マジョルカ断章 第四話
悪魔の生み出すキキーという不気味な声が聞こえてきた。彼らの至福の瞬間だ。その声に私は無性に腹が立った。元はバビやジャブーと同じ人間でありながら、あのようなあざけり笑いを発する悪魔への嫌悪だろう。気がつかないうちに、私はこぶしを握り締め、一本道の途中まで踏み出していた。なぜだろう、彼らを助けるつもりなど少しも無いのに。
ただ、理由も無く命を落とそうとしている生物が目の前にいて、その生物は自分と極めて近い性質で、そして先程まで一緒に雑談していただけなのに。それがなぜ気になるのかはわからないが、意味も無く彼らを見捨てるのもおかしい気がしてきた。冷静に見捨てるという行為は理性に頼っているのではなく、ただ臆病なだけではないのか。長い間、森の中で一人で暮らしているうちに、生物の運命に対してずいぶん冷たい見方をするようになってしまっていた。悪魔の動きは素早く、一匹が馬車の中に獲物の存在を確認すると、進入しようと再び動き始めた。
「ジャブー! 金具だ! 馬車の金具を外せ! 馬車と馬を放せ!」
ほとんど意識も無くそう叫んでいた。私が突然発した大声に驚いて、広場にいた動物たちは次々と茂みの中に飛び込んでいった。ジャブーは私の指示を聞いてもあたふたするばかりで全く対応できなかった。
「何をやってるんだ! ジャブー! 早く金具を外せ! 馬を走らせろ!」
私は次にそう叫んだとき、すでに馬車に向け走り出していた。こんなことをしても我々が助かるという確信はなかった。ただ、自分が食い殺される気もしなかった。必死で何も考えられなかっただけかもしれない。馬車までたどり着くと、私は役立たずな召使を突き飛ばした。そして、馬車の中央部でしゃがみこみ、接続部分を確認した。よくわからないが、何とかはずせそうだった。悪魔のことを気にしないようにと努めていたが、近くから恐ろしい気配を感じ、やはり気になった。悪魔たちもバビを襲う手を休め、突如現れた私のことを観察しているようだった。彼らも根は臆病だから、相手を敵だと認めるまではなかなか襲ってこれないのだ。しばらくがちゃがちゃと接続金具をいじっていると、うまく外れ、馬と馬車とを離すことができた。
それを確認してから、私が慌てて尻を叩くと、ヒヒーンと高らかに鳴き声を発し、一頭きりになった馬車馬は森の中央めがけて走り出した。今日一番の獲物を取り逃がすわけにいかず、悪魔たちはキキーと叫んで、それを追いかけていった。ジャブーは地べたに座り込んだまま、放心した様子でその光景を眺めていた。彼らが走り去ったあと、辺りの雰囲気が急速に良くなっていくのを感じた。やがて、馬車の窓から憔悴しきったバビが顔を出すと、ジャブーは何かを思い出したようにがばっと立ち上がった。
「大丈夫か! 怖かったろう?」
そう言って、彼はバビを抱き上げた。
「うん……、怖かった……。」
私の耳にも微かに彼女の声が届いた。外傷がないことを確かめると、「よかった。本当によかった。」と呟き、バビを抱きしめたままジャブーは泣き出した。ようやく安心したのか、バビも大声で泣き始めた。悠長にその様子を見つめているわけにもいかない。私はゆっくりと動き出し、ジャブーが乗ってきた馬を広場から連れてきて、それを馬車につないだ。その過程で、私は地面に人間の右腕が転がっているのを見つけた。やはり、馭者は逃げたのではなく、悪魔に襲われていたらしい。その横には羽が付いた立派な帽子が落ちていた。こんな派手な帽子をかぶっているから悪魔に目をつけられてしまったのだろう。私は馬車で抱き合っている二人に見つからぬようにそれを拾い上げ、藪の中に放り込んだ。
逃げていった馬車馬が多少気にはなったが、彼の足の速さなら、悪魔たちを振り切れるはずだ。
「さあ、奴らが戻ってくるといけないから、そろそろ城に戻りましょう。」
馬をつなぎ終わってから私はジャブーにそう声をかけた。
「おお、ほら、バビ、この人が私たちを助けてくれたんだよ。」
彼女にそうささやいたジャブーの目は先程までとずいぶん変わっていた。
バビは軽く頭を下げ、口を少し動かしていたが、声は出ていなかった。
「ぜひ、城に来て頂きたいんです。フィロの問題であなたの手を煩わせるつもりはありません。ただ、お礼がしたいんです。」
ジャブーは私の方に顔を突き出し、感情を込めながらそう言った。私は黙って頷いた。断じて人間たちの愛情に心を動かされたわけではない。フィロが人間たちを脅かす本当の理由を知りたかったのだ。それに父のこともある。
「来て下さるんですね? それはよかった。それで……、馬車に乗っていかれますか?」
私はその申し入れについては当然のように拒絶した。人間たちに心を許したわけではないからだ。
「そうですか……、それでは我々は一足先に城でお待ちしています。」
一応名残惜しそうにジャブーはそう言ってから、馬車を反転させて馬に鞭を入れた。馬は一頭だけになってしまったが、城の馬車はうまく動き出した。私も約束どおり、城に足を向けることにした。
「ねえ、何であの人は馬車に乗らないの?」
後部座席でバビがそう騒いでいるのが聞こえた。
「あの人は……、森の人だから、私たちと一緒にはいられないんだよ。」
ジャブーは言い聞かせるようにそう返答した。
苦しい説明だが、的は得ていると思った。それでは納得できないのか、バビは窓から顔を出し、私に向け手を振ってきた。私はそれに対しては特に反応は示さなかった。だが、バビは手を振るのをなかなかやめなかった。気が済まないようだったので、仕方なく少し手を振り返してやった。
それを見て、彼女は機嫌をよくしたようで、さらに大きく身体を揺らしながら手を振ってきた。
「バビ、落ちるといけないから、もうやめなさい。」
ジャブーがそう注意するのが聞こえた。
当然、馬車と徒歩で進む私との距離は次第に遠ざかり、私の目ではもう彼女の小さな身体が確認できなくなってきた。
バビもそう感じたのか、手を振るのをやめ、一度馬車の中に身体を引っ込めた。しかし、またすぐに姿を現すと、今度は何か白いものを手に持って振り始めた。あれはハンカチだろうか。彼女は私の目に届くように白いハンカチを取り出したらしい。広大な緑の中で、その純白はよく映えていた。
しかし、その美しさを楽しむ間もなく、その白いものは彼女の手を離れ、空中に舞い上がっていった。バビが手を放したのか、それとも放り投げたのかはわからなかった。真白なハンカチはしばらくの間、散歩を楽しむように空を舞っていたが、やがて、油絵の具で塗り込められたような壮大な深緑の中に吸い込まれていった。
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