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暗夜の籠  作者: 天木蘭
1/1

少年の夜

遠くに薄々と街明かりが見える。

ガードレールが設置された峠を一台の軽自動車が走っていた。


急なカーブが迫り、車は徐々に速度を落としていく。しかし、そのまま曲がり切る事なく、その場に停車した。


「ごめんね。ごめんなさい。本当に。ごめんなさい」


車の中では何かに取り憑かれた様に、謝罪の言葉を繰り返す女がいた。

彼女は運転席のハンドルに顔を近づけ、何度も、何度も謝罪を口にする。


それがどれだけ続いただろうか。あるいは、とても短い時間だったのかもしれない。夜は明けず、深い闇のまま。


女はふと、我に帰ったかのように顔をあげ、助手席に目をやった。

そこには、小学生ほどに見える少年が眠っている。伸びた前髪が左目を隠していたが、右目の目元は女とよく似ている。彼女の息子だ。


女は柔らかく微笑み、準備に取り掛かった。

車の窓と扉の隙間を埋める為に、ガムテームを目貼りしていく。

それがひとしきり終わると、ほうっと一息吐いて、息子の髪を優しく撫でた。


何かに感慨を来したのか、女の目から涙が伝い、そのまま動作が停止する。

しかしそれも、涙がこぼれ落ちる頃には感慨が去っていったのか、再び動き出すと、後部座席に手を伸ばした。


彼女の手が掴んだのは、ホームセンターのビニール袋だ。その中から取り出されたのは、闇に慣れた目でなければ捉えられない程に黒い物体。炭であった。


彼女は袋の中から七輪、着火剤、ペットボトルを次々と取り出す。その勢いに任せる様にして、炭を七輪に入れる。


息を一つ飲み、火をつける。


穏やかに燃える炎は、彼女の荒れた心を癒す様であり、彼女もまた穏やかな心で、ペットボトルの蓋を開ける。


既に誰かが飲んだのか、中身は半分近くまで減っていた。


彼女は意に介さず、一口で飲み切ると、そのまま目を閉じた。

探る様にして伸ばした彼女の左手は、ひしと少年の右手に繋がれる。


そして、心地よさ、快さ。彼女は、今までの人生で最も穏やかな時を過ごしながら、その意識を失った。


* * *


少年はふわふわとした夢遊感の中で目を覚まし、目前に広がる光景は夢だと判断した。


地面が空にあったからだ。


もう一度目を閉じて、夢から醒めようとする。彼は、夢の中で眠ろうとすれば、目が覚めるものだと考えていた。


しかし、目を閉じていると、自身が見舞われているのは息苦しさである事に気づいた。


そこで、初めて隣の席を見る。彼は言葉を失った。

母親だったものが隣にいる。いや、辛うじて母親であると認識は出来た。


真っ赤に塗りつぶされているけれど、着ている服は母親のものだ。だが、どういう状況なのかが理解できない。


お母さん。そう呼ぼうとしたが、声が出ない。苦しい。声は詰まる様で、外に出ない。何か声の様なものを吐き出そうとするだけ。


とにかく、彼はここにいたくないと思った。とても酷い夢を見ていると思った。悪夢だと思った。


天地が逆転した車内でシートベルトを外す。上から下に身体は落ちるが、潰れて低くなった天井、いや、地面は、彼の身体に大きな負担を与えなかった。


ドアを開けようとする。開かない。焦げ臭い匂いがする。

鍵は掛かっていなかった。ガムテープが目に入る。息が苦しい。


ガムテープのせいで扉が開かないのだと気づき、彼は爪を立て、テープの根本を削り、なんとかテープを剥がそうとする。


早くしないと。どうして?苦しいから。焦げ臭いから。それだけじゃない。


隣にいる、母親みたいな怪物に、食べられてしまうんじゃないかと怖くなったから。

隣にいるのが怪物なのではないかと思った瞬間、彼の指に込められた力は強くなった。


テープが剥がれ始め、ところどころ破けつつも、邪魔な部分は全て剥ぎ取れた。


ドアを開けようとする。指は力を使い切ってしまったのか、なかなか力が入らない。

まだ自分の身体で力の残っているところは、と未熟な思考を駆使して、少年はドアを思い切り蹴飛ばした。


どこかが壊れていたのか、ドアは勢いよく開く。

その瞬間、息苦しさが紛れた。しかし、頭はまだフワフワとしていた。


とりあえず、ここから逃げないといけない。少年は自身の母親に擬態した赤い怪物を一瞥すると、一歩ずつ歩き始めた。


彼は自分がどこを歩いているのかもわかっていなかった。


周囲は暗闇。森の中だとは理解できた。

木々のさざめき、虫たちや鳥たちの鳴き声。

心細い孤独な道程に、それらはいっそ心強く感じられた。


草を踏み凹凸の激しい道から、出来る限りなだらかな道を選び取る。聴覚と足の裏に少年の全ての感覚が集中している様だった。


夢遊感は次第に覚め、彼は今、自身が夢の中ではなく、現実の中にいる事に気づいた。

しかし、だからと言って何かが変わるでもなく、少年は歩みを止めない。


歩くのを辞めてしまえば、怪物に追いつかれてしまう。そうしたらもう、一歩も歩く事は出来ない。


そこでふと、視線を感じる。


横からだった。左側。彼の左目は長い前髪に隠れ、視界は不安定である。


見られている、と自覚してなお、いや、むしろ、彼は顔を隠した。


正面に向いていた顔を右下へ傾け、初めて地面を見る。土の上を歩く靴が映った。


今年も開催された運動会の徒競走。彼は6人中、3位という芳しくない結果であった。


靴が良くなかったのかもしれない。

お弁当を食べていると、少年の母親はそう呟いた。


運動会が終わった後には靴屋に行った。

その時、目に入った中で一番気に入った靴を買ってもらったのだった。彼はそれを思い出す。


あの時はピカピカだった靴も、今は汚れている。月明かりが嫌みたらしく無様さを照らす。

草と泥と土に塗れ、白かった部分に今朝までなかった赤黒い色も混じっている。


少年はなんだか無性に叫びたくなって、息を大きく吸った。そして吐き出そうとした。

しかし出てきたのは声ではなく、うめく様な声を伴った息だけだった。


見るな。


左にいるはずの視線の持ち主に告げる。


見られたくない。誰が見ている。わからない。怖い。少年を何度目かの恐怖が襲う。


しかし、彼は知る事よりも、未知の恐怖を恐れる事にした。


動物であったなら、あるいは気のせいであったなら、何も気にする事はない。


はたして、本当に動物であれば気にする事はないのか、彼にはそこまでの想像力が培われていなかった。


正体を見極める為に意を決して、少年は左に目を向ける。


視線の先に、男の顔が見えた、気がした。


一瞬のことだった。月明かりが雲に閉ざされ、少年が目を向けた先に何かを見る事は叶わない。


視線の感覚も消えた。やはり、見られているというのが、気のせいだったのかもしれない。

彼は思い直して、行き先もわからない道を歩く事にした。


ここまでにどれだけ歩いただろうか。かなり歩いた気がする。足はまだ疲れ切ってはいない。歩くことは続けられる。


そうして、もう少し進んだ先、彼は建物の前に辿り着いた。


少年の目には大きな家に見えた。母親と過ごすアパートの一室よりは余程大きい。大家族の友達の家へ遊びに行った時、色々と羨ましかったことを思い出す。


正面からは玄関のドアと窓が見えたが、電気は点いていなかった。誰もいないのかもしれない。


少年は期待を持たずにドアノブを掴み、そのままノブを捻る。


回った。


鍵を掛け忘れたのだろうか。鍵の差し込み口は確かにあるが、なんの抵抗もなく、扉を開ける事が出来てしまった。


少年にとって、外に比べれば中を恐れる様な理由もなかった。


彼は土足のまま、玄関から廊下へ一歩踏み出す。そのまま前を行く。前に進めば、どこかには着く。戻るという選択肢だけが彼にはなかった。


入り口から見えなかったが、先へ進んでいくと、そこまで歩いてはいなかったが、彼はようやく明るい場所を見つけた。


途中、横引きの扉はあった為、何らかの部屋に繋がっているとは思ったが、開ける事はしなかった。


誰もいないと思っていたからだったが、明かりが見え、少年はここしばらくの間で初めて心が沸いた様な気がした。


そして、明かりの手前まで来た。扉が閉まっているが、光は中から漏れている。電気だ。部屋の電灯だ。


玄関でそうした様に、少年はノブに手を掛ける。そして、引こうとしたところで━━

「あなた、どこから入ったの」


──冷え切った声と、肩に何かが乗る感触があった。

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