マジョルカ断章 第十一話
そこから眺める景色はまた壮観だった。自分の視界は全て森の緑で埋まり、私は言葉を無くした。自分の住んでいる場所を上から眺めるのはこれが初めてだった。その壮大な光景は、私の頭の中で、私の家に掛けてある、あの大森林の絵と合致した。そう言えば、あの絵も森を少し上空から見て描いたものだった。フィロも遠い昔、このバルコニーからマジョルカの森を眺め、その美しさに心惹かれて、筆をとったのではないだろうか。そう思わずにはいられなかった。
「少しお聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
後ろからジャブーにそう声をかけられた。私はすぐに振り向いたが、彼の言葉の一つひとつが中々入ってこなかった。この森の美しい光景の印象を、自分の頭の中から、完全に消し去るまでには、多少時間がかかった。
「実はですねえ……、あなたがバビの部屋を出て行ったあと、ブロートン王も地下に用事があるとか仰られまして、部屋を飛び出していかれました。何か新しいことを思いつかれたようで、相当慌てている様子でした。あの子はいったい、お二人にどのようなことを話したのですか?」
私と王が突然おかしな動きを始めたので、ジャブーは不安になったのだろう。日頃からバビの面倒を見ているこの男も、なるべくなら事実を知っておく必要がある。私は正直に話すことにした。
「王がどこへ向かったのかは知りませんが、バビは犬の死体の幻影を見て脅えるのだそうです。一階の客室に飾ってある、絵の中に棲む番犬のことかもしれませんね……。」
「やはり、あの黒犬の絵が元凶だったのですか?」
ジャブーは身を乗り出してきた。
「いえ、違いますよ。あの絵とバビの部屋では距離が開きすぎています。それに、バビは窓の外に幻影を見るのだそうです。それで、あの見張り塔に番犬と関係あるものが何かあるのかと思い、行ってみたのですが……。」
私の説明を聞くと、ジャブーは大きく頷いた。
「そうですねえ……、バビの部屋の窓から見えるのは、壊れかけの見張り塔ぐらいのものですからねえ……。まあ、あの塔も太古の昔から存在するそうですから、考えようによっては、絵の一枚や二枚は眠っていても不思議はないですねえ……。」
ジャブーもそう言って、私の行動を支持してくれた。
「城の地下にもフィロの絵があるのでしょう? 王はそれを見に行ったのではないですか?」
私は思いつきで、そのようなことを言ってみた。
「今さら地下に? 果たしてそうでしょうか……?」
ジャブーは納得がいかないようで、首を傾げた。
「この城には他にどのくらいの絵があるのですか? 一応、把握しておきたいのですが……。もしかしたら、その一つひとつに何らかの対処が必要になるかもしれません」
「そうですね。そうです、あなたにそれについて話しておこうと思いまして、ここにお呼びしたわけなんです。」
ジャブーはそう前置きしてから、腕組みをして考え込んでしまった。頭の中で言葉のパズルを組み立てている。これは話しづらいことがある人間の特徴的な行動だ。
「一月に一度、この城で展覧会が催されるということは、あなたもご承知の通りなのですが、毎回、食事会の次の日に、王は来客に中のある特定の人物だけを伴われて地下に降りられます。多分、五、六名ほどだと思います。その特別な見学については、私もフロウ様も供を許されません。何をなされているのか定かではないですが、私の想像では地下に隠されているフィロの絵を観覧しているのだと思います。」
「水の世界というやつですね?」
私は彼のゆったりとした口調に耐え切れなくなり、思わず口を挟んだ。
「そうです。おそらく、そうでしょう。なぜなら、王と一緒に地下に降りて行く人は、毎回決まって絵に相当詳しい人物ばかりだからです。」
「展覧会の開かれる日には、王は毎回必ず地下に降りていくのですね?」
「そうです。必ずです。ですから、王は明日、おそらくですが、あなたを誘って地下に降りられるはずなんです。」
ジャブーはそのように言い足した。
「この質問には少し考えていただいても構いません。正確な返答が欲しいのです。いいですか?」
私はそう前置きした。ジャブーは真剣な表情で頷いた。
「なぜ、王はあなたを地下に連れて行かないのだと思いますか?」
予想通り、ジャブーはその質問に対して、腕組みをして、うーんと唸りながら考え込んでしまった。すぐには答えは返ってきそうになかった。
「そうなんですよねえ……、地下には明かりも満足にありませんから、召使でも連れて行かないと相当に不便だと思うんですよ……。なぜでしょうかねえ……? まあ、私がフィロの絵を見ても、王が抱えておられる重要な問題を解決できるとも思えませんから、多分、王はそう考えて……。」
「違いますよ。王はあなたに、今、この城で起きている本当に深刻な問題について、明かしたくないんですよ。つまり、もっとも信頼できる召使にさえ、隠しておかなければならないような重大な事が、地下のどこかの地店で起こっているのでしょう。」
「では、バビの問題についても、その根っこの部分は地下の絵画にあると、あなたは言うんですか?」
ジャブーはどうも信じられない、といった様子でそのように応じた。
「そこまでは言いませんが、今現在、バビの周りだけでなく、城の地下でも想像を絶するような変事が起きているのは確かなようです。」
「なるほど、そういうことですか……、しかし、明日になれば、王は確実にあなたを誘って地下に降りられるはずです。あなたが自分の目で地下にあるフィロの絵を確かめることができれば、こういった問題の解決にも、かなり近づくのではないですか?」
ジャブーのこの言葉には、あまり興味を持てなかった。というのも、今はバビのことが頭に充満していて、それ以外の問題まで考えることが億劫になっていたからだ。つまり、私はこのとき、地下にある『水の世界』については、この城の一族やバビとは何の関係も無い絵だと思い込んでいたのだ。すでに時間は限られている。私は焦って質問を続けることにした。
「水の世界の他には地下にはもうフィロの絵は無いのですか?」
「他には無いと思います。まあ、城の地下は脱出不可能な監獄のように複雑な構造になっていて、この私でさえ、まだ立ち入ったことが無い部分もあるほどなので、確信は持てませんが、以前に降りてみたときの感じでは、不吉なものがあるような気はしなかったので……。」
ジャブーは少し自信がなさそうにそう言った。
「そうですか……、それではこの城には、もう他にフィロの絵は存在しないのですね?」
その質問にジャブーは戸惑いを見せた。
「あっ、いや、実は……、おそらく、お后のフロウ様が、一枚だけ、フィロ絵を持っておられます……。」
「なんですって?」
ジャブーのその言葉は、いったん冷めかけた私の感情を再び燃やすには十分だった。人間は心中にいくらでも秘密を貯め込めるらしい。重要なことは後になって出てくる。
「いえ、定かではないんです。なにしろ、フロウ様の部屋には、私はもう何年も足を踏み込んだことがありませんので……。」
「それなのに、なんで彼女の部屋にフィロの絵が存在するとわかったのですか?」
「王とフロウ様が一週間ほど前に広間で話されているのを偶然聞いてしまったのです。う、嘘ではありません。本当にただ偶然に通りがかっただけなんです……。」
「それで? 二人は何を話していたんですか?」
私はジャブーのくだらない言い訳には、まったく耳を貸さず、話を前に進めるように促した。
「たしか……、『これはバビだけの問題ではないわ。私の部屋にある絵も最近になって……』というようなことをフロウ様自身が言っておられました。もちろん、それだけでは何もわからないのですが……。ただ、その場の緊迫した空気から、なんとなく重要なことをお話になっているような印象を持ったものですから……、てっきり、フィロの絵画のことを話しているのではないかと……、まあ、この辺は私の憶測に過ぎないのですが……。」
その衝撃的な発言に脳が焼きついてしまい、しばらく、まともな思考ができなくなってしまった。フロウの部屋の位置は、バビの部屋のすぐ隣にあるのだから、この情報が持つ意味は重要だ。これまでの前提を根本から覆しかねない。バビをあれほど苦しめているのは、身内であるフロウの部屋に飾ってある絵画かもしれないのだ。しかし、そう考えていくと、あのフロウが自分の娘の問題について、まったく干渉してこないのは、おかしい気もする。焦って走り回っているのは、ブロートン王や周りの召使だけで、彼女自身はこの問題にまるで関心が無いようだ。
「ま、まさか、フロウ様の部屋に掛けてある絵が原因なのでは……?」
ジャブーも私と同じところまで考えが行き着いたらしく、血相を変えてそのように訴えてきた。
「私もそれを考えていたのですが……、やはり、違うと思います。もし、フロウの所有する絵が、本当にバビをあれほど苦しめているとしたら、どちらにせよ、彼女はもっとこの問題に言及してくるでしょうし、だいたい、そんな恐ろしい絵が部屋にあるのだったら、フロウ自身の身体も、ただでは済まないはずです……。」
そう説明してやると、ジャブーは一応安心したようだったが、額についた汗はなかなか引かなかった。もちろん、フロウの絵が元凶であるという説を完全に否定したわけではない。その可能性は少なからずあると思う。しかし、私はバビが夜に苦しみだす理由は、窓の外の風景の中にあるような気がしたのだ。これは森の民が持つ直感かもしれない。
それに、このことについて確かめる方法が無いのだ。これから、フロウの部屋を訪問してみても、召使すら自分の部屋に入れない彼女が、よそ者の私の話を聞いてくれるわけが無い。食堂で会ったときの冷徹な感じでは、まず断られることになるだろう。もうすぐに訪れる夜の時刻までに、その方面から新しい手がかりが掴めるとはとても思えなかった。
頭を使いすぎて、少し疲れてしまった。私は精神を休めるため、視線をもう一度森の方に移してみた。ジャブーと話し込んでいるうちに、太陽は西に傾き、大空は右端の方から赤く染まりだしていた。もう間もなく、人間の知恵も勘も全く働かなくなる闇夜の世界がやってくるのだ。もはや時間が無い。
落ちゆく太陽を眺めているうちに、私の気持ちも同時に沈んできた。バビを救うことなど、やはり無理なのだろうか。私はまるで人間のように弱気になり始めていた。このまま夜になったら、私までがフィロの生み出す幻覚に飲み込まれてしまうかもしれない。
「いや、しかし……、今考えてみますと、昨晩、フィロの幻影が現れなかったのは不幸中の幸いでしたねえ……。」
ジャブーは静かに語りかけてきた。的を得ていると思い、不謹慎だが、少し笑ってしまった。まったくその通りで、昨晩悪魔に襲われ、あんな思いをした後でフィロの幻影まで現れていたらと思うとぞっとする。そのことについては、気まぐれな天才画家に感謝すべきなのかもしれない。
「バビは幻影に襲われて苦しみだすと、どんな様子なんですか?」
「申し上げにくいのですが……、とてもひどい状態です。同じ人間とは思えないほど、顔を歪めて暴れまわりますし、大声を張り上げて・・・、まあ、叫んでいるというよりも、唸り声という感じです。まるで何かに取り憑かれたように大きな唸り声まであげているのです。見るに耐えないのです……。」
ジャブーはかなり辛そうにそう説明した。
「でも、その緊急時にバビの部屋に踏み込んでも、あなた自身はなんともないんでしょう? 魔物に身体を操られるようなことはありませんよね?」
「はい……、バビが暴れだすと、いつも数人の家来を連れてあの部屋に駆けつけるのですが、彼女以外の人間は全員平気なんです。」
「王やフロウについては?」
「お二人には……、なんと申しますか、あまりバビの部屋には近づかないようにしていただいております……。あんなに無残に苦しんでいる我が子の様子をお見せするのは忍びないので……。」
ジャブーはもっともらしくそのように答えた。しかし、それはかえって問題解決の遠回りになるかもしれない。王はともかくとして、フロウには狂って暴れているバビの様子を見せておいた方がいい。彼女は何か重要なことを知っているはずだ。
そう、私は初めて食堂でフロウと出会ったときにそう感じたのだ。この女はこの問題について重要な事実を知っていて、しかも、それをひた隠しにしていると。私はそんなことを考えながら、ふと上空を見上げた。今日も昨日と同じで、風が全く吹いていなかった。
空気は少し生暖かかった。真青に染まりだした空に今夜も月が出る気配はなかった。雰囲気は昨晩とよく似ているが、私はこの静かすぎる情景に、何か嫌な予感を感じた。今夜は何か起こりそうだ。
私は振り向いて、もう一度ジャブーに話しかけた。
「今晩は私も寝ないで、バビの近くにいようと思いますが、ひとりでは心許ないので、誰かもう一人、警備につく人間を貸していただきたいのですが。」
「私では駄目ですか?」
ジャブーは少し身を乗り出して、そう訴えてきた。
「でも、あなたは幻影を見たことが無いのでしょう? できれば、あの天才フィロの気配を感じとることができる人物がいいのですが……。」
「そうですよねえ……、私など、もし犬の死骸でも見ようものなら、バビよりも狂乱するでしょうし、残念ながら、お役には立てそうも無いですね……。」
ジャブーは卑屈になってそう呟いた。私も全く同感だった。非常時の対処に慣れていて、しかも、どんなときにでも冷静に行動できる人間が適任だ。
「わかりました……。ではご希望に沿う人間を探してみます。一人でも構いませんね?」
その問いに対して、私が頷いてみせると、ジャブーは足早に城内へと戻っていこうとした。
「あっ、ちょっと、待ちなさい!」
私はとっさに背後から彼を呼び止めた。
「もう、フィロのことで知っていることはないですか? 私に話していないことは、もうないんでしょうね?」
その言葉を発したとき、ジャブーはとても複雑な反応を示した。顔を青くして、両手両足をうねらせて、まるで、森の中で初めてライオンを見た子リスのようだった。根が単純な人間で助かる。
「最近、城内で起こったことは、全て話しておいてくださいよ。これは必ずです。夜になって、バビが苦しみ、暴れ出してからでは手遅れになりますよ。」
私は厳しく問い詰めた。この男がまだ何か知っているような予感があった。
「いや、そんな……、お話するようなことはもうないのですが……。」
「本当ですか? あなたが最近になって経験したことで、王にも、城内の誰にも話していないことが、まだあるんじゃないですか?」
「いや、それは……。」
そんなことを呟きながら、ジャブーの足は細かく動き、自然と身体が城内へと逃げていこうとしているかのようだった。
「やはり、何か見たんですね? そうですね? 何を見たんですか? この城の中で。」
「いや……、本当に何も見ていません……。ただ……、何度かおかしなことが起きたような気がしただけなんです……。いえ、私の見間違いなんです……。あなたのお役に立つようなことではないんです……。」
彼はそう言い残すと、かなり後ろめたそうに、このバルコニーから姿を消した。もっと早く、奴と今のような話をしておけばよかった。ブロートンや被害者のバビよりも、むしろあの単純な男の方が、この件の核心に迫ることを多く知っているようだと、今になって思い始めた。
すっかり暗くなり始めた森林の風景を眺め、私は一人ため息をついた。しばし考え事をしているうちに、森の方角から湿った生暖かい風が吹いてきた。この風に私の心は大きく揺らされた。まるで、「お前では解決は無理だ。帰れ、森へ早く帰れ。」とそう言われているようだった。そんな辛いことを言われずとも、私の心は城の人間たちから、最初からずいぶん離れてしまっている。貴族たちから、直近の状況を聞かされるたびに、この問題は思っていたよりも根が深く、相当に厄介なものだと痛感させられるし、城で今起こっていることの責任のすべては、他ならぬ貴族たちにあるような気がしてきたからだ。フィロが人間のどこに恨みを抱いているのかは、わからないが、元々の責任が城の貴族にあるのならば、私が彼らに手を貸す義務はない。
慣れない場所に長時間いると、気持ちの浮き沈みが次第に激しくなってくる。頭の中には父の幻影が浮かび、「お前にはこの問題は関係はない。貴族たちを救う必要などない。早く家に帰って森を守れ。」と助言をくれた。良いほうに考えすぎているかもしれないが、今、父が眼前に現れたら、本当にそんなことを言ってくれそうな気がした。悩める少女も、昨夜できたばかりの新しい人間関係も全て捨てて、このまま森へ逃げ帰られたら、どんなに楽だろうか。実際には、どっちつかずのまま、解決のめども全く立たないまま、悪意の時刻、つまり夜になってしまい、私はフィロとの対決の場へと強引に駆り出されるのだろうか。人間たちの協力は私が思っていたよりも、ずいぶん頼りないものだった。このままでは勝ち目がない。そうして二度目に大きくため息をついたときに、私は後ろから誰かが近づいてくるのを感じた。
「こっちの方はどうなんだ? 何か見つかったかね?」
それは王の声だった。私は振り返って、自信なさそうに彼の顔を見た。これは気のせいかもしれないが、彼がずいぶん遠くから帰ってきたような気がした。いったい、どこへ行っていたのだろうか。
「あまり有力な手がかりはつかめませんでしたが、それは仕方ありません。私は今夜、バビの部屋のすぐ近くで警備に当たって、何か異変が起こるのを待とうと思います。」
私はすっかり落ち込んだ顔でそのように言った。
「それはもちろん構わないが……、君は森の民なのだから大丈夫なのかもしれんが、ひとりで平気なのか……? 私も一緒にいようか?」
「いえ、今夜幻想が起こるとは限りませんし、あなたは休んでいてください。異変が起こりましたら、すぐにお知らせしますので……。」
私はジャブーの言葉を思い出して、王を気づかいながらそう言った。
「そうだな……、それほど絵に詳しいわけではないし……、わしまで狂い出してしまったら、かえって、君の迷惑になるだけだしな……、しかし、何か起きたら、すぐ知らせてくれよ。先程も言ったが、原因がフィロの絵画にあるとわかれば、わしは彼の絵だろうが、彫刻だろうが、その芸術の全てを灰にする覚悟があるのだからな。」
私は一応頷いておいた。話はそこで一度途絶えたが、私はすぐに王の上着の裾が汚れていることに気がついた。両方の手のひらも焦げ付いたように黒かった。
「お洋服などが、ひどく汚れているようですが、どこへ行ってらしたんですか? ジャブーも心配していましたよ。」
王はその問いかけに対して、全く表情を変えなかったので、やましいことは何もないらしい。
「いやなに、ついさっき、フィロの絵が原因ではないか、という話が出たときに、君のお父さんが昔よく地下の倉庫に出入りしていたことを思い出したんだよ。何か悪しき物を城内でみつけて、彼がそれを倉庫に移していたのかもしれないからね。しかし、倉庫には怪しいものは別になかったよ……。彼はただ律儀に清掃をしていただけなんだな……。」
王は感慨深くそのようなことを言った。
「あっ、そうだ。こんなものを倉庫で見つけたので君にあげよう。」
王は突然そう言って、私に茶色の革の古い手袋を手渡した。
「こっ、これは父の?」
「そう、君の父さんが使っていたグローブだ。私なんかでは全く助けにはならないだろうが、それなら君の気持ちを支えることができるかもしれないな・・・。」
王はそう言ってから城の中へ戻っていった。王が去ってしまった後も、私はしばらくその汚い手袋から目が離せなかった。ところどころに穴が開いていた。汚れやシミがあちこちについていた。しかし、これこそ、父がかつて城で働いていたことの確たる証拠だった。私はそれを両手にはめ、きつく握り締めた。その朽ちた手袋に弾力は残っていなかった。しかし、父の意志は届いた。
森に逃げ帰ってもいいなどと、父が言うはずがなかった。道が見えなくても、困難を解決するために前に進めと、そう言ってくれるに決まっている。私は城の人間たちに失望して、簡単に全てを捨てさろうとした自分を恥じた。
そして、この城に隠されたフィロの謎を暴くことが、父の後を継ぐ道であると気がついた。たとえ、城の中に味方はいなくとも、かつて森で一緒に生き抜いてきた仲間たちの魂が、私に力を貸してくれるはずだ。
そして、フィロの呪いによって絶望の淵に立たされたときには、この汚れた手袋が私に逆境を跳ね返す勇気を与えてくれるはずだ。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。