マジョルカ断章 第十三話
彼が立ち去ってしまうと、場は急激に静まり返っていった。しかし、森からは私を励ますように賑やかな虫たちの声が響いてきた。虫たちはこんな時間まで何をしているのだろうか。きっと、やり残したことがあって、それをどうしようかとみんなで相談しているのだ。そして、明日のことを考えているのだろう。動物や虫たちは未来の計画にまで余念がない。行き当たりばったりなのは人間ばかりだ。気持ちが落ち着いてしまうと、眠くなってしまう。私は気分を変えるため、もう一度立ち上がってみることにした。
そう言えば、父がフィロの絵をもらったことについて、王にお礼を言うのを忘れていた。ついでにその経緯などを教えてもらえばよかった。父はいったいどうやってがめつい貴族から絵を入手することができたのだろうか。長年、働いた礼に頂いたと言っていたが、それは本当なのだろうか。そのことについては詳しく話してくれなかったので、余計知りたくなってしまう。この城に来てから、ずっとフィロのことを考えているような気がする。しかしながら、もう、とうの昔に亡くなっているはずの人のことを、皆でこれほどまでに意識しなくてはならないというのはおかしなことだ。今では彼に親近感すら感じる。私はなぜか、もうすぐ、過去の偉人フィロに出会えるような気すらしていた。
この城の中にいても、昼間は彼の気配など全く感じなかった。事実、私は今日聞いた貴族たちの話は全て嘘で、彼らが私をからかっているのではないかとさえ思ったほどだ。しかし、こうして夜になり、周りの人間たちが寝静まってしまうと、逆にこの話の信憑性が出てくる。暗闇に包まれて表情を変えた城の壁や床から、水滴のように滲み出てくる、かすかな古代の気配に、心が反応し始めたのかもしれない。そう言えば、昼間見たあの見張り塔。あの崩れかけた塔が一番そういう雰囲気を持っていた。この辺りに存在する建物の中では、最も古いということだったが、あの塔の持つ意味は、それだけではないかもしれない。今夜何も起きなければ、明日もう一度行ってみた方がいいのかもしれない。かすかな足音が聞こえてきて、私の思考はそこで中断された。
その方向へ顔を向けると、廊下の角からキザンが現れた。どうやら見回りを終えたらしい。
「今のところ、城内において、特に変わったところはないようです。」
彼は少し緊張した面持ちでそう報告してきた。そして、私の横の椅子にゆっくりと腰を降ろした。彼は先程から私に対してずいぶん気を使ってくれているようだ。やはり私とは人種が違うので、やりづらいのかもしれない。
「あなたたちから見ると、私はずいぶん変わっているでしょう? 別の生物のように見えますか?」
彼の緊張をほぐすためにそう話しかけてみた。
「いえ、とんでもないです。それは城の人たちとは明らかに違うなとは感じていましたが、本当にそれだけで、変だなんて思ったことは一度もないですよ。」
彼は慌ててそう釈明した。少し弱気なところがあるが、正直な人柄は信頼できる。
「実は、私もまだこの城にきて間もないんですよ……。下っ端なんです。」
彼は続いてそう語り始めた。
「最近になって、兵士として志願したんですか?」
「いえ、違います。町で一人で座り込んでいたら、城の衛兵に見つかって、そのまま連れてこられたんです。私には親族も友人もいません。つまり、孤児なんですよ……。」
彼は少し恥ずかしそうにそう言った。人間の中にも孤独な者がいる。私も大森林の中において、ずっと一人で過ごしてきたので、同情できる部分が多くある。
「身体が頑丈なのを買われて兵士になったのですが、臆病なので、みんなからは馬鹿にされます。なんとか、この性格を直したいとは思うのですが……。」
頭を掻きながら、彼はそんな話をしてくれた。彼自身が思うより、ずっと良い自己紹介になっている。
「臆病なことは悪いことではないですよ。臆病な人は傲慢な人よりも、余計に多く物事を考えているんです。」
「いや、あなたにそう言ってもらえると嬉しいです。大変励みになります。」
彼は安心できたようで、おそらく、初めての晴々とした笑顔を見せた。実際、森に住んでいればよくわかることだが、臆病で慎重な動物ほど、単純で獰猛な生物よりもずっと長生きができる。危険を察知して弱気になることは決して悪いことではない。それは相手の力をよく計り、自身の安全がよく考えられているということなのだ。臆病が悪いというのは、愚かで傲慢な人間たちが勝手に考え出した物の見方だ。人間どもは勇気と無謀とを履き違えていて、あれでは早死にするだけだ。昨晩のジャブーの無謀な行為など、まさにその良い例だ。
「今夜、いったい何が起きるのでしょうか?」
兵士は再び顔を強張らせながらそう尋ねてきた。
「さあ……、私もそれが知りたくて、先程まで城中を駆け回っていたのですが……。」
「何か大変な出来事が起きたら、私はどうすればよいですか?」
そう言えば、この兵士には現状を何も話していなかった。不安になるのも当然か。
「あなたは別に何もしなくていいんです。ただ、この城内のどこかで異変が起きたなら、それをすぐに私に教えてください。後はこちらで何とかします。」
「そうですか……。わかりました……。」
そう答えたが、彼はまだ不安そうだった。そのような会話が終わってしまうと、我々はまたすることがなくなり、しばらくの間沈黙した。今のところ、考えることもあまりなかった。どんな現象に気をつけるのか、魔物かそれとも幽霊か、何を見張ればいいのかさえよくわからない。あまりにも全てが漠然としすぎていた。身動き一つせずに、沈黙したまま脳だけを動かしていると、しだいに眠くなってくる。それはわかりきっているが、今夜だけは眠るわけにはいかない。隣を見ると、キザンの身体がゆっくりと上下に揺れていた。私は苦笑しながら、彼の肩を優しく揺すってやった。
「はっ? ああ、すいません……、つい……。」
彼は瞬時に反応して跳ね起きて、そう言い訳をした。
「ええと……、それでは、ちょっと、一階に行って時間でも見てきます。」
私が怒っていると思ったのか、彼は凄い勢いで立ち上がると、そのまま、どたどたと走り去っていった。こんな時間になってから、あんな大きな音を立てられると、すでに寝ている王族たちにとって、いい迷惑になるわけだが、それを注意する暇さえなかった。彼を叱らなかったのは、私自身も眠たくてしょうがなかったので、気持ちはよくわかるからだ。再び辺りの様子をうかがってみても、変事など起きる気配もなく、このまま眠ってしまっても何の問題もなさそうだった。城内は異常と言えるほどに静まり返っていた。この静寂を突き破って、何かが襲ってくるとはとても思えなかった。そんなことは有り得ないのだ。自然の摂理がそれを許さないだろう。
森からは絶え間なく虫たちの見事な輪唱が響いてきて、何とか正常に働こうとしている私の脳を激しく揺さぶった。これはフィロの時代から鳴り止むことのなかった古代の音色だ。それを聞いているうちに、私の脳は活動を停止し始め、バビのことなど溶けゆく氷塊のように、少しずつ忘れかけていた。追い打ちをかけるように、森からはあの緩い風に乗って、甘い花の香りが漂ってきた。この香りのことまでは何とか考えていたのを覚えている。最初、クローバウムの花びらが頭に浮かんだが、あの花ではない。クローバウムはもっと強い刺激的な香りを持っている。この香りは……、そうだ、ラベンダーだ。ラベンダーの香りだ。そう考えついたところで思考は完全に停止してしまった。まぶたはもうとっくに閉じてしまっていた。そして、何者かに誘われるまま、私は深い眠りに落ちていった。
それから、いったいどれほどの時間が過ぎたのか。身体全体を下から突き上げるような不快な衝撃を感じて目が覚めた。目を開いてみると、辺りの状況はあまりに変化しすぎていて、一度動きを止めてしまった私の脳には、すぐにその全てを理解することはできなかった。まず、視覚からおかしくなっていた。大気はすっかり黄ばんでいて、一定の周期で上下に揺らめいていた。その様子を眺めているだけで気が変になりそうだった。キザンの姿はどこにも見えなかった。空気はよどんでいるが、眠ってしまう前より視界が開けたので、私はもう朝になったのかと錯覚を起こした。
体験したこともないような、激しい頭痛に襲われ、脳がうまく動かなかった。しかし、それよりも身体の異常に驚いた。ひどく息苦しく、心臓は激しく脈打っていた。力を入れてみたが、下半身は思うように動かず、普通に立ち上がることさえできないようだった。全身の器官の反応が、まるで麻痺しているかのように鈍かった。私は壁にもたれかかり、なんとか身を起こした。そこでようやく、これは異常事態なのだと気がついた。あのフィロが引き起こす異変とは、いったいどういうものなのかと、昨日から熟慮していたが、まさかこれほど恐ろしいものだとは露ほども思わなかった。私は自分の身を守るためにこれからどうするかを考えるのが精一杯で、他人のことなど考える余裕は全くなかった。
先程から辺りに響き渡っている、ガーガーという不可解な轟音が気になり、窓枠に近づき、外の様子を覗いて見た。すぐに身体中に悪寒が走るのがわかった。城の外はほとんど視界もきかぬほどの暴風雨だった。横殴りの雨は激しく城壁を叩きつけ、まるで、この城を破壊しようとしているようだった。眠ってしまう前までは、この城の内外はあんなに静かだったのに……。私は目を疑ったが、どうやらこれは夢ではないようだった。鉄格子にしがみついたまま、顔を上げてみて、私はさらに驚愕した。厚い雲に隠れてしまってはいるが、金色の丸い影をはっきりと確認することができたからだ。
想像を絶する事態に私はすっかり混乱してしまい、ジャブーの部屋に向かって自然と走り出してしまった。そして、彼の部屋の扉を両手で力一杯何度も叩いた。ジャブーにこの異常な事態を知らせるためというよりかは、彼に助けを求めたい一心だった。しかし、その部屋の中からは、何の反応もなかった。どうやら中は無人のようだ。『自分をこの危機から助けてくれる者は、この世界にはいない』私はなぜかドアを叩く前から、そのことがわかっていたような気がした。
かなり動揺はしているが、私の脳はようやく正常に動き始め、今現在、自分が置かれている立場を少しずつ理解し始めていたからだ。ここが現実世界でないのは確かなようだ。そして、おそらく私は一人きりでここにいるのだろう。増大する後悔の念に襲われた。こんなことになるのなら、意地を張らず、やはり城から早く立ち去っていればよかった。あまりの恐怖に身体は硬直してしまい、何をする気にもなれなかった。そんな私の弱い心をせせら笑うように、廊下の奥から、不気味な笑い声が響いてきた。今までに聞いたことがない声だ。しかし、悪魔のものではない。濁ってはいるが、明らかに人間の声だった。私はそれが誰の声なのか、直感的に判断できた。その声につられ、私は廊下の角のほうに吸い寄せられるように歩んでいった。しかし、直後、また強烈な悪寒に襲われ、自然と足が止まった。
角の向こうから、顔を突き出し、誰かがこちらを覗き見ているのだ。視界が悪く、はっきりとは見えないが、髭の生えた老年の男性の顔だった。男は口をゆっくりと何度も開閉していた。今まで見たことがないような口の動きだった。私の様子を笑いながら確認しているようだった。
「ジャブー、それともキザン、いったい、どこにいるんですか?」
城内中に響くように、そう大声をかけながら、私はゆっくりとその老人の方に歩み寄った。心中では別の名を叫んでいた。私はなぜかその男の顔を知っていたからだ。昨日はこの老人のことばかりを考えていたから、脳が自然にその像を創り上げてしまっていたのかもしれない。しかし、次の瞬間、私が一度軽く瞬きをした隙に、その老人の姿は見えなくなってしまった。呪いから解き離れたように、私は角に駆け寄り、その向こう側を覗いてみた。しかし、そこには何者もいなかった。
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