少年の夜
遠くに薄々と街明かりが見える。
ガードレールが設置された峠を一台の軽自動車が走っていた。
急なカーブが迫り、車は徐々に速度を落としていく。しかし、そのまま曲がり切る事なく、その場に停車した。
「ごめんね。ごめんなさい。本当に。ごめんなさい」
車の中では何かに取り憑かれた様に、謝罪の言葉を繰り返す女がいた。
彼女は運転席のハンドルに顔を近づけ、何度も、何度も謝罪を口にする。
それがどれだけ続いただろうか。あるいは、とても短い時間だったのかもしれない。夜は明けず、深い闇のまま。
女はふと、我に帰ったかのように顔をあげ、助手席に目をやった。
そこには、小学生ほどに見える少年が眠っている。伸びた前髪が左目を隠していたが、右目の目元は女とよく似ている。彼女の息子だ。
女は柔らかく微笑み、準備に取り掛かった。
車の窓と扉の隙間を埋める為に、ガムテームを目貼りしていく。
それがひとしきり終わると、ほうっと一息吐いて、息子の髪を優しく撫でた。
何かに感慨を来したのか、女の目から涙が伝い、そのまま動作が停止する。
しかしそれも、涙がこぼれ落ちる頃には感慨が去っていったのか、再び動き出すと、後部座席に手を伸ばした。
彼女の手が掴んだのは、ホームセンターのビニール袋だ。その中から取り出されたのは、闇に慣れた目でなければ捉えられない程に黒い物体。炭であった。
彼女は袋の中から七輪、着火剤、ペットボトルを次々と取り出す。その勢いに任せる様にして、炭を七輪に入れる。
息を一つ飲み、火をつける。
穏やかに燃える炎は、彼女の荒れた心を癒す様であり、彼女もまた穏やかな心で、ペットボトルの蓋を開ける。
既に誰かが飲んだのか、中身は半分近くまで減っていた。
彼女は意に介さず、一口で飲み切ると、そのまま目を閉じた。
探る様にして伸ばした彼女の左手は、ひしと少年の右手に繋がれる。
そして、心地よさ、快さ。彼女は、今までの人生で最も穏やかな時を過ごしながら、その意識を失った。
* * *
少年はふわふわとした夢遊感の中で目を覚まし、目前に広がる光景は夢だと判断した。
地面が空にあったからだ。
もう一度目を閉じて、夢から醒めようとする。彼は、夢の中で眠ろうとすれば、目が覚めるものだと考えていた。
しかし、目を閉じていると、自身が見舞われているのは息苦しさである事に気づいた。
そこで、初めて隣の席を見る。彼は言葉を失った。
母親だったものが隣にいる。いや、辛うじて母親であると認識は出来た。
真っ赤に塗りつぶされているけれど、着ている服は母親のものだ。だが、どういう状況なのかが理解できない。
お母さん。そう呼ぼうとしたが、声が出ない。苦しい。声は詰まる様で、外に出ない。何か声の様なものを吐き出そうとするだけ。
とにかく、彼はここにいたくないと思った。とても酷い夢を見ていると思った。悪夢だと思った。
天地が逆転した車内でシートベルトを外す。上から下に身体は落ちるが、潰れて低くなった天井、いや、地面は、彼の身体に大きな負担を与えなかった。
ドアを開けようとする。開かない。焦げ臭い匂いがする。
鍵は掛かっていなかった。ガムテープが目に入る。息が苦しい。
ガムテープのせいで扉が開かないのだと気づき、彼は爪を立て、テープの根本を削り、なんとかテープを剥がそうとする。
早くしないと。どうして?苦しいから。焦げ臭いから。それだけじゃない。
隣にいる、母親みたいな怪物に、食べられてしまうんじゃないかと怖くなったから。
隣にいるのが怪物なのではないかと思った瞬間、彼の指に込められた力は強くなった。
テープが剥がれ始め、ところどころ破けつつも、邪魔な部分は全て剥ぎ取れた。
ドアを開けようとする。指は力を使い切ってしまったのか、なかなか力が入らない。
まだ自分の身体で力の残っているところは、と未熟な思考を駆使して、少年はドアを思い切り蹴飛ばした。
どこかが壊れていたのか、ドアは勢いよく開く。
その瞬間、息苦しさが紛れた。しかし、頭はまだフワフワとしていた。
とりあえず、ここから逃げないといけない。少年は自身の母親に擬態した赤い怪物を一瞥すると、一歩ずつ歩き始めた。
彼は自分がどこを歩いているのかもわかっていなかった。
周囲は暗闇。森の中だとは理解できた。
木々のさざめき、虫たちや鳥たちの鳴き声。
心細い孤独な道程に、それらはいっそ心強く感じられた。
草を踏み凹凸の激しい道から、出来る限りなだらかな道を選び取る。聴覚と足の裏に少年の全ての感覚が集中している様だった。
夢遊感は次第に覚め、彼は今、自身が夢の中ではなく、現実の中にいる事に気づいた。
しかし、だからと言って何かが変わるでもなく、少年は歩みを止めない。
歩くのを辞めてしまえば、怪物に追いつかれてしまう。そうしたらもう、一歩も歩く事は出来ない。
そこでふと、視線を感じる。
横からだった。左側。彼の左目は長い前髪に隠れ、視界は不安定である。
見られている、と自覚してなお、いや、むしろ、彼は顔を隠した。
正面に向いていた顔を右下へ傾け、初めて地面を見る。土の上を歩く靴が映った。
今年も開催された運動会の徒競走。彼は6人中、3位という芳しくない結果であった。
靴が良くなかったのかもしれない。
お弁当を食べていると、少年の母親はそう呟いた。
運動会が終わった後には靴屋に行った。
その時、目に入った中で一番気に入った靴を買ってもらったのだった。彼はそれを思い出す。
あの時はピカピカだった靴も、今は汚れている。月明かりが嫌みたらしく無様さを照らす。
草と泥と土に塗れ、白かった部分に今朝までなかった赤黒い色も混じっている。
少年はなんだか無性に叫びたくなって、息を大きく吸った。そして吐き出そうとした。
しかし出てきたのは声ではなく、うめく様な声を伴った息だけだった。
見るな。
左にいるはずの視線の持ち主に告げる。
見られたくない。誰が見ている。わからない。怖い。少年を何度目かの恐怖が襲う。
しかし、彼は知る事よりも、未知の恐怖を恐れる事にした。
動物であったなら、あるいは気のせいであったなら、何も気にする事はない。
はたして、本当に動物であれば気にする事はないのか、彼にはそこまでの想像力が培われていなかった。
正体を見極める為に意を決して、少年は左に目を向ける。
視線の先に、男の顔が見えた、気がした。
一瞬のことだった。月明かりが雲に閉ざされ、少年が目を向けた先に何かを見る事は叶わない。
視線の感覚も消えた。やはり、見られているというのが、気のせいだったのかもしれない。
彼は思い直して、行き先もわからない道を歩く事にした。
ここまでにどれだけ歩いただろうか。かなり歩いた気がする。足はまだ疲れ切ってはいない。歩くことは続けられる。
そうして、もう少し進んだ先、彼は建物の前に辿り着いた。
少年の目には大きな家に見えた。母親と過ごすアパートの一室よりは余程大きい。大家族の友達の家へ遊びに行った時、色々と羨ましかったことを思い出す。
正面からは玄関のドアと窓が見えたが、電気は点いていなかった。誰もいないのかもしれない。
少年は期待を持たずにドアノブを掴み、そのままノブを捻る。
回った。
鍵を掛け忘れたのだろうか。鍵の差し込み口は確かにあるが、なんの抵抗もなく、扉を開ける事が出来てしまった。
少年にとって、外に比べれば中を恐れる様な理由もなかった。
彼は土足のまま、玄関から廊下へ一歩踏み出す。そのまま前を行く。前に進めば、どこかには着く。戻るという選択肢だけが彼にはなかった。
入り口から見えなかったが、先へ進んでいくと、そこまで歩いてはいなかったが、彼はようやく明るい場所を見つけた。
途中、横引きの扉はあった為、何らかの部屋に繋がっているとは思ったが、開ける事はしなかった。
誰もいないと思っていたからだったが、明かりが見え、少年はここしばらくの間で初めて心が沸いた様な気がした。
そして、明かりの手前まで来た。扉が閉まっているが、光は中から漏れている。電気だ。部屋の電灯だ。
玄関でそうした様に、少年はノブに手を掛ける。そして、引こうとしたところで━━
「あなた、どこから入ったの」
──冷え切った声と、肩に何かが乗る感触があった。