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マジョルカ断章 第十五話(完結)


 広間に降り立ってみると、このまま外へ出ることが少し不安になり、一度足を止めた。このまま城門をこじ開けて外へ出るまではいいが、あの塔までうまく辿り着けるだろうか。それに昨日見た感じでは塔の入口の扉には堅く封印が施されていた。中に入ることはできるだろうか。それと、私は心のどこかで、塔に通じる道の途中でフィロと出会ってしまうことを恐れていた。やはり、彼はこの世界に存在するのだろうか。しかし、考えてみると、ここは異世界なのだから、少しぐらい、こちらの好きなように動いてしまっても構わないとも思える。広間の悪しき雰囲気は先程までと全く変わりなかったが、私は城門に向かって再び足を動かした。恐怖はもちろんあるが、バビのあの様子では、一刻の猶予もないようだし、王やジャブーなどから、あれだけの期待を受けているのだから、人間たちの都合どおりに働いてやらなければならないという思いがあったからだ。


 よどんだ空気を裂いて進み、城門に着くと、一度手袋を外し、内側の銀色のレバーを握って左側に回した。この辺りの仕組みは現実世界と変わらなかった。少し力を込めて押してみると、城門はこちらの思い通りに開いてくれた。


 城の外へ踏み出してみると、雷雨は自分が思っていたよりも激しく、風に顔を押され、うまく息がつけないほどだった。上空を見上げると、黒雲と白雲が混ざり合い、ぶつかり合い、複雑で巨大な渦を形成していた。この国の人間が普通に暮らしていれば、こんな天候に出会うはずがない。これは、この時代の人間たちが、いかに神に背を向けるような無法な行為を繰り返し行っていたかを証明する現象だった。また、神々がそれら人間の行いを全く許していなかったことも明白だった。私は自分が今そんな世界にいることをこの上なく恐ろしく思った。


 何歩も歩かぬうちに、私の身体は頭から足までずぶ濡れになった。やはり、森の民だからと区別してはくれないらしい。偉大な神によって振り下ろされた人間たちへの鉄槌は容赦なく身体を打ちつけ、私は身動き一つできなくなった。一度顔を上げ、目を凝らしてみると、木々の影が見えた。城門の前方にはこの時代にもやはり広大な森が実在するのだった。あの中に分け入っていけば仲間たちに会えるかもしれないが、それはこの激しい風雨と、この世界を支配しているはずの天才画家が許さないだろう。私は進路を変え、城の右側に存在するはずの庭園に向かった。いや、水しぶきで進路がまったく見えないのだから、向かっているはずだと言う方が正しいだろう。普通に足をあげて歩もうとすると、すぐにこの暴風で身体が不安定になり、押し戻されてしまう。両足を地面と擦るようにしながら、かろうじて一歩また一歩と身体を前方に進めた。


 長い時間経っても、私は城門のすぐそばにいたが、それは致し方ないことであり、とにかく自分は見張塔の方向に向かっているのだと、心中で真剣に念じることが大事なのだと思っていた。十数歩も歩かぬうちに、私の左手の甲は鉄棒で打ちつけられたかのように赤く腫れ上がってしまっていた。先程、城門を開けるときに左手の手袋を外してしまったためだ。左手は冷たく、また強烈な痛みを伴っていたが、しばらくすると感覚も消え、何も感じなくなった。あまりの風雨の強さに呼吸が困難になる時があり、手や顔の痛みなどよりそれが辛かった。森に長年ひとりで住んでいるが、これほど苦しい体験をしたことはなかった。これだけの時間をかけて、ようやく私は城の両脇に生えている草地に足を踏み込んだ。


 現実世界での経験では、ここから庭園まではあまり離れていなかったはずだ。しかしそのとき、ようやくこの暴風雨に慣れてきたのか、私の両耳の器官が後方から聞きなれぬ音を取り込んだ。一度立ち止まり、耳を澄ませてみると、響き渡る轟音の中、確かに不可解な音が聞こえた。足音のようだったが、周辺には私の他に誰もいるわけがなく、すぐには信じられなかった。しかし、今度ははっきりと重い足音がずしんずしんと耳に届いてきた。その足音は幾つも重なって聞こえるため、向かってくる相手は集団であると思われた。全く信じられないことだが、何者かが群れをなして、この城から、今出て行こうとしているのだ。いったい、何者だろうか。フィロの怨念がこの壮大な幻覚の中にまた新たな幻影を生み出したのだろうか。


 その足音は私の背後まで急激に迫ってきたかと思うと、そこで速度を落としたようだった。城門から抜け出る一本道の途中で私が立ち往生しているため、彼らはここを通れないのだ。左右のどちらかへとどいてやりたかったが、この最悪の状況下では道脇に身を寄せることなどできそうになかった。なにしろ、地面に倒れないように持ちこたえているだけでも大変な苦労なのだから。背後の足音はついにぴたりと止んでしまった。声こそ聞こえてこないが、背後で立ち止まっている者たちの脅迫にも似た息遣いが聞こえてくるようで、なんとも気分が悪かった。仕方ないので、私は自分の身体をいったん横に倒すことにした。それならば、短時間でうまくできそうだ。今までは風に押し戻されないように、両足の筋肉に力を入れていたが、一度それを解いてみた。すると、突風にあおられ、私の身体はあえなく地面に押し倒された。


 普段なら下は土と砂だが、今はもう、かなりの水が溜まってしまっているため、倒れた拍子に私の顔にはずいぶんと水しぶきがかかったが、すでに身体中が濡れてしまっているこの状況下では、さほど気にもならなかった。私の気配が前方から消えたのを感じ取ったのか、後方で待機していた足音の主たちは、私の身体を次々と乗り越え、通り過ぎていってしまった。私は少し身体を捻じ曲げ、彼らの方向へ視線を向けた。やはり、正体は古代の兵士隊だった。王や貴族に金で雇われた哀れな兵士たちが、異国での戦いのためにこれから旅立つところなのだろう。どんな思いで戦地へ赴くのか、それを誰にも悟られないために、兵士たちはあんなにも分厚い鉛の鎧を着込んでいるのだ。引き止めてやりたかったが、道端に倒れ伏しているこの状態ではどうすることもできず、黙って見送るしかなかった。兵士たちの中には、私のことを気にかけた者はいなかったようだ。あるいは見えていなかっただけなのかもしれないが。


 彼らが森の中に歩み去り、その姿が完全に見えなくなってしまうと、風雨が少し弱まったような気がした。この雷雨によって示された神々の怒りは、あの兵士たちに向けられたものだったのかもしれない。本来ならばその罰は、戦いを何よりも好む城の貴族たちに向けられるべきなのだ。そんなことを熟慮して立ち止まっている時間はなかった。私は両脚に再び力を込め、立ち上がると、身体についた泥を払いのける時間も惜しみ、そのまま草地を伝い、見張り塔が存在するはずの庭園へと向かった。雨はだいぶ弱まったようだが、雷の勢いは依然として強く、断続的な稲光が何度となく私の身体を暗闇の中に浮かばせた。この光を利用して、こちらの様子をうかがっている者がいるのかもしれない。朦朧とする意識の中、しばらくの間、顔を下に伏せたまま、ただ黙々と緑の上を歩いていった。


 すると、不意に視界の先の地面の上に、大きな赤い斑点が映った。初めは土の色だろうと思った。その物を視界の中央でとらえられるように首を動かしてみた。それを見た瞬間、心ではなく、身体が勝手に反応して、一歩後ずさった。それは先程、バビの部屋から見せられた番犬の遺骸の実物だった。こんなところに転がっていようとは思わなかった。肉から完全に引き剥がされた黒い皮の上に、骨と血と内臓が無造作に並べられていた。画で見たときは恐怖だけを感じたが、実物からはその恐怖を超越した苦しみと惨さがひたひたと伝わってきて、なんとも痛々しかった。昨晩の夕食のとき、これとよく似た盛り付けをされた牛の丸焼きが出ていたのを思い出し、なおいっそう気分が悪くなった。フィロはこの死体を見せつけるために、我々三人をこの世界に導いたのではないだろうか。もし、そうだとすれば、あの天才が犬の死体一つになぜそこまで執着するのだろうか。このときの私にはそれがわからなかった。


 それを考えている間、私の眼はずっとその遺体に釘付けになっていた。しばらく考え、人間でも動物でも遺体は地面に帰してやるのが正当であろうと私は思い至った。あるいは、フィロもそれを望んでいるのかもしれない。だが、口を大きく引き裂かれ、眼球が顔から転がり出たその姿を見ているうちに、触れてしまうと、自分もなんらかの害を受けるような気がして恐ろしくなり、やはり、遺体には触れずにその場を離れることに決めた。


 どのくらいの時間、犬の死体の傍にいたのかは記憶していない。ただ、顔を上げてみると、雨はまた少し弱くなっていた。そうして視界が開けてくると、右方には大森林が、そして前方には庭園になる以前の城外の荒涼とした景色が映った。そして、見覚えのある煉瓦造りの塔の姿は、思ったよりも自分の近くまで迫っていた。その塔が突然眼前に姿を現したことよりも、塔の入り口の扉が開け放たれていたことに私は驚き、そして注意を引かれた。昨日、現実の世界で訪れたときは堅く封印されていたので、そのことが印象に残っていたのだろう。私は視線を塔の上方へと移した。雨が弱まってきていたので、塔の頂上まで見通せるようになっていた。塔の三階には三つの大きな窓があり、そのうち一つは完全に開いているのがわかった。その開いた窓の内側からは、黒い人影がこちらを見下ろしていた。私はそれに気がついて足を止めた。


 ちょうどその時、森の中央の方にまた雷が落ちた。雷光によって窓の内側が照らされたのは、ほんの一瞬であったが、私には時が止まったかのように感じられ、今度ははっきりとその男の姿をこの眼で捉えることができた。先ほどは、その長い顎ひげから老人ではないかと錯覚してしまっていたが、こうしてよく見ると、彼はずいぶんと若かった。フィロは眼を吊り上げ、厳しい表情でこちらを睨んでいた。しかし、なぜか恨みを持つ人間の顔には見えなかった。何かを哀れんでいるような印象をうけた。もちろん、その視線は悲痛な番犬の遺体か、あるいは死地へと赴いていった哀れな兵士たちに向けられたものに違いなかった。先ほど出会ったときにも考えたのだが、彼は私の存在に気がついているのだろうか。気がついているとしたら、これからどうする気だろう? この世界から追い払う気なのか、それとも何かを伝えようとしているのか。


 足元の犬の死骸にもう一度目を向けてみた。敵の目的がある程度明らかになった今、それはもう怖いものではなかった。もう一度、塔の最上部へと視線を戻したが、すでにフィロの姿は見えなくなっていた。雨はいっそう小降りになっていた。だが、髪をつたってきた水滴が眼に入り視界に霞がかかった。一度それを手で拭った。黒い雲たちの動きは非常に速く、時折、月光が地上に届く瞬間があった。私は一度灰色の空を見上げ、神聖な月の光を全身に浴びると、意を決し、彼の姿を追って塔の入り口へと迫った。


 鉄製の扉は開け放たれたままになっていたが、内部は恐ろしいほどに暗く、外からでは内部の様子は全くうかがい知れなかった。身をかがめ、内を覗いてみたが、闇夜に慣れたはずの眼でも、何も捉えることができなかった。右足から一歩踏み込んだ。怖くないといえば嘘になる。前方が何も見えない闇の中を、何も持たずに歩んでいくことを考えれば、森の中で悪魔や兵士たちに出会うことなど、それほど恐ろしい体験にはならないのかも知れない。今宵これだけの経験をしてみて、ようやく気がついたのだが、悪魔も兵士たちも実はただ哀れなだけだ。彼らを殺す必要はないと説いた父の言葉が、こんな状況になってようやく理解できたような気がする。


 塔の三階に目的の人物がいることがわかり、焦る気持ちはあったが、慌てて進み、敵の罠にはまるようなことだけは避けたいと思った。目が慣れてくるまで、入り口近くで待つことにした。私は床にそっと腰を降ろした。まるで氷の上に座っているかのような非情な冷たさを感じた。長い間、放置されたままになっていると、床や壁も感情を失っていくのだなと、その現象を理解した。


 やがて、いくらか時間が経過すると、闇の中から螺旋状の階段が姿を現した。私が思っていたよりもずいぶんこのフロアは狭かった。人間の大人なら、七、八人も入れば身動き一つできなくなるだろう。

このフロアには階段の他は何もなかった。昨日も考えたことだが、この塔は使途が不明なのだ。何者かを見張るために造られたのか、それとも何かをしまっておくために建てられたのか、この段階でも私にはわからなかった。一段、また一段と、足元を確かめるようにして私は慎重に階段を昇った。二階も造りは先ほどのフロアとなんら変わらなかった。ただ、暗さは増したように感じた。


 そうだ、一階にも、この二階のフロアにも窓がついていないのだ。だから、全く光は入らず、外の様子を知ることもできない。この狭さに、この暗さ、そしてこの寒さ、ここには人間の焦燥感を募らせる条件が揃っている。私はこのとき初めて、この施設が何者かを閉じ込めるために造られたものだと思い至った。これは先時代に建てられた牢屋なのだろう。そして、見張塔という名の意味もこのときになってようやく理解できた。フィロは今から百年前、何らかの理由でこの塔に幽閉されていたのだ。そして、ある夜、この塔の三階の窓から、人間たちに見捨てられたあの番犬が、襲来してきた悪魔たちに食い殺される様を見て、傲慢な貴族たちに警告するためにあの絵を描いたのだろう。そして、あの絵が発する強烈な波動は現世に生きる者にまで作用するのだ。古代の偉人の思考を読み取ることができた達成感からか、私は身震いした。


 螺旋状の階段はさらに上階へ続いているようだった。私は再び階段に足をかけ、フィロのいる三階のフロアに迫った。その最後のフロアに踏み込む前に、私はその中に誰かがいる気配を感じた。来るべきときが来たのかもしれない。三階のフロアには、ただならぬ異臭が漂っていた。人間の生活感が漂う匂いではなく、長い間、食べ物を放置し、発酵させたような腐臭だった。窓は正面と左右にそれぞれ一つずつ、だが全て閉じられていた。右側の窓からは森を一望にできた。私は我が家に置いてきた大森林の絵を思い出した。昨晩は、あの立派な絵は城の二階にあるバルコニーから森を眺めることで描かれたものであろうと、勝手に考えてしまったが、それは誤りだった。フィロがこの塔に幽閉されていたことを前提に考えるなら、彼はこの窓から森の景色を眺めてあの絵を描いたのだと、そう推測するのが一番自然ではないだろうか。あのバルコニーがフィロの代から存在していると勝手に思い込んでしまったのだ。城そのものが数十年前に立て替えられているのだから、フィロがあのバルコニーに踏み込んだことがあるはずはなかった。


 思考はそこで中断した。森の情景が映し出されている、その窓の下方の床に何か黒い物体が転がっているのが見えたからだ。このフロアを覆う暗闇をさらに濃くしたようなその真っ黒な物体は、私の眼前で微かに身震いをした。もう少し首を横に傾ければ、その物体を確認できる位置にいたが、このときの私にはそれはできなかった。森の民の一人として、フィロの姿を見ることができるその栄光は確かに捨てがたいものがあったが、このときは、それ以上に、得体の知れない強い恐怖を感じていた。精神が相当に疲労していたのかもしれない。その黒い人影と向かい合っているのが、なぜか言い表せぬほどに辛かった。それに、その不気味な人影は特に向かってくる様子も見せなかった。その姿に背を向け、今度は城を正面に見ることができる左方の窓に視線を移した。こちらの窓には何か違和感を感じた。他の窓とは造りが少し違うのだろうか。


 すぐにはわからなかったが、近くまで寄ってみると、その窓ガラスの表面には、あの惨たらしい犬の絵が内側から彫りこまれているのがわかった。手で撫でてみると、表面はざらざらしていて、ずいぶん詳細に彫りこまれているのが確認できた。今夜のこの熾烈な出来事もようやく終着点に来たのだ、という思いからか、自然に心は焦った。しかし、どうしたものだろうか。この窓を破壊したり、取り外すことは可能かもしれないが、これほどの芸術作品を破棄してしまうことを想像するだけで心が痛んだ。それに私は人間たちの勝手な思惑よりも、フィロの高い思想や才能を支持していた。この絵を壊す理由は無かった。そんなことを考えながら、窓の表面上で自分の手を滑らせた。ガラスの表面の冷たさが熱く思考する脳にまで作用して気持ちよかった。


 巧く窓枠から外すか、それとも破壊してしまうか。結論を出すことができないまま、私はガラスの上で自らの手を滑らせていた。手の平が絵の上方の部分、つまり、描かれている犬の顔の部分まで来たとき、ガラスの継ぎ目がグラグラと揺らぐ部分があった。このとき、ようやく私はこの絵が何枚かの薄いガラスを継ぎ合わせて創られたものであることを理解した。この絵全体を破壊することには無理があるが、あの顔の部分だけならば、外すことができるかもしれない。そう思い至ったとき、フィロを尊敬する気持ちは、私の心の中心から少し離れた場所にあったような気がする。私は左手で絵全体を支え、右手の爪を上方のガラスの隙間に差し込んだ。そのまま力をこめてみると、カタッという音とともに、犬の顔の一部分が、思ったよりもずいぶんあっさりと外れて、落ちてきた。 こんなに簡単に外れるとは思っていなかったので、反応が遅れてしまい、そのガラスを床に落としてしまった。


 キーンという澄み切った音があたりに響き渡った。幸いにもその美しいガラス板は割れていなかった。私は腰をかがめ、それをゆっくりと手の平に載せた。その瞬間から、こんなことをして本当に大丈夫なのだろうか? という罪悪感にも似た感情に襲われることになった。このガラスの破片を外そうとしているときは、その行為に夢中で、他のことにまで気が回らなかったのだが、今、冷静になって、このフロアの気配を読んでみると、あの黒い気配は自分のすぐ後ろにまで迫っているような気がした。


 彼は今、真後ろに立っていて、私が振り向くのを待っているのだ。そうにきまっている。そして、こう言うだろう。


「おまえ、その絵を破壊してどうするつもりだ? たかが、人間ひとりを救うためにおまえはここまで来たと言うのか? なぜ、森の民のおまえが?」


 私は黙っているしかなかった。自分の心から発せられた言葉にさえ、反論することはできなかった。森の民としての良識や責任を完全に捨て去ってしまっている自分を素直に認めているからだった。もはや、フィロは味方でなかった。私は一度ゆっくりと大きく息を吐いた。それで覚悟が決まったのか、出口に向かって自然と足が動きだした。足をもつれさせながら、落下するような勢いで階段を駆け下りた。私は自分の半生の記憶の中で、この夜ほど時間の流れの緩さを感じたことはなかったのだが、この忌まわしい塔から、そしてフィロの亡霊の眼前から逃げ出したこの瞬間は、時間の流れがさらに鈍くなっているように感じたものだった。しかし、緊張と恐怖で、ほとんど何も考えられなくなっていたので、この時の記憶はあまり残っていない。


 ただ、どんなに走ってみても、どんなに塔から離れてみても、フィロの気配はいつまでも自分の背後にあるような気がしていた。それが何よりも恐ろしく、ますます私の心をせかし、歩む速度を早めさせた。帰り道に転がっているはずの哀れな犬の死体も、もう見る気はしなかった。黙って、そのまま脇をすり抜けた。


 雨はこの時にはもう止んでいたと思う。雷はどうだったか、今はもう覚えていないが、おそらく、ずいぶん静かになっていたと思う。はっきりしたことはわからない。なにしろ、この時の私は自分の責任を完全に果たし、仕事を終えたものだと思い込んでいたので、雷や雨のことまではそれほど気にかけていなかったのかもしれない。深夜の空気は冷たく、私の吐く白い息を大気の表面に鮮やかに浮かび上がらせた。


 城の入り口にはたしかキザンが立っていたのだと思う。もう、この時にはすっかり意識が混濁していて、彼のことも、胸に抱いたガラス板のことも、フィロのことも、バビのことも、他の城の住人のことも、何も考えていなかったはずだ。だから、このとき、幻覚の世界の最後の場面で、キザンがどんな表情をしていたのか、どんな言葉をかけてくれたのか、どんなことを思っていたのかなどは、それこそ記憶に何も残っていない。つまり、今となっては推測するしかないのだが、城兵キザンは真青な顔をして息を切って必死に走り、城門まで戻ってきた私のことを両手を広げて迎えてくれたはずだ。


 そして、私は彼の姿に安心し、脱力し、意識を失ってその場に倒れこんでしまったのだと思う。

その恐ろしい、そして不思議な夜の記憶はそこで完全に途絶えてしまっていて、その後のことは何も覚えていない。


 深い眠りから覚めたのは、窓を通して射し込んだ朝日のためではなく、熱を伴った下半身の痛みのためだった。ベッドの上で身体を起こしてみても、意識はぼんやりとしていて、なぜ自分の身体が二階の客室のベッドで寝かされているのか、昨晩のあの出来事のすべては、本当に現実のものだったのか、果たして行動を供にした者たちは、皆無事なのかどうか、それらの疑問に対して、自分なりの答えを出すことは容易ではなかった。


 ただ、歪みのない視界は白く美しく、窓の外からはキーキーと、いつも通り、朝を告げる野鳥の鳴き声が聞こえてきた。これら平和な現実が、昨晩のあの暗く恐ろしい、まるで地獄のような世界での出来事は全て幻想であったのだと、そう教えているかのようだった。私自身も、今のすっかり落ち着いた精神状態に驚き、また、透き通るような窓の外の風景を見てしまうと、昨晩自分がいた世界は明らかに現実とはかけ離れた異世界であったのだと、そう認識せずにはいられなかった。


 だが、私はそれと同様に、昨晩、あの凍てつくような寒さの中で味わった両手の冷たさと痛みをしっかりと覚えている。そう、そしてあの激しい雨、森に幾度となく落ちた雷による激音、番犬の惨死体の衝撃。それらは全て、今になってみても、私の心のどこか奥深くに根を張り、居座り続けているような気がした。

 昔書かれた下書きを元に文章の修正をして掲載してみました。物語は途中ですが、ここで終わりになります。最後まで読んで頂きましてありがとうございました。他にも幾つかの作品を掲載していますので、ぜひ、そちらもご覧ください。

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