マジョルカ断章 第五話
もしかしたら森を守る精霊たちは皆、悪魔の進入に怯え、天に帰ってしまったのかもしれない。この時間になっても、星や月が姿を現す気配はなかった。私は闇夜が嫌になり、そびえ立つ城壁を前にして大きなため息をついた。
「こんな時間にいったいどうしたんですか?」
城門の前でたむろう兵士たちは不安そうな私を見て、そう声をかけてきた。
「いえ、私は森の者ですが、今夜は城の人から招待を受けたんです。できれば、城の中に入れてもらえませんか」
それを聞いて、兵士たちは困ったような顔をつき合わせ相談を始めたが、しばらくして、「それではどうぞ。」と哀れみを含んだ声で許可を出してくれた。夜だから疑われてしまったのかもしれない。明日出直してくればよかったのか。私は多少の後悔を感じながら、城門をくぐった。
こんな時間では仕方ないが、城内はもう真っ暗だった。玄関を抜け、狭い通路を通り、広間に達すると、ようやくろうそくの明かりが目に入った。周辺の暗さから明かりが点いているのはここだけだと思われた。広間の長椅子にはバビとジャブーの姿が見えた。
「どうして一人で森に入ってきたんだ? あれほど城内でおとなしくしているように言ったろう?」
ジャブーは気持ちがようやく高貴な召使に戻ったらしく、バビに何か説教しているようだった。
「おじが、なかなか帰ってこないので心配したんです。悪魔にさらわれたんじゃないかって…」
バビはもうすっかりあの恐怖から開放されたようで、あまり反省の色を見せなかった。私が広間の入り口の方から姿を見せるとジャブーは客の存在があったことを思い出したらしく、すぐに振り向き、声をかけてきた。
「おお、よかった、来ていただけましたか。しかし、もうこんな時間ですから、皆に紹介するのは明日にいたしましょう。今夜はまずお休みになってください。すぐにお部屋にご案内いたしますので…」
ジャブーはそう挨拶すると、退屈し始めたバビを椅子から立たせ、その肩を支えながら奥のほうに向けて歩き出した。
「まず、このお荷物を部屋まで運んできてしまいますので、しばらくお待ちを。」
一度振り返り、微笑を浮かべて彼はそう言った。
「身体は? 身体は大丈夫だった?」
眠そうなバビに後ろからそう話しかけてみたが、彼女は照れくさそうに笑うだけで何も答えなかった。言うだけ損だった。人間なのだから、もっと言葉を使えばいいのに。
二人が連れ添って奥の部屋に消えてしまった後、私はこの大広間を眺め回してみた。中央にある茶色い柱のことは父に聞いていたから知っている。あれは時計というのだ。なんでも、中に入っている針の動きで現在の時刻が正確にわかるのだという。だが、父はかえって時に縛られることになるから、無いほうがいいとも言っていた。それもわかる気もする。毎日同じ時に同じことをするのは馬鹿げている。神経質で病的な人間たちが集って造ったのだろうから、この広間も夜になると何も見えなくなるほど暗くなってしまうはずだ。しかし、天井からはたくさんの燭台が吊られていた。そこから放たれる眩い閃光は、人間誰しもが持つ心の闇を自然と忘れさせた。ずいぶん不自然な造りになっているということだろう。ジャブーはバビを部屋においてから、再びこの広間に戻ってきた。
「さあ、お待たせしました。本当はお客様は全て奥にある客室にお通しするのですが、あなたは特別です。とっておきの部屋にご案内いたしましょう。ささ、こちらへ」
彼はそう言って、入り口から向かって右側にある狭い回廊へ入っていった。通路では我々の足音しか聞こえてこなかった。だから言うわけではないが、今この城内には、人はあまりいないような気がした。しばらく回廊を進むと、両側にいくつか木の扉が見えてきた。ジャブーは一番奥の部屋の扉に手をかけた。
「ここは客室というわけではないんです。ただ…」
彼はそう言ってから扉を開け、私に先に入るよう促した。中はずいぶん狭い空間だった。ただ、なにか奇妙な感じがした。部屋の中にはベッドが一つ、そして小さな木机と窓しかなかった。おそらく、昔、兵士の待機所として使われていたのだろう。そして、左側の壁にはぽつんと一枚、絵が掛けられていた。
「フィロの絵だ。」
私はそれを見て驚きの声をあげた。
「やはり、わかりますか? 城の住人の中にも『これは汚い絵だなあ。』などと愚かなことを言う者が多くいて困ってるんですよ。あなたのように、見る人が見れば一目でわかってしまうのでしょうが…」
ジャブーは頭を掻きながらそう話した。その絵は大きくて獰猛な黒い犬を描いたものだった。
「立派な犬ですね。これは番犬ですか?」
「ええ、そうです。昔はこの城にもたくさんの兵士がいたのですが、彼らが戦いなどで留守をしているときは、この番犬がしっかりと城門を守っていたのだそうです。」
ジャブーは得意げにそう説明してくれた。どうやら歴史が彼の得意分野らしい。絵の中の番犬は今でもしっかりと目を見開き、外の世界を睨みつけていた。その迫力に威圧されてしまいそうになったので話題を変えることにした。
「父は、父はこの絵を見てなんと言っていましたか?」
「え? ええ……」
ジャブーはこの質問に不意を突かれたようだった。
「さ、さあ…、わかりませんねえ。彼はなんと言ったでしょうか…。もしかしたら、見ていないかもしれませんし…。」
父がこんな立派な絵を見過ごしているわけがない。この男はいったい何を言っているのだろうか。
「それでは、ごゆっくりお休みになってください。明日はもっと素晴らしい絵をご覧にいれますので…。」
彼は私を安心させるようにそう言って、この部屋から立ち去った。私は一人になると、飛びつくようにベッドに倒れこんだ。柔らかい布団で寝るのは初めてなので嬉しかった。普段は丸太を併せて作った堅いベッドで寝るので、こんなに力を抜けることはない。横になってから、もう一度、壁にいる番犬を見つめてみた。大きな目、鋭い歯、頑丈そうな肉付きは人間のみならず、全ての生き物を畏怖させるであろう。
先程のジャブーの態度から、ふと、なにかを思いつき、立ち上がって壁の方に歩み寄り、番犬の絵を裏返してみた。額の中央には雑に描かれたフィロのサインと、この絵が描かれた年月日が刻んであった。もちろん今から二百年以上も前の日付だ。一度目を離そうとしたのだが、よく見てみると、サインの下に注意深く見なければ読み取れないほどの小文字で『人間たちへ、これを贈る』と書かれていた。
その意味はわからないが、悪意を感じなかったので、私は安心してベッドに戻ると、再び横になって目をつぶった。しかし、暗闇の中、壁の方からただならぬ気配を感じ、無意識に身体が寝返りをうっていた。
前夜の疲れからか、翌日目を覚ましましたのは、太陽が天空の中央付近まで昇ってしまってからだった。窓から見える森の景色は普段通りで、まさに平和そのものだった。この森には悪魔など住んでいないと断言したくなるほどだった。壁に佇む番犬も昨夜に比べると威厳を無くしたようにさえ見えた。そうだ、闇夜は目に映る全てのものを獰猛に変える。森が平静に戻ったのではなく、私が太陽の光に安心しているだけなのかもしれない。
ようやく意識がしっかりしてきた。私は寝室から出ると、寝過ごしてしまったかと、少し慌てて廊下を抜け、広間へと至った。そこで不意にお盆と食器類を持ったジャブーとすれ違った。どうやらこれから食事を各部屋に運ぶところらしい。
「おお、これは、これは、おはようございます。少々お待ちを…。」
彼はそう言い残して広間の奥に消えていった。城の中では相変わらず忙しそうだった。この上、私の相手までしなくてはならないのだから大変だろう。その後気がついたのだが、昨晩と打って変わって広間には多くの見慣れぬ人間たちがいた。皆派手な衣装で着飾っていた。あんな格好では動きにくいだけなのに。しかし、私はもう人間たちの批判はやめることにした。ここには味方は誰もいないからだ。
広間の入り口の方から同じような格好をした来訪者が次々と現れるところを見ると、どうやら彼らは城の人間ではないらしい。彼らの方も突如姿を現した私のことが気にかかるらしく、こちらの方を指差して話題にし始めたようだ。居心地悪く、私が広間の隅のほうでうろうろしていると、ジャブーが奥の方から戻ってきて、声をかけてきた。
「やあ、どうですか? 昨夜はよく眠れましたか?」
「ええ、少し眠りすぎてしまいました。しかし、すごいですね。今日はパーティーでもあるんですか?」
私は広間の来客たちを指してそう尋ねてみた。
「察しがいいですねえ。しかし、あなたにとっても関係のない話ではないんですよ。この城では月に一度、絵の展覧会があるのです。」
「フィロの絵の?」
「そうそう、まあ、その通りです。この城にはフィロ以外の画家の絵も多々あるのですが……、まあ、そうですな、ここにいるお客様のほとんどはフィロの絵が目的でしょう。」
ジャブーはうまく言葉を選んでそう説明してくれた。
「そうですか……。この城を訪れれば、誰でもフィロの絵を見ることができるんですか。それは良いことですねえ。」
私はすっかり感心してそのように言った。
「今日見ることができるのは、この一階にある絵画だけなんですが、明日の夜には、地下に保管されている『水の世界』を観賞することになっています。あなたもご一緒していただけますね?」
「私が? 私も『水の世界』を見ていいんですか?」
「もちろんです。王もお許しくださるでしょう。なにせ、あの絵の価値を一番良く知っているのは、あなたたち森の民なんですから。」
まさかこんなに早くフィロの最高傑作『水の世界』をこの目で見ることになろうとは思わなかった。
「おまえが人間たちの城へ行く必要はほとんどないだろうが、フィロの『水の世界』は本当に凄い。もし、機会があれば、あの絵だけは見ておくといい。」
父がそう断言していたのを、今鮮明に思い出した。
「これから、お客様と大食堂にある絵画を鑑賞しながら、食事をとることになっています。あなたもご一緒にどうぞ。」
「そうですか、では、バビの問題を考えるのはその後にしましょうか。」
私はそう提案してみた。
「え? バビのことを? 本当にいいんですか?」
ジャブーは喜んでいるのか、それとも驚いているのかわからない不思議な反応を示した。
「そのために私をここへ呼んだのでしょう? まあ、フィロのことは父も相当頭を悩ませていたみたいですから、そんなにうまく解決するとは思えませんが、とにかくやってみます。協力をお願いしますよ。」
「いやあ、それはありがたいことです。本当によろしくお願いします。」
ジャブーは感慨深くそう言うと、深々と頭を下げた。
我々がそんな話をしていると、広間の奥の扉が開き、黒い立派な衣装に身を包んだ、中年の男性が姿を現した。おかげで、広間の来客たちの視線はようやく私から逸れ、代わりにその男に強くそそがれた。そして、次の瞬間には、広間が揺れるような大きな歓声が沸いた。
「彼がブロートン王です。ここの城主です。」
ジャブーは私にそう耳打ちした。
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