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マジョルカ断章 第二話


 おもわず声に出してそう言ってしまった。自分で考えている以上に動揺していたらしい。家の前には豪華な馬がつないであった。そして、戸の前でうろうろしている男の姿が見えた。ジャブーだ。小太りなジャブーは不安そうな顔で、上空を見上げながら、目的もないように私の家の前をうろうろしていた。そのうちに、近寄ってくる私の姿を見つけ、慌てて駆け寄ってきた。


「いやあ、よかった、よかった。かなり待ったんですよ。あなたが留守なのは来てすぐにわかったんですが、ドアが少し開いていたので、入るに入れず困っていたんです。」


 彼は妙な作り笑いを浮かべながら、こちらに恩でも着せたいかのように、そう言った。この男は城の召使だ。年から年中、自分よりも上級の人間にだけぺこぺこ頭を下げていて、人間らしいと言ってしまえばそれまでだが、本当に情けない男だ。


「いったい、どうしたんですか? こんな時間に。」


 私の方からそう尋ねてやっても、彼はぐずぐずしていて、なかなか最初の言葉を言いたがらなかった。


「まあ、とりあえず、中に入ってはどうですか?」


 あの兵士と話した後だったので、彼がここに来た理由など、聞かなくともわかるのだが、私は一応そう言って、部屋のドアを大きく開けてやった。


「そうですか、すいません。それでは失礼します……。」


 彼はそう言って、何度も頭を下げてからようやく家の中へ入っていった。私も彼に続いて家に入ろうとしたのだが、そのとき、後方の木の枝で極楽鳥がギャワー、ギャウワーと叫んだ。


「これは悪魔が出たのかもしれないな。」


 私は一度振り返り、その言葉を残して家に入ると、ドアに厳重な鍵をかけた。ジャブーは部屋の中に入ってみても、なかなか恐怖が取れないらしく、時々身体をブルブルと振るわせた。彼自身も森の中で悪魔に出くわさないかと内心不安だったのだろう。しかし、そんなに怖いのだったら、こんな時間に森に入ってこなければよいのだ。彼がここに来た理由にそこまでの価値があるのかどうか、私には疑問だった。しかし、とりあえず話だけは聞いてみようと思っていた。


「今夜はずいぶん悪魔たちが森の中に入ってきてるみたいなんですよ。」

私はそう言って、彼の様子をうかがった。


 ジャブーは平静を装いながら、「いや、本当ですねえ、なにか、あちらこちらから、おかしな声が聞こえていましたからねえ……。襲われることはないだろうと思っていましたが、いや、それでも、かなり気を使いましたよ。なにしろ、やつらに襲われたら、私などあっという間に餌食になるでしょうから……。」などと、当たり前のことを淡々と喋った。実際には悪魔がジャブーに襲い掛かるなどということはありえない話で、私は苦笑した。


「城のほうで何かあったらしいですね?」

 私は予備知識からそう尋ねた。


「おっ、ご存知でしたか?」


「先ほど、警備兵から少し話を聞きました。」


「ああ、そうですか。あなたは森の警備兵のところへ行っていたんですか。それでいなかったんですね?」


 一度話し始めると、その口調は滑らかだった。これも人間の特徴だ。


「警備兵の方から話は聞いていると思いますが、バビの様子が最近だいぶおかしいのです。」


「ほお……、最近になって? どんな感じなのですか?」

私は自分も椅子に腰を落ち着けてから、そう促した。


「ええ、ええ、それが、夜になるとですねえ……。窓の外を眺めては怯えたり、泣き出したりするのです。我々にはどういうことなのか、さっぱりわからんのです。腕のいい医者に見せても、全く手がかりがみつからないのです。それで、こんな無茶をしてまで、あなたのところへ相談に来なくてはならなかったのです。」


「なるほど、昼間は何ともないんですか?」


「ええ、全く普通なんです。前の晩にひどく苦しんだとしても、次の日、太陽が昇ってしまえば、また、元気にはしゃぎだすのです。」


「ふむ、それで絵は? バビの部屋の中か、部屋の近くにフィロの絵はありますか?」


「それなんですがね……。」

 彼は深刻そうにそう言って、椅子を少し引きずって私の方に身を寄せた。


「いや、我々の方でもフィロの絵が彼女に悪影響を与えてるのではと、当初からバビの部屋の周りにある絵画を調べていたのですが、どうも、それらしきものが見つからんのですよ……。」


 彼はそう言ってから、ハンカチを取り出して、一度額を拭った。彼ら貴族たちの鑑識眼など全く信用していないが、私は一応、「ああ、そうでしたか……。」と頷いておいた。


「彼女は窓の外を見て、怯えるのでしょう? それでは部屋の中にある絵は関係ないですね。窓から他の絵は見えませんか?」


「バビの部屋の窓からは使わなくなった見張り塔が見えるだけで、他の建物もフィロの絵も全く見えませんよ。」


「そうなんですか……。」


 私はそう言いつつ、こんな下級貴族と話を盛り上げてしまっている自分に少し腹が立ってきた。もちろん、関係ない幼子の厄介な問題をふっかけてくる眼の前の愚男に苛立ってきたのも事実だ。私はしばらくの間、こつこつと右足のかかとで床を鳴らしていたが、一度、思考を止め、「まあ、しかし、バビの芸術に対する感性が育ってきたということではないですか? 彼女がフィロの絵の影響を受けて苦しんでいるとしたらですけど。」と、問題の視点を少し変えて、話しかけてみた。


「冗談じゃないですよ。そんなことでは困ります。王様もお后様もバビの容態が早く良くならないかと、毎日気を揉んでいるんですよ。」


 ジャブーは私の発言に敏感に反応し、少し機嫌を害したようだった。しかし、彼はすぐに声の質を元に戻し、「どうです? あなたは絵がお分かりになる。一度、城の方へ来ていただけませんか? そうすれば、バビの問題も解決するかもしれませんし。」などと、尋ねてきた。


 ついにこの話が出てきたかと内心困惑したが、私は毅然とした態度で、「いや、そういうわけにはいかないのですよ。私はこの家や森を守らなければいけないわけですし、城の問題ですからね、それは……。」と、しっかり拒絶した。しかし、ジャブーも簡単には引き下がらなかった。


「でも、あなたのお父さんが城内部のフィロの絵の配置を決めたのですよ。バビがフィロに悩まされているとすれば、あなたもあながち関係ないとは言い切れませんでしょう?」


「父の絵を観る力はあなた方の比ではないし、少女が一人泣いているぐらいで、父のことを引き合いに出すのは少々失礼ではないですか?」


 彼の言葉に気分を悪くした私は強い言葉でそう言い返した。


「ああ、これは失礼しました。しかし、我々はこの問題で本当に悩んでいますし……、そうだ、王様もあなたに会いたいと、たしかそう言われてましたよ。私は王の命でここに来たわけではないのですが。」彼はそう釈明した。


「それに、本当にこれがフィロのせいだとしたら、私なんかが城に行ったところで何の役にも立ちませんよ。解決したとしても、私に助けられたとなれば、かえって後味が悪くなるでしょう? 人間の力だけで解決された方がよろしいのでは?」


「そうですか……。まあ、そうですよね。あなたは悪魔からこの家を守らなければならないわけですし……。」


 彼はそう言って、ようやくあきらめがついたようだった。しかし、この問題で頭を痛めているというのは本当らしく、しばらくの間、彼は頭に手を当てたまま、動かなくなった。これからの善後策を検討しているのかもしれない。私は飲み物でも出してやろうかと立ち上がってみたが、ふいに彼が喋りだしたので、再び椅子に腰を降ろさなければならなくなった。


「しかし……、なぜに今ごろになって……、フィロの絵がこんなことを……。」

 彼は小声でそう言ったようだった。


「フィロは人間を相当恨んでいるんじゃないですか?」

 私は好奇心から、そんな言葉を投げかけてみた。


「フィロが我々を? なぜですか? なぜ急にそんな……?」

ジャブーは私の一言で相当にうろたえてしまった。


「父に聞いた話ですが、あなたたちの先祖は長い間フィロを城の地下に幽閉していたらしいじゃないですか。」


 「はて、たしかにフィロは長い期間、我々の城で絵を描いて暮らしていたようですが、そんな、我々王家の人間が彼のような優れた人間を閉じ込めておくようなことをするわけがないですよ。だいたい、なぜあなたのお父さんがそんなことを知っていらっしゃるのですか?」


 彼は頭に血をのぼらせながらそう言った。かなり混乱してしまっているようだったので、本当にその事実を知らないのかもしれない。


「フィロの絵からは強い怨念が感じられるんです。それで、父はフィロが人間に恨みを持っていたのだと思ったのかもしれない。」


 そう言ってやると、ジャブーは罪悪感から開放され、少し安心したようだった。


「それでは、あなたのお父さんの思い違いですね。我々は今でもフィロのことを尊敬しているのです。恨まれるわけがない。」


 彼は話をそう締めくくった。しかし、我ら親子だけでなく、人間たちをも心服させてしまうフィロの才能の凄さには改めて驚かされる。フィロとはいったいどのような人物だったのだろうか。今となってはかなわぬ願いだが、一度でいいからお会いしてみたい。城の愚かな召使と話しているうちに、私は真剣にそう思うようになっていた。ジャブーも言いたいことをほとんど言い尽くしたようで、私たちの会話に時々間が空くようになっていた。


「どうですか? フィロの絵を一度まとめて、城の地下にでも封印してしまうというのは。」

 私は彼を追い返すために、そう言って、この話を終わらせようとした。


「いや、それはだめですよ。いくらあなたからの助言でもそればっかりはできません。フィロの絵は我々にとってかけがえのないものです。数々の名画から力を得ているのです。それにですねえ、今度のバビのことにしても、一時だけのことだとは思うんですよ。そこまでする必要は無いでしょう。」


 召使は少し意地悪そうな顔になって、私の申し出を即座に拒否した。本性が出てきたか。彼の心の中には、バビに対する温情よりも、私への疑念や、秘宝への執着心が渦巻いているのだろう。これだから、人間は嫌になる。 


「それでは、そろそろお帰りになったほうがいいでしょう。バビも城で待っていますよ。」

 私は、この男と話すことも無くなったと思い、そう言ってやった。


 しかし、ジャブーはそんな私の言葉を聞くと、ここへ来たときのように落ち着きなく部屋の中をふらふら歩き回り始めた。まだ何か言いたいことがあるのだろうか。私は興味深く彼の微妙な行動を目で追った。


「あの……、なぜ、あなたのお父さんは城に残らなかったのですか?」

 ふと足を止め、顔を下に向けたまま、ジャブーは小声でそう言った。


「さあ……、城の勤務が身体に堪えてきたからではないですか。いずれにしても、彼のことはもう私にもわからないのです。」


 相当に機嫌が悪くなっていたので、それしか答えなかった。父は私がまだ幼い頃、城に寝泊りして、警備に勤めていた。城内部の警備だと言っていたが、実際は城にあるフィロの絵を見張っていたのかもしれない。そして、何日かに一度、この家へ戻ってきて、城の人間たちについて詳しく話してくれた。

私の現在の貴族に対する知識も、ほとんどがこの時期に父から聞いたものだ。なぜなら、私は未だ彼らの城を訪れたことが無いのだから。ある日、父は突然家に帰ってきて、それきり、城に出かけることはしなくなった。不思議に思って、私が尋ねてみると、父は「人間と悪魔の区別が次第につかなくなってきた。」と答えたきりだった。父は悪魔たちを恐れていたし、私と同様にあまり人間が好きではなかった。


 しかし、それならなぜ、人間たちのために城で長期間働いていたのだろうか。この難しい問いに対する解答を私は未だ出せずにいる。今またそんなことを思い出してしまったが、それを目の前の男に話してやるつもりはない。


 「そうそう、たしか、あなたのお父さんは城からフィロの絵を一枚持ち帰っていますよねえ。」

 ジャブーが突然吐いたそんな言葉に私は驚いた。


「え? ええ、あれはもともと森で描かれたものですし、城で長い間働いた褒美として、王様が我々にくださったんです。」


「そうなんですか……。それはまだこの家にあるんですか?」

 召使は少しいやらしい目つきになって、部屋の中を見回した。


 まさかこの男はフィロの絵を取り戻すために来たのだろうか。これまで気楽に話していた私は急に不安になった。父が死んだ今となっては、あの絵を所有する正当な理由が私にはもうあまりなかったからだ。


「あ、あれはフィロがこの森の平穏を願って描いたものですし、あれがないと我々は困るんです。」

 私はすっかり動揺してしまっていた。


「いえいえ、そのことを咎めてるわけではないのです。ただ、城の外にあるフィロの作品というのは非常に枚数が少ないのです。ですから、その……、ぜひ確認しておきたいと思いまして・・・。」言いづらそうに召使はそう言った。


「ああ、そうなんですか。フィロの絵は悪魔たちに見つからないよう、奥の部屋にしまってあるんです。見てみますか?」


  私は少し安堵してそう答えた。ジャブーの機嫌を損ねてしまうと城の王になんと報告されるかわかったものではないので、了承するほかなかった。


「え? 本当にいいんですか? ぜひ、お願いしますよ。」

 ジャブーはかつてない笑顔を見せ、上機嫌になったようだ。


 私は立ち上がり、隣の部屋に入ると、一番奥の戸棚の中にたたずむ古い木箱を開けた。はじめは居間に飾っておいたのだが、父の死後、悪魔や人間たちに奪われることを恐れて、私がここに移したのだ。

これは失ってはならない宝物だ。今となってはこの一枚の絵のために、私の家が存在するといっても過言ではない。手を震わせながら、恐る恐る箱の中の絵を持ち上げると、私はそれを慎重に居間まで運んだ。私がフィロの絵を持って現れると、ジャブーは絶叫した。


「これは素晴らしい! なんと! このような辺境にこんなものがあるとは! いやはや、聞きしに勝るものです。感動しました!」


 彼は目を大きく見開いたまま喋り続けた。


「なるほど、これはマジョルカの森を描いたものなんですね。この森の壮大さ、静寂さがよく描けている。」


「いい絵でしょう。これがフィロの『大森林』です。」

 私は少し誇らしくなってそう言った。


「これはフィロの絶頂期の頃の作品ですよ。なにしろ、彼がまだ旅行者であったときのものですから。」


 フィロは若い頃、世界中を放浪して絵を描いており、彼の作品の中でもその頃の物が一番優れているというのは有名な話だ。


「色合いが……、この色彩が素晴らしい……。」


 ジャブーはそんな私の解説を無視して、その絵に見入っていた。彼は時々絵のあちこちを指差しながら、色具合や構図の正確さをいちいち確認しているようだった。かつて幾人もの貴族がこの家に父を訪れ、フィロの絵を見て、今のジャブーと同じような反応を示したものだ。


「城にもこういう美しい絵がたくさんあるのですか?」


 私は調子に乗って、思わずそんな言葉を口にしていた。待っていましたとばかりにジャブーが振り返った。


「ほお、やはり、あなたもフィロの絵にかなり興味があるようですねえ。まあ、あの方のお子さんですからね。当然でしょう。どうですか? 今度のバビの問題を解決していただければ、同時に城に残っているフィロの絵をあなたにお見せすることができると思いますが……。」


「フィロの絵を? 私にも見せていただけるんですか?」


 言いづらかった本音をつい漏らしてしまった。すっかり乗り気になった私を見て、ジャブーも目を細め、満足そうに何度か頷いた。私も一度は本気で城に行くつもりになったが、すぐに考えを改めた。


「いや、少し待ってください。やはり、まずいようです……。我々の一族はそんなに簡単にこの森から外に出てはいけないことになっているのです。いくらフィロのためでも……。」


 父の教えを思い出し、今度は私が考え込むことになってしまった。人間の城を訪れるかどうかにこれほど迷っている自分が情けなかった。しかし、やはり簡単に考えを改めるのは難しいようだった。そうだ、こんな男の安易な言葉を信じて、のこのこと城までついていっても、かえって恥をかくだけかもしれない。傲慢な城の貴族たちが私などのためにフィロの絵を用意してくれるとも思えなかった。行くのはやめておこう。私はそう決心し、拒否の言葉をジャブーに伝えようとした。その瞬間、ザバーという轟音とともに、窓の外の木枝が激しく揺れた。何匹もの怯えた鳥たちがけたたましい泣き声を発して、家の前を過ぎていった。


「ここまで来たのか?」


 この現象が何を意味するのか、私はわかっていたので、そう叫び、慌てて天井に釣られているロウソクの炎を吹き消した。               


「これは何事ですか!? なぜ、明かりを消してしまうのですか?」


 ジャブーは完全に錯乱し、白髪頭を掻きむしりながら、そうわめいた。私は黙って彼の上着を引いて床にしゃがませ、両手で口を塞いだ。そうして、再び外に気を向けてみると、一転して家の周囲は静寂に包まれていた。ジャブーはここまでされても、まだ、どういう状況なのか把握できていないらしく、必死の形相で私の手を払いのけようとしていた。ここでこの男に騒がれてしまっては私まで命の危機にさらされてしまう。そこで私は彼の顔を窓の方へ向け、外でなにが起きているのかを教えようと思った。


  しばらく静かだった森から、やがて、何かを引きずるような聞きなれぬ音が響いてきた。


「おうーい、おうい、おうーい。」


 そんな不気味な声も聞こえた。ようやくジャブーも悪魔の到来に気づいたらしく、小さくうめき声を漏らした。彼がこの切迫した事態を理解してくれたことに一応安堵したが、もちろん、そう喜んではいられない。かつてこの家がここまで悪魔どもの接近を許したことはなかった。なぜ、こんな奥地まで入り込んできたのだろうか。しかし、そんな悠長なことを考えている余裕もないようだった。


 窓の外のずずずぅという音はゆっくりと近づいてくると、私の家の前で一度止まった。そして、今度はこんこんとドアを叩く音がした。言われなければ気がつかないほどの微音だったが、私は過去の経験から、今が一番危険なときだと知っており、床にひざまずいたまま息を押し殺した。ところが、あろうことか、しばらくおとなしくしていたジャブーが口を塞いでいた私の手を払いのけ、また暴れだした。


「おい、静かにしろ! 死にたいのか?」

 小声でそう言ったのだが、思わず命令口調になってしまった。


「違うんです。外に、外に私の馬がいるんです。あれは王から拝領したものです。ここで失うわけにはいかない。」


 この男は正気でそんなことを言っているのだろうか。私は耳を疑いたくなった。しかし、ジャブーはついに私の腕を振りほどくと、そのままドアへと走り寄っていった。それと同時に、ドアの外から、あの暗い声がまた聞こえてきた。それはまるで地の底から這い出してきたような声だった。


「すいません、中に誰かいらっしゃいますか? なにか温かい物をいただけますか? 助けていただけませんか? お願いします……。なにか温かい物を……。」


 ジャブーはその声を聞き、ドアの取っ手から反射的に手を離し、後ずさりして、あっという間に私のところまで戻ってきた。人間ごときではこの恐怖に耐えられないのだろう。しかし、私も家の外に彼の馬がいることを忘れていた。早いうちに家の中に入れてしまえばよかった。かわいそうだが、今となってはあれが悪魔たちに襲われてしまうのは仕方ない。ただ、このままでは中にいる我々の存在を教えているようなものだ。どうしたものだろうか。


「すいません……。温かい物をいただけませんか……。城にも行ってみたのですが、断られてしまったのです。どうか、温かい食べ物を……。」


 ドアの外からは再びそんな声が聞こえてきたが、我々はただ沈黙を守った。おそらく、旅の途中で食料が尽き、城に助けを求めたがむげに断られてしまい、そのままこの森で飢えて死んでいった旅行者の幻影だろう。悪魔の中ではそれほど危険な存在ではないが、それでも関わりを持つわけにはいかない。近くに他の仲間がいるかもしれないからだ。恐怖と緊張のあまり、どのくらいの時間が経過したか把握していなかったが、しばらくすると、外の悪魔はドアを叩くのをやめた。そのかわりにかすかな話し声が響いてきた。どうやら複数いるらしかった。ジャブーはその話し声が悪魔たちのものだとわかると、心底怯え、自分で両耳を塞いでしまった。私は彼らの会話を聞いておこうと思い、ドアまで忍び寄ってぴたりと耳をつけた。外からはぼそぼそと小さな声が聞こえてきたが、やがてそれも途絶えた。

ここまで読んで頂きまして、誠にありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします

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