうだいが産まれることもなかった。
わたしには一級品を、妹はそれ以下のものでいい。わたしには厳しい淑女教育を受けさせて、妹には最低限でいい。
その姿勢は子どもの目から見ても、妹のほうを担ぎ上げようとする連中を出してはいけない、と怯えているようだった。
ばからしいとは思うが、その懸念はまちがっていないから表立って文句を言うこともできない。実際、わたしに何かあるとすぐに「妹にも教育をつけておけばよかった」と言いふらす者も少なくない。
ミアにはこのことを明かしていない。母の冷たい態度の理由を説明して、彼女にそれを受け入れさせるのがいやだった。虐待を「そういう事情があるからしかたない」と納得させるなんて酷いことを強いたくない、というわたしの自分勝手だ。
わたしもわたしで楽ではないし、妹は妹できつい立場にいる。妹にわたしのような思いをさせたくない、という気持ちだけでここまでやってきた。ただ、その結果が妹の低姿勢なのだとしたらわたしはまちがえていたのかも、と考えて後ろ向きになる。
わたしがしゅんとしたことを目敏く察知し、アルベルトが「おい」と声をかけてきた。
「今は落ち込んでいる場合じゃないだろう。早くミアに説明してやれ」
「わたしからだと、遠慮すると思うの。だからあなたに頼もうと思って」
「俺を便利屋扱いするな」
「ずっと会っていないのでしょう? 口実がなければ会えないのではなくて?」
にやりと笑いながら言うと、アルベルトは苦虫を噛み潰したような顔になった。わたしとはいつでも会えるけれど、ユーフェミア相手ではそうじゃないはずだ。わざわざ理由を作って機会を与えようとしているのだから、むしろ感謝してほしい。
アルベルトはしばらく黙り込んで考えたあと、「わかった、あとで行く」と答えた。二人にはあえて黙っていたことをついでと言わんばかりに伝える。
「ああ、そういえば、祝賀会でのミアのパートナーはあなただから。よろしくね。騎士向けのものだから両陛下はすぐに退出する予定よ」
「……は? おまえは」
「わたしは来賓をおもてなししないといけないらしいわ。そのこともよろしく言っておいて。あ、あんまりかわいいからって襲いかからないようにね」
「ばかなことを言うな! ……そんなことするわけがないだろう」
大声を出したのが恥ずかしいのか、アルベルトは少しだけ顔を赤くしている。海千山千の大臣たちと比べたら、アルベルトはまだまだ子どもだ。その様子を見て、顔がふにゃりとほどけた。
想像する。
わたしとユーフェミアは料理屋の娘で、アルベルトはそこに食材を仕入れる八百屋の息子なのだ。ユーフェミアとアルベルトは両想いであることを隠していなくて、わたしたちを溺愛している父は二人の関係が進まないよう目を光らせている。でも、アルベルトが来るたびにうれしそうにするユーフェミアを見て、悪くない気もしている。
わたしは馬に乗って母と二人で森を探索するのが好きで、母は本心から「フロレンティーナがお嫁に行かずにずっとお店を手伝ってくれたらうれしいわ」と微笑んでくれる。わたしは昔からそのつもりだったから、大きく頷くのだ。
ちがう家族、ちがう環境、ユーフェミアとアルベルトだけが今と変わらずそばにいてくれる――どれほどよいだろう。
けれど現実は、ユーフェミアとは月に一度も顔を合わせられず、アルベルトは呼べば会ってくれるもののこの関係もいつまで許されるかわからない。父と母はわたしには過干渉で、妹には無関心を貫いている。
この生活のどこに幸せがあるのかも、なにをすればまるく収まるのかも、もうわからなくなっていた。頭はずっとぼうっとしている。
フロレンティーナ、とアルベルトに呼ばれ、はっと意識を現実に戻した。ごめんなさいね、と曖昧に笑えば、アルベルトにうつくしい紫の瞳で睨まれる。
「……もっとふつうの家に産まれていれば、と思うこともなくはない」
「いやだわ、わたし、口に出していた?」
「いいや。疲れているときにそういうことを考えると前に話していたから」
「……そうね。つい物思いに耽っちゃうの。老いがきているのかしらね」
「まだ十四の子どもだろう」
アルベルトは十八だ。わたしが彼の年齢になるとき、どうなっているのだろう。さすがに、ユーフェミアとアルベルトの婚姻は成立していてほしい。
「だが、俺の生まれがふつうだったら、おまえや……ミアと出会って、話すことはできなかっただろうな。雲の上の上くらいの存在だ」
「そのときはわたしたちもふつうに産まれているのではなくて?」
「どうだか。おまえたちはいつ産まれても尊い身分にいそうだから」
「……産まれてこなければよかったと思うことはある?」
執務室が、しんと静まり返った。怒らせたか、と顔色を窺ったが、彼の表情はどちらとも読み取れない。
気まずくなって、お茶を一口すする。淹れてから時間が経ったせいで少し温い。
わたしが産まれなければ、ユーフェミアも、父も母ももっと生きやすかったのではないかと思うことがある。目の前にいるアルベルトもそうだ。わたしがいなければユーフェミアへの想いは隠さずにいられただろうし、誕生してすぐに婚約が結ばれていただろう。
わたしがいたばかりにみんなが苦しい。ユーフェミアは自分がわたしを苦しめていると思っているようだが、逆だ。わたしがみんなの運命を狂わせて、みんなを苦しめている。
自己嫌悪に陥る暇もなく仕事や勉強が押し寄せ、考えるよりも先に顔が笑顔をつくるようになった。
わたしが立派でいなければ、わたしが女王にならなければ妹を今よりずっと苦しめることになる。それだけは避けたい。
わたしが生き存えるのは妹のためだ。産まれてこないのがいちばんだったけれど、産まれてしまった以上、義務を果たす責任がある。
「産まれてこなければ、と最近は思わなくなったな」
「……そうなの」
「はじめは、ここに産まれついたからにはという義務感だけだったが。今は目標がある」
「あなたって……ため息が出るほどミアのことが好きね」
「悪いか?」
当然のように言われて面食らう。わたしの反応も想定内だったのか、彼は軽い音を立てて笑った。
ユーフェミアもアルベルトを思っているようで、姉として文句を言いたい気持ちと、喜ばしく微笑ましい気持ちが半分ずつある。
アルベルトが隣にいれば、ユーフェミアが女王になっても大きな問題はないだろう。このことに関しては母に口を出させたくないから、わたしは外国から結婚相手を見繕わなくてはいけない。
そろそろわたしの秘書官たちはうずうずしている頃だろう。立ち上がって小さく伸びをする。アルベルトはこのままユーフェミアと密会に行くようだ。
「あなたたち、いつもどこで会っているの?」
「さあ。いくら親友でも教えられないことはある。すまないな」
「せっかくお膳立てをしてあげたというのに生意気ね。それと、わたしはあの子の姉よ」
「義姉か……いやな響きだ」
「あの子の姉だと言ったの、あなたに姉と呼ばれる筋合いはないわ」
「はは、残念だがいつかはそうなる。じゃあな」
「ええ、気をつけて」
アルベルトが部屋を出ると同時に秘書官がぞろぞろと戻ってきた。仮の婚約者との逢瀬に見えただろうか。
わたしとアルベルトの企みは、今のところ誰にもばれていない。両親に気取られないよう慎重に進めているところだ。わたしとアルベルト、そしてあの子のためにも横槍を入れられたくない。
今度の祝賀会は、その布石になるだろう。準備は大変だけれど待ち遠しい。ユーフェミアのうつくしい姿と喜ぶ顔を見られると思ったら、どんな忙しさも乗り越えられそうだ。
秘書官の目があると思えば、うかつに疲れた顔もできない。すぐさま『ご機嫌な姫』の仮面を被り、あとひといき、とペンを取った。