マジョルカ断章 第十四話
この異常事態のため、悪い方へと考えすぎていたのかもしれない。深呼吸をして、少し気を落ち着けてから、私は階段に向かうことにした。一階の広間に下りてみれば、なにか打開策が見つかるかもしれないと思ったからだ。他にも人間がいるかもしれない。
しかし、一階へと降りてみても、気分は悪いままで、しかも、この状況にはなんら変化なかった。広間の奥まで見回してみても、他の人間の気配を感じることはなかった。ここまで来てみて確信した。明らかに昨日までの城内とは違っている。様式はあまり変わりはないが、壁に掛けられた絵画や彫刻などが以前とは違うものになっている。それに、この辺り一帯からは木材の匂いが漂ってきた。私の森の家と同じような臭いだが、昨日までは城内でこんな臭いは感じなかった。全体に古めかしくなったような気がする。
食堂へ入ってみても、フィロの絵どころか、絵画は一枚も飾られていなかった。あの食事会の後、片付けてしまったという感じではなく、最初から何も飾られていなかったようだ。ここに至り、私はようやく自分が今、どういう世界にいるのか理解できてきたが、それはとても支持できるような考えではなかった。ふと、あの恐ろしい番犬の絵のことを思い出し、広間の右側にある狭い回廊に侵入してみたが、そこも様子は全く違っていて、あの絵がそのまま飾られているとはとても思えなかった。私は諦めて、引き返すべく身を翻した。しかし、広間の方から人影が近づいてきたのでとっさに身構えた。また、先程の恐ろしい老人かもしれない。
「あなたはいったい誰なんですか?」
こちらへと向かってくるその黒い影に向けて私は言葉を絞りだした。その影は私の声を聞き、驚いたような素振りを見せた。
「ああ、やはりあなたなんですか? よかった。探しましたよ。私です。キザンです。」
その人影は確かにそう言ったようだ。
「おお、どうしたんですか? どこへ行っていたんですか?」
私は彼の顔をしっかりと確認してから、少し明るくなった声でそのように尋ねた。
「いや、気がついてみると、二階の廊下の端で倒れていたんです。お嬢様の部屋のちょうど反対側あたりです。意識を取り戻してみると、城内の様子は全く変わってしまっているし、あなたの姿は見えなくなってしまっているし、ずいぶん焦りましたよ。」
キザンは息を切らしながら、そこまで一気に話した。彼も額から大量の汗を流していて、ずいぶん体調が悪そうだった。私は仲間が見つかったことで、安心しきってしまい、なかなかその先へと思考を進めていくことができなかった。当然、この時点では、なぜこの男だけがこの異世界に入り込むことができたのかということに疑問を抱かなかった。
「信じられないことですが、外は豪雨なんです。いったい、何が起きているのでしょうか?」
彼はかなり混乱した様子でそう叫んだ。
「とりあえず落ち着きましょう。これは、三日前にあなたが体験した状況と一緒ですか?」
「ええ、あの夜も、こんな感じでした。強い雨が降っていましたし、そう言えば、あの時もずいぶんと気分が悪くなった気がします。」
「この異変はどのくらい続くでしょうか?」
「おそらく、朝になり太陽が昇れば解消すると思いますが……。あの時もそうでしたから……。」
今のところ、善後策は見つからないようだった。我々はとりあえず二階へ戻ることにした。この不気味な広間にいると息が詰まるからだ。
「窓の外を見ましたか?」
「ええ、凄い雨が降っていますねえ……。あの静寂の夜から、こんな事態になるとは夢にも思いませんでしたよ。」
「違いますよ。天気のことじゃないんです。雲の隙間から月が覗いていましたよ。見ましたか?」
「月が……?」
何のことかわからないとでも言うように、彼はそう声を漏らした。
「ええ、昨夜何度も上空を確認しましたが、月は出ていませんでした。ですから、今のこの状況は、昨夜からの延長ではないんです。」
それを聞いて、キザンは不意に足を止めたので、私は意識せず彼を追い抜いてしまった。俄かには信じがたい話であろうが、現在はこれが現実であり、彼もようやくこの恐ろしい状況を理解してくれたようだ。
「それでは、我々は今、どこにいるのでしょうか? 元の世界には無事に戻れるのでしょうか?」
彼もすっかり混乱しているようで、一度に複数の質問をよこした。私はそれはどちらもわからないと答えた。キザンは蒼い顔のまま、階段の途中で立ちすくんでいた。
「でも、どうやら敵は我々に過去の世界の幻覚を見せようとしているようですね。どうです? 建物の内部が先程までより、ずいぶんと古くなったような気がしませんか?」
キザンは一度辺りを見回して、顎に手を当て、「そう言えば……。」と低く呟いた。
「ジャブーがこの城は三十年前に立て替えられたと言っていましたからね。しかし、この幻覚の感じではそれよりもずっと昔でしょう。おそらく、今、我々がいるのは百年ぐらい前の世界です。敵は百年前の世界を我々の目に見せようとしているのです。目的はわかりませんがね。でも、さすがに無理があるようで、空間があちこちで歪んでしまっているんです。」
仲間が見つかったことで、私の脳はようやく正常に動き出し、状況を正確に判断し始めている。しかし、なにか解決策があるわけではない。
「しかし……、いったい誰がそんなことを……?」
キザンは恐怖と失望の余り声を震わせた。
「こんなことができる人間が彼の他にいますか? 我々はフィロの世界に引きずり込まれたんです。これから何が起きるかわかりませんが、覚悟は決めておきましょう。」
私は溜まっていた思いを一気に吐き出すようにそう告げた。それらを確認しあってから、我々は階段を昇りきり再び二階の舞台へと戻ってきた。
「そうだ、お嬢様はどうなされたでしょうか我々は?」
私はその言葉を聞いて、ようやくバビの存在を思い出した。しかし、バビも我々と一緒にこの世界に迷い込んでいるとは想像しづらかった。
「この異常事態ですから、お嬢様やジャブー様にもお知らせした方がいいと思うのですが……。」
キザンも体調はかなり悪いようだが、先程までより口調は滑らかで、案外逆境に強い男なのかもしれない。本当はキザンよりも、フィロの恐ろしさを知る私のほうが、余程この事態に動揺していることだろう。しかし、私は立場上、混乱している姿を見せるわけにはいかなかった。それと、私の心中には恐れと同時に、ほんの少しだが、フィロの呪いとは何なのか、その正体を知りたいという興味に近い感情が湧いてきているというのも事実だった。私は彼に同意して、まず、バビの部屋に向かうことにした。だが、廊下を曲がったところで、突然キザンが足を止め、首を傾げた。
「今、確かに何か叫び声が聞こえましたよ?」
「えっ、なにがです?」
考え事をしていたためか、私にはそのか細い声は聞こえなかった。一度立ち止まり、二人して耳を澄ましてみると、今度は廊下の奥の方からはっきりと聞こえてきた。ギャーという獣のような叫び声だった。
「お嬢様の声だ!」
そう叫んで、キザンはバビの部屋のドアに向かって走り出した。私はずいぶん反応が遅れてしまい、しばらくその場に立ち尽くしたままだった。この空間を漂う悪しき霊気が、私の思考力を裁断しているように思えた。広間よりもこの辺りの空気の方がよほど悪いように思う。キザンは一目散に彼女の部屋の前まで駆けて行くと、ドアにしがみつき、引き開けようとしていたが、なかなかうまくいかないようだった。そのマホガニー材の丈夫なドアは、ガチャガチャと金物が擦り切れるような音を出しながら、なかなか口を開こうとはしなかった。私もようやくキザンの隣までたどり着き、彼を手伝おうとした。
「中から鍵がかかっているのではないですか?」
「いえ、このドアには、たしか鍵は付いていないはずです!」
そう叫ぶ彼の声がなぜかうるさく聞こえた。聴覚が敏感になっているようだ。私は彼に代わってドアの取っ手を握り、思い切って引っ張ってみたが、なるほど、ドアはグラグラと微妙に揺れてくれるものの、なかなか開ききらなかった。
「部屋の内側から誰かが押さえつけているようです!」
辺りには相変わらず風雨による轟音が響き渡っていた。それに負けないように、キザンも声を大にしてそう叫んだ。
「押さえつけている? 誰が? バビがか?」
私も錯乱したかのように叫び返した。
「まさか……、お嬢様にこんな力は……。」
その通りだ。その言葉を肯定するかのように、部屋の中からはずっと得体の知れないうめき声が響いてきていた。キザンは先程、この声をバビの声だと表現したが、私にはまだ信じられなかった。彼女を弁護するわけでないが、あんな上品そうで、大人しそうな子が、狂った野獣のような大声を出せるものだろうか? 完全に否定するわけではないが、私は別のものだと思う。例えば……、例えば、そう、幻聴だ。すでにこれだけ膨大な量の幻覚を見せられているのだから、いつ、幻聴が聞こえてきたとて不思議はない。私はそれよりも、自分の脳がいつ思考停止にまで陥るだろうかと、そのことに脅えていた。それはとても恐ろしいことだ。
しばらくの間、ドアの向こう側にいるはずの人間と、こちら側の二人とで、激しい引き合いが続いた。我々は力を併せ、一気に引くことにした。「よし、それ!」そう叫んで全身の力を込めた。額を大粒の汗が流れていくのを感じた。ガツン! という鈍い音を残して、そのドアはついに大きく口を開いた。
部屋の内部はまるで嵐だった。カーテンは天井近くまで捲れ上がり、窓は完全に開ききっていた。そこから濁流のように暴風が流れ込み、この狭い空間の中で荒れ狂い、あらゆる物品を空中に舞い上げていた。白いシーツだとか、引きちぎられた茶色の紙、赤い帽子、緑色のタオルなどが部屋の中で激しく舞い踊っていた。それは、まるで悪魔のダンスだった。
「お嬢様!」
そう叫んで、キザンはベッドに駆け寄り、もだえ苦しんでいるバビを助け起こした。しかし、彼女に意識は無いようだった。バビの身体は何者かの悪意のリズムに操られるように、風雨の轟音に併せて激しく揺れていた。私はなぜか彼女を助けにいく気にはならなかった。頭脳がこの恐怖の光景に錯乱してしまって、精神が崩されてしまったのが一つ、それと、この部屋に踏み込んだ瞬間、窓の外に何か不気味な影が見えたような気がした。
私は無意識のまま、まるで運命に吸い寄せられるかのように、窓の方に歩み寄り、そのまま外に身を乗り出した。今のところ、恐怖は感じなかった。そうしてみると、やはり、斜に激しく流れ落ちる雨粒と霞の壁の向こうに、はっきりと黒い影が見えてきた。どうやら獣のようだ。
「何をしているんですか! 早く窓を閉めて!」
後ろからキザンのそう叫ぶ声が、かろうじて聴覚を通じて脳に届いた。しかし、それに応えることはできない。私はもはや、まともな精神状態にないのだ。心中でそう納得した。 私は誰かに呼ばれたような気がして、両腕を窓の外へ突き出した。自分にとって、それは至極当然の行動のように思えた。激しく吹きつける水の壁に遮られて、私の両腕はあっという間に見えなくなってしまった。
「いったい何をやっているんだ! 早く窓を閉めて!」
後ろからキザンに肩を掴まれたような気がした。次の瞬間、ガガーンという激音とともに前方の森に雷が落ちた。それとほぼ同時に、「ギャー」という叫び声が室内に響いた。我々の後方でバビがまた暴れ出したようだ。しかし、今回ばかりは私もそれに同意せざるを得なかった。
我々の網膜にも、血まみれの黒犬の死体が前方の宙の中に、雷光によってはっきりと映し出されたからだ。やはり、あの番犬の死体だったが、身体中のいたるところから骨が突き出し、口を上下に引き裂かれ、それはもはや生き物の体を成していなかった。
「グワー!」
再び、叫び声が辺りに響いた。今度は少女の声ではない。私の脳に直接届いた私自身の声だった。キザンも突き飛ばされたかのように後方に弾けた。「な、なんであんな化け物が……、あれはまるで悪魔じゃないか……。」
彼の顔も恐怖に歪み、顎の下から大きく揺れていた。今の一撃でバビと同じように精神を破壊されてしまったようだ。私の思考回路もしばらくの間、あまりの恐怖に耐えかねて停止したままだった。しかし、私の精神は実に不思議なことだが、今の衝撃で逆に正常に戻りつつあった。 今までは漠然としていたフィロへの恐怖感が、ある程度具体化されたことで、今度はそれに対応しようとする力が湧いてきたのかもしれない。私は冷静に考えを進めた。あの番犬の死体の画は一瞬で消えてしまったが、出現した方向は推測できる。その方向をじっと見つめていると、何秒かに一度、風雨が弱くなり、水壁の向こう側に円筒形の黒い影が見える。あれは昼間見た見張り塔ではないだろうか。きっとそうだ。あれはこの時代から存在するのだ。そして、あの塔の一部分に、雷光によって犬の死体の画が浮き出るような仕掛けが施されているのではないだろうか。
こんな恐ろしいことを仕掛けたのは、天才フィロであることに間違いないだろう。やはり、彼はこの世界に実在するのだ。そして、この城のどこかに潜んでいて、この事態に脅える我々を見て、ほくそ笑んでいるのだろうか。天才のすることにしては、あまりに姑息だ。私は先程廊下で見た、あの髭を生やした不気味な老人の顔を思い出し、再び身震いをした。少し思考を止めたその瞬間、また右方に大きな稲妻が走った。ガガガガガという鉄骨を引き裂くような激音とともに、またあのかわいそうな犬の画が眼前まで迫ってきた。
「うわ! また来た!」
キザンはそう叫んで、床にうずくまってしまった。手で顔を覆い隠して、もうあの画を絶対に見たくないような素振りだった。この私も轟音と衝撃で思わず一歩身を引いたが、今度ははっきりとその全貌を見ることができた。やはり塔だ。塔の三階の窓だ。三階の窓に雷光が反射して、窓にステンドグラスのように彫りこまれた犬の絵が、浮き上がって見えているのだ。私はそう確信して、窓を力強く閉めた。バシン!という乾いた音が室内に響き、舞い上がっていた物たちが次々に床に落ちてきた。その後、また巨大な雷が天から落ちてきたが、今度は窓を閉めていたため、その巨音も室内まではあまり響かず、犬の死体の絵も迫力が半減していた。窓枠がビリビリと少し揺れただけだった。
私は少し気を緩めて、室内を見渡し、他に怪しいものが無いことを確認してから、キザンを助け起こしてやった。
「いったい、なんだったんでしょうか? あなたも見ましたか? いったい、何でしょう、いまの犬の画は?」
キザンはまだ放心状態でいるようだった。
「今から、あの塔まで行って来ます。バビのことは頼みますよ。」
私は彼にそう言い聞かせ、城の外へ出る準備を始めた。城の外はどうなっているのか、ここからではわからないが、やはり、真相を突き止めるには、あの塔まで行ってみなければならないだろう。
「今から外へ出る気ですか? 外はまるで嵐ですよ、あんな状態です。今、城の外へ出るのは危険です。ここにいましょう。」
彼はあの画を目撃した衝撃で、もうすっかり戦う気をなくしてしまったようだ。
「この世界にフィロと渡り合えるまともな人間は、私とあなたしかいないんですよ。お願いします。王とジャブーもあなたに期待していましたよ。」
肩に手を置いてそう言ってやると、彼は少し安心したようだが、まだ目は虚ろだった。キザンは床から立ち上がり、ふらふらとベッドの方に向かって歩んでいった。直後、またバビの身体が激しく痙攣を起こし始めた。やはり、彼女の症状が一番重いようだった。まだ子供だから精神が弱く、耐え切れないのだろう。 ひどく歪んだその顔は人間のものとも悪魔のものともつかなかった。激しく揺れるその小さな身体は、ベッドから転げ落ちそうになり、キザンが慌ててそれを支えた。
その様子を見ていられず、私は黙って部屋を出た。私が先ほど思いついた解決策を、うまく実行できれば、少なくともバビだけは救われるはずだ。 そして、朝が来れば、森にも城にも再び平和な光景が戻ってくるはずだ。幻覚の世界にいても、私はなぜかそれだけは確信していた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。