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人形姫は花園に咲む


 ずっと前から知っていた。いつかいなくなるのは私であるべきで、邪魔なのは私だけなのだと。


 わかっていたのに、なぜ、どうして――姉が死ぬのだ。


 嫋やかで、誰からも愛されて、みなの憧れの的だった姉。この国の女王として戴冠する日を、父からも母からも期待されていた。

 体の弱い私とは違い、姉は小さい頃から健康体そのものだった。周囲の従者が手厚く世話をするから、風邪を引いたことすら一度もなかったはずだ。


 それなのに、高熱が出て内臓が悪くなり、呼吸ができなくなるまであっという間だった。


 毒物が使われたのでは、と市井でも噂になるほど不自然な死に、王宮中が上へ下への大騒ぎだった。内密に調査が行われたらしいが、結局そのようなものは見つからなかったらしい。風の噂によれば、私も調査対象(・・・・)の一人だったそうだ。

 姉が死に、私の王位継承順位が第一位となった。


 王宮の奥深く、王族の許可した者しか立ち入ることのできない花園に、姉は眠っている。ここは大きな温室となっていて、墓石の周りを彩る花は枯れることがない。

 白く、冷たい石に、目を伏せる。


 姉が死んでから三ヶ月が経つ。私の生活はそれまでと大して変わらない。決まった時間に起き、食事をして、後の時間は部屋の中で過ごす。どこにも行かず、誰とも会わず、王宮の一室にひっそりと閉じこもる。


 私を揶揄するとき、人はみな『人形姫』と呼ぶ。溌剌としていて人気を集める姉とは違い、隅にじっと座って人を寄せつけない、冷たい妹。

 同じ腹から出てきた同じ顔の双子なのに、その出来はまったく異なる。愚かで、話しかけられても笑顔で微笑むしか脳がない。両親や姉に言われたことしかしない、人形のようなお姫さま。


 今までは姉がいたからそれでよかった。でも、これからは? 私はこれからどうしたらいい? 誰も教えてくれない。父も、母も、従者だってそうだ。これからどう政治が動き、国がどうなっていくのか、何も知らない私には見当もつかない。


 知ったところで、それに抗う気力もない。他国に嫁げと言われれば嫁ぐし、王冠を被れと言われたら被る気はあるが、姉が亡くなった後処理に追われて誰も何も教えてくれやしない。私の優先順位は低いのだ。


 ただ、『王冠』は確率としてほぼ低いだろうと睨んでいた。父や母が今さら私を後継者にするわけがない。三ヶ月前までは透明人間のように扱ってきた人間を、今さら子と思うこともむずかしいだろう。


 姉の名が彫られた墓標を見やる。フロレンティーナ。毎日一度は見ているはずなのに、まだ慣れない。こんなに冷たそうな石の下に、本当に姉が眠っているというのだろうか。

 しゃがみこんで、ぺたりと右手をつけた。そのまま姉の名前の綴りを指でなぞる。ざりざりした石の感覚が指に伝わった。


 フロレンティーナ。彼女の名をくちびるの裏でつぶやいた。

 私はどうしたらいい? ――こうしてすぐに姉に頼ろうとするのも私の悪いくせだ。わかっている。でも、頼れるのは昔から姉しかいなかった。


 姉は私の光だ。彼女はみなから憧れられていたけれど、誰よりも理想に思っていたのは私だった。


 彼女が女王になるためなら、何をしたって惜しくなかった。無能だと陰口を叩かれようと、穀潰しだと揶揄されようと、人形姫だと嗤われようとどうだってよかった。父や母に蔑まれたって気にならない。私の中では、フロレンティーナだけが絶対で、唯一だ。


 私たちは光と影で、表裏一体の存在だった。そっくりな顔かたちをしている私たちは、父や母ですら見分けられないこともあった。だから、同じように立派(・・・・・・・)であってはいけないのだ。同じ人間が二人いれば、よからぬことを考える愚か者はかならず出てくる。


 フロレンティーナが輝くために、ユーフェミアはじっとしている。フロレンティーナが理想の女王だと思われるよう、ユーフェミアはその反対の行動をする。


 この国は長子が家を継ぐ。王家も同じで、二番目に生まれた私にはなんの責任もなく、フロレンティーナの背には生まれたときから重圧がのしかかっている。


 教育だって、私は最低限のものしか受けていないけれど、姉は朝から晩まで教師がつきっきりだった。

 三つの外国語を完璧に話せても、四つの楽器を演奏することができても、嫡女だから当然だと言って誰にも褒められない。そのくせに罰として手を鞭で打たれたり、皮膚がすり切れて血が出るまで練習をさせられたりすることは日常茶飯事だったそうだ。


 姉が泣くところを何度も見たことがある。涙を流すとき、彼女は決まって私の部屋に来た。私相手ならば護衛を外に払えるからだ。姉妹で秘密の話をしたいから外で待っていて、と花がひらくような笑みで言われれば、断れる者はいなかった。


 そうして二人っきりの部屋にして、フロレンティーナは声を押し殺して泣くのだ。扉の外に侍っている騎士に気取られないよう、真っ赤な顔をくしゃくしゃにしてぼろぼろと涙をこぼす。隣に座る私の手を痛いくらいに握り、漏れようとする声を必死に我慢していた。


 悔しい。痛い。わたしが悪いのはわかっている、でも腹が立つ。ユーフェミア、助けて。いいえ、ユーフェミアには同じ思いをさせられない。痛いのはいやね。心まで弱くなってしまうわ。もういや、逃げたい、でもミアをここ(・・)には座らせられない。ミア、迷惑をかけてごめんなさい。わたしはだめね。わたしはいつだってだめだめだわ。


 姉は泣きながらいつもそう言った。それを聞くたび、父も、母も、教師も、誰も彼もを絶対に許さないと思った。こんなに素晴らしい女の子が傷ついてぼろぼろになっているのに、気づかないなんておかしい。


 姉は、私を苦しめないためにずっと我慢してくれている。

 ならば、私も。私も姉のためを尽くそう。姉が立派な女王として君臨するために、私が影となろう。私の評判なんて惜しくない。どこかに嫁ぐことしかできないこの身を、姉のために使えると思ったら悪くない。


 物心がついてすぐにそう決めた私は、それからずっと『人形姫』として過ごした。姉とはこのことで喧嘩にもなったけれど、渋々納得してくれて、その後は二人で綿密に打ち合わせをした。


 すべては姉のためだ。私の命は姉だけのためにあり、姉が光り輝くために使われるべきだ。


 大きくなるにつれて姉が私の部屋を訪れることは少なくなったが、かわりにこっそりと文通をして交流した。姉が『わたしはやっぱりだめみたい』と書くたび、『フロレンティーナは私の自慢の姉よ、自信を持って。あなたが私の光なの』と書いて返した。姉の自己評価の低さは変わることがなく、公の場では堂々としているのに私への便りはいつも泣いているみたいだった。


 姉はある朝、あっけなく死んだ。十七歳。早すぎると思う。


 姉が死んでから三ヶ月が経つが、私はいまだに黒ばかり着ている。地味な化粧をして、髪を結い上げることもしない。両親は暗い色味のものを取り入れ始めているが、私はここから一歩も進みたくなかった。その意思表示としての黒だった。


 前に進んだら、姉のことを忘れてしまいそうで怖い。


 俯いたら、姉と同じ金色の髪がさらさらと肩からこぼれた。鏡で自分の姿を見て、ふとした瞬間に姉のことを思い出す。

 悲しい。悔しい。あんなに頑張っていた姉がどうして。こんなふうにいきなり命を失うなんて。


 そう思うのに――どうして泣けない。三ヶ月、涙が流れることは一度もなかった。


 国を挙げての葬儀の際も、両親に小さな声で詰られた夜も、姉が私の部屋の扉を開けることは二度とないとわかっても、と私の眼はからからに乾いたままだった。

 人形よろしく、感情も消えてしまったのだろうか。それならば、このどろどろと血が流れるように止まらない悲しみも喪失感も一緒になくなってしまえばよかったのに。


 姉がいない。だから泣けない。思えば、私が涙を流すときはいつも姉と――


「ミア」


 今、一番聞きたくない声が耳に響いた。低く艶やかで、昔とはまったく違うのになぜか馴染みがある。

 ずかずかと花園を踏み入ってくる音がする。振り返らなくともわかった。足音は、私の隣でぴたりと止まる。


「ミア。おまえがいつまでも出てこないから外の護衛たちが困っている」

「……姉としばらく一緒にいたいのよ。そう伝えて」

「だめだ。いくら温室とはいえ、一時間もいれば冷えてくる。ミアが風邪を引けば、あいつも悲しむだろう」

「あなたに何がわかるの」


 からからと笑えば、隣の男がむっとした。気配だけだけれど、きっと唇を真横に引いていることだろう。長い間一緒にいたから、表情なんて見なくてもわかる。


 アルベルト・ルーク。侯爵家の次男で、将来は宰相になると言われている有望な若者だ。私たちより四つ上で、小さな頃から交流がある。

 とくに姉と彼はとても気があって仲が良く、公にされてはいなかったが姉の婚約者候補の一人だった。


 どうして彼がここに入れるんだろう、と考えて、姉と親しかったからだという結論に至った。この花園には、王族が許可した者だけが立ち入れる。両親のどちらか、もしくはその両方からきちんと許可を得ているんだろう。抜かりないこの男のやりそうなことだ。


 彼が私を気遣うような視線を向けていることも、姉の心情をわかったように言われたことにも腹がたつ。そして、私が『いつもの私』を取り繕えないタイミングで会いにきたことも。


 姉の死後、彼に会ったのはこれが初めてだ。どうして今日、このタイミングで顔を合わせることになったのだろう。最悪だ。

 気持ちを悟られないよう無理やり頬を持ち上げてから、力を入れて立ち上がる。不敵に笑ってみせると、アルベルトはぐっと眉根を寄せた。紫水晶のような瞳が私を射抜いている。


「戻ればいいんでしょう、戻れば。ほら、あなたも行くわよ」

「……待て」


 くん、と後ろから腕を引かれた。王族に対しての態度とは思えない。不敬よ、と冗談めかして振り向けば、彼はやけに心配そうな顔を向けてきた。その表情を見て、少しだけ怯む。


「寝られているのか」

「ええ、ぐっすりとね」

「そうか。じゃあこれは」


 先ほど掴まれた腕はそのままに、逆の手が顔のほうに伸びてくる。指先で目の下を撫でられた。つづいて、頬のあたりをなぞられる。


「くまができている。それに頬もこけた。食事は?」

「……きちんと摂っているわ。あなたが心配するようなことはなにもないから。はなして」

「本当のことを言ったら離してやる」

「あなたねえ、いくらなんでも幼馴染だからって、」

「アル、と呼ばないのか? ミア」


 聞かん坊の子どもに諭すような、甘やかすような声だ。私はこの声に昔から弱かった。いつも私のことを気遣うなんてしない意地悪な彼が、私になにかあると思ったときだけ出す。耳を塞ごうにも、彼に腕を取られていてできない。

 身体の真ん中がどくどくと音を立てている。澄んだ紫から逃げたくて、顔を俯かせた。


「ミア、どうして眠れない? 俺には言えないことか?」

「……言いたくない」

「どうしても?」

「どうしても、あなたには言いたくない」

「言わなければ唇を奪う、と言ったら?」


 は、と息が止まる。今、この男はなんと言った。


「幸い、ここは二人っきりだ。まあ、フロレンティーナもいるが見逃してくれるだろう。護衛たちは近づけるはずもないから、何をしたって俺たちしか知ることはない。ミア、どうする?」

「どうする、って、なにを」

「かわいいミア、俺の唯一。不健康そうなミアを見ていられない。何に思い悩んでいるのか教えてくれないか」


 芝居がかった台詞とともに、高いところにあった顔が近づいてくる。両手で顎を掴まれて、逃げることもできない。

 この人は姉と思いあっていて、それは妹の私から見てもそうで、揺らぐことのない真実だった。だから私は、私は。


 唇どうしが触れる寸前で声を出した。混乱する頭から出てきたのは、単純な質問だった。


「……あなたは、アルは、姉が死んでどう思ったの」

「どう、とは」

「悲しいとか、切ないとかあるでしょう」

「……ミアは?」

「私は、訃報を聞いていちばん最初に、よかったと思った。ほっとした。最低で、笑えるでしょう。悲しんだのはそのあとよ。今も、ちぎれそうに心が痛いけれど、やっぱりよかったと思ってしまう」


 アルベルトはこれを聞いてどう思うだろう。最低な私をはやく罵倒してくれないだろうか。


「美しくて溌剌とした姉にきっと嫉妬していたのね。だから彼女がいなくなってほっとしているの。もう比べられることがないから嬉しくて。何の役にも立たない妹と笑われることもなくなるわ。だって、人気があって注目の的だった姉は死んでしまったのだから」


 思ってもいないことだ。自分で言いながら苦しくなって、捲し立てるように続ける。


「ほっとする一方で悲しくて、姉に会えないと思うと苦しいの。仲がいいわけでもなかったのに変よね。物心がついた頃から姉と二人で会話をしたこともないし、ただ血がつながっているだけなのに」


 アルベルトは私の言うことをじっと聞いている。なぜ失望して立ち去ってくれないのだろう。


「睡眠と食事をとらないのは、あなたのせいよ、アルベルト。あなたに心配してほしくて。明らかに不健康だったら、やさしいあなたは心配してくれるでしょう? 私の計算どおりだったわね。ありがとう。どう? いやになったかしら。気持ち悪いわよね」


 ふんと鼻で笑う。心を配ってくれる人にまでこんな言いかたをする私の心なんて、ぐちゃぐちゃに潰れてしまえばいい。


「ああ、安心して。あなたの出世の道を邪魔するものは何もないわ。姉と結婚できなかったから私と、なんて考えなくていいのよ。ねえ、早く出ていってくれるかしら? 誰にも言っていないけれど、ここで約束をしているの。……優しい彼なのよ。秘密のこ、」


 ――ふいに、陰が落ちた。長い睫毛は伏せられていて、透明に輝く紫が今は見えない。唇に冷たい感触がある、と思うと同時に腔内に舌が入ってきた。


 息が漏れ、おかしな声が出てもアルベルトは止めない。どんどんと胸を叩き、反抗ができたのは最初だけで、アルベルトの唇が離れる頃には私の身体はくったりとしていた。

 アルベルトにさんざん噛まれて腫れた唇を、彼の親指でゆっくりと撫ぜられる。そして彼は、徐に口を開いた。


「フロレンティーナが最期に呼んでいたのは、ミアの名前だったと聞いた」

「な、に……」

「おまえたちと何年一緒にいて、おまえを何年見てきたと思っている? そんな猿芝居に俺が騙されるとでも?」

「さ、猿だなんて」

「秘密の恋人、だったか? 深窓のくせに顔の割れているお姫さまと付き合う男がどこにいる」


 瞳の紫が濃くなっている。怒っているのだ。でも、どうして。


「十数年も二人で話したことがないなら、どうして最期にそんな相手の名前を呼ぶ? フロレンティーナがたびたびミアの部屋に行っていたのはどう説明するんだ」

「……気づいて、いたの」

「両陛下は気づかれていないがな。幼馴染を騙せると思わないほうがいい」


 気づくというか、聞いていた、とアルベルトは続けた。


「フロレンティーナはミアのことをいつも気にかけていた。溺愛と言ってもいいだろう。口を開けば二言目にはミア、わたしのかわいいミア、だ。不仲を装っているんだとすぐにわかった。姉は立ち位置の難しい、体の弱い妹に目がいかないよう動き回り、妹は女王となるべく厳しい教育を施されている姉の逃げ場になる。面倒が巻き起こらないよう徹底して自分の役割を演じて、お互いを守ってきたのだろうと」


 なぜ、彼がそのことを知っているのだろう。


「フロレンティーナが死んでほっとしたのは、もう彼女が自分や国を背負わなくてよくなったからだろう。苦しむフロレンティーナをいちばん近くで見ていたのはミアだ。ほっとするのに、二度と会えないと思うとさみしくてつらい。だから寝られず、胃が小さくなった。ちがうか?」

「ちがうわ」

「今日まで会いにこられなくて悪かった。俺もフロレンティーナもいなかったから、ずっと泣いていないんだろう? フロレンティーナを苦しめたのは自分もだという罪悪感でいっぱいで、墓の前でばかみたいに座っていることしかできない」

「違う、やめて」

「どうしてそう姉妹そろって意地っ張りなんだ。儚い顔つきをしているくせに頑固で、一度言ったらそれを曲げない。だからそうやって苦しむことになるんだ」


 誰もミアのことを責めていない、とやさしい声が降る。瞳の奥がじんわりと熱くなったが、涙が流れることはなかった。


「フロレンティーナに会って二、三度したとき、おまえは妹と気があうだろうから会ってみろとうるさく言われた。それからミアと知り合って、公での態度が演技なのだとすぐにわかった。公の場では無表情なのに、二人で話せばころころと表情が変わる。世間から隔離されているくせに物事をよく把握していると思った。不敬にも、それに気づかない両陛下は何をしているんだ、とも。それをフロレンティーナに伝えたら、自慢の妹なんだとうれしそうに話していた」


 私の知らない話だ。姉が私のことを自慢だと思っていてくれたことを聞いて、鼻の奥がつんとなる。


「フロレンティーナがミアの話をできるのは俺だけだった。だから傍目からは親密に見えたんだろう、俺たちの婚約話が持ち上がった。フロレンティーナは持てる力全てを使ってそれが正式なものにならないように食い止めていた」

「どうして? 二人は思いあっていたんじゃ」

「いいや。フロレンティーナが俺の気持ちに気づいていたからだよ。妹に懸想する獣、とまで言われた。しばらくは無理だが、自分の婚姻が整えば進言してやるから待っていろ、と」


 ずっと知らない話をされている。俺の気持ち? 懸想? 自分の婚姻、とはどういう意味。姉はこの人以外と結婚しようとしていたの? では、姉の気持ちはどこへ行くの。


 頭の中でつぎつぎ疑問を浮かべている私を見て、アルベルトはふっと笑った。瞳に愛おしげな色が浮かんでいる、と思うのは気のせいだろうか。


「フロレンティーナが俺を好きだったことはない。俺も同じだ。手を繋いだことすらない。俺が好きだったのは、ずっと」


 ユーフェミアだよ、と頬を撫でられた。それが合図だったみたいにして、瞳からぱたぱたと涙が落ちる。泣くなんてみっともない、慰められたいみたいで恥ずかしい、という心とは裏腹に、両頬を濡らす雨は止まることがない。


 私が涙を流すとき、いつだって姉か彼のどちらかがそばにいてくれた。義務だと言われて行ったお茶会で貴族のご令嬢にお茶をかけられたときも、ドレスのデザインが貧相だと笑われたときも、母に『失敗作』と言われたときも、どちらかがそばにいて背を撫でてくれた。


「そんなのう、うそよ……だっ、て、だってわたしは」

「なにが信じられない?」

「私が、邪魔者だって……だから二人がけ、結婚するのを祝福しようって……」


 泣き声が漏れる。恥ずかしい。彼に見られていると思うと余計に。


「フロレンティーナが死んで、最初に思ったの。……死ぬのは、私であるべきなのにって。みんなに慕われていて将来を期待されている姉じゃなくて、日陰もので誰にも好かれていない、未来のない私が死ぬべきなのに、どうして姉がって。ずっと頭から離れなかった。姉は神に間違って選ばれたのだと思った。私を摘むつもりが、顔が同じなばっかりに。泣いてはいけないと思った。私のせいで、姉は、フロレンティーナは」

「また唇を塞がれたいのか?」

「ちがうわ、ほんとうのことよ」

「ミアが死ぬべきであって、フロレンティーナの死はミアのせいだと、本気で思っているのか」

「この期に及んでうそなんて吐くわけない」

「本物のばかだな」


 頬に残った涙の跡をぐいと拭い、軽くキスを落とされた。顔が火を持ったように熱い。この男はどういうつもりで身体的な接触をしているのだろう。仮にも私は王女で、彼は宰相候補なのに。


「フロレンティーナと俺にこんなに愛されているミアが死んでいいわけがない。誤解しないでくれ、フロレンティーナが死んでいい、と言っているわけじゃない。彼女の死は誰のせいでもないんだ。避けようのないものだった。だから、そう自分を責めるな」


 あたたかく大きな手で頭を撫でられる。アルベルトは髪を複雑に結えていたら触れることを躊躇するから、下ろしていてよかった。


「ミア。ユーフェミア。俺のことが好きなんだろう」


 やけに断定的に言われたのが恥ずかしくて首を横に振る。

 アルベルトは、私のことであればなんでもお見通しなのだ。ここにどんな気持ちできていたのかも、私が泣けなかったこともきっと知っていた。知っていて、私が自分で言うまで待っていたのだ。


「す、好きだと言っても、どうにもならないでしょう」

「なるならないは置いておいて、思っていることを訊きたいだけだ」

「アル、あなた、恥ずかしくないの」

「俺は言った。つぎはミアの番だ」

「……ええ、そうね、好きよ。見ているだけでよかった。アルと姉が一緒にいるところを眺めているのはつらかったけれど、あなたたちが幸せになれるのならそれで満足だった」

「いじらしいな。でも、そんなことにはならない。――親愛なる、ユーフェミア・グラッツェル第二王女殿下」


 そこまで言って彼は私の左手を取り、花畑に跪いた。震える私の指先をきゅっと掴んだあと、そこに口づける。


 私が目をまるくすると、彼は片方の口角を上げていたずらっぽく笑う。その顔ですら様になっているからなんとなく腹立たしい。


「ミア。俺と結婚してくれるか?」

「でも、そんなの、お父さまが許さないわ。あなたは宰相になるのよ」

「結婚してくれるか?」

「ねえ、あなたの出世に関わることなのよ。だめよ、きっと。私のような女ではなく、もっと条件のいい――」

「俺はミアがいい。ミア以外要らないんだ」


 俺も大概ばかだろう、と彼は自嘲するように笑った。どうしてそんなに傷ついたような、泣きそうな顔をするの。似合わない。


 希うように見上げられる。アルベルトは眩しいものを見たように目を細めた。その濃い紫色の瞳に、私はどう映っているのだろう。顔がかっかと熱い。瞳も潤んでいるはずだ。


「お願いだ、俺を選んでくれないか」

「えらぶ、だなんて……」

「かわいいユーフェミア。俺の唯一」

「も、やめて……きっと反対されるわ。しなくていい苦労を得ることになる。途中でいやになったと離れていったら、私は耐えられない」

「そんなことにはさせない。だから手を取ってくれないか」


 唯一、と私を呼ぶ声は、先ほどとは違い感情のこもったものだった。演技がかってもいない。真剣にそう思っているのだ、といやでもわかる。


 彼にここまでさせる私はなんなのだろう、と今の状況を俯瞰して思う。私は王女というだけで何も持っていなくて、彼は選り取り見取りのはずだ。どうしてこんな女がいいのかさっぱりわからない。

 見る目がない。姉ではなく、私を? 本当に? 信じてもいいのだろうか。ここまできて冗談だとは言われないだろうけれど、自分に自信がない。


 彼はきっとひどいようにはしない。その大きな手を取っても許されるのだろうか。アルベルトと歩む未来を、望んでもいいのだろうか。


 これから、茨の道になる。後継問題も私の行先もなにも決まっていない。そこに彼を引き摺り込んでも許されるのならば、二人で一緒にいたい。

 アルベルトと同じぐらい信頼できる人は、すでに天に召されてしまった。

 こくりと小さく頷いて、手を握り返す。


「……ごめんなさい。厳しいとわかってはいるけれど、アルとの未来を夢見てしまう。一緒にいてほしいの」


 ずっと、という言葉は、彼の胸に抱きこまれてついぞ発されなかった。強く抱きしめられて、私もその大きな背中に腕を回す。

 ああ、と上から声が聞こえた。震えているように感じたのはきっと気のせいだ。


「やっとだ。……長かった。意地っ張りの相手はこれだから大変だ」

「これからどうするの? 勝ち目はあるの?」

「どうしてないと思う? ないならキスをしたり抱きしめたりするわけがないだろう。もう許可は取ってある」

「うそよ」

「俺の言うことを信じないやつだなあ。ユーフェミアが知らないだけで、俺たちの婚約はすでに結ばれている。政治的なものだと勘違いされて冷たい結婚生活になるのは絶対にいやだった。誰に何を言われようと、俺に愛されて望まれたのだとわかっていてほしい」


 いきなり告げられた事実に頭が混乱する。私のさっきの覚悟を返してほしい。一人で滑稽じゃないか。


 恥ずかしい、とは思うものの、どうしてもうれしい。顔だけでなく、耳まで熱を持っていた。好きな人が私を好きで、婚約者で、将来は夫になる。


「じゃあ、ずっと一緒にいられるの?」

「当然だ。ミアがいやになっても離してやれそうにない」

「私、あなたの妻になるの?」

「ああ。言っただろう、ミア以外要らない」


 胸がいっぱいになって、どうしたらこの感謝と恋慕を伝えられるだろうと考えた。


「ねえアル、すきよ。大好き」


 背伸びをしても届かない頭をどうにか下げたくて、襟元をぐいっと引っ張った。アルの薄い唇に自分のものを重ねる。


 紫色の瞳を一度まるくした彼はすぐさま主導権を私から奪い、腰を抱いて荒々しく口づけをした。口づけの隙間でもうゆるして、と言っても聞き入れてもらえず、結局酸欠で顔が赤くなるまで離してもらえなかった。


「……フロレンティーナのことは残念だった。唯一無二の親友のようだったから、喪失感はいつまでも癒えないだろうと思う。ミアと出会わせてくれたのも彼女だ。ずっと忘れない」


 前を向こうとか、姉のことを忘れて新たな道を進もうとはけっして言わないのがアルらしい。

 私と同じ思いでいてくれることがうれしくて、また涙腺が緩む。すぐに気づかれて、額にやさしい感触が降った。


「行こうか。身体が冷えている。すまない」

「ええ。ありがとう、大丈夫よ。強くなったもの。最近は熱を出すこともないわ」

「ユーフェミア」


 手を差し出されて、迷わず握る。

 王宮の奥でじっとしていた私を見つけてくれた。選んで、私がいいと望んでくれた。きっと簡単なことではないのに、手を伸ばしてくれた。ずっと一緒にいると約束してくれた。


 出口に向かう途中で立ち止まって振り返り、フロレンティーナの墓をじっと見つめた。アルベルトも足を止める。


 いるはずがないのに、姉がその顔を綻ばせて手を振っている気がした。一粒だけ涙がこぼれて、白い鈴蘭の花弁に吸い込まれていった。


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