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壁の花の令嬢に恋した貴族子息がその本性を知ってしまうまでのお話

※少々下品な描写があります。

 そういうのが苦手な方はご注意ください。

 夜会の会場。その壁の一角に、一輪の花が咲いていた。

 

 きらめく金の髪は、まるではちみつのように滑らかできらめいている。大粒の瞳は澄んだ碧。肌は白磁のように白く、その整った顔はまるで彫像を思わせる完璧な美しさだった。

 身にまとうのは控えめなデザインの空色のドレス。その飾り気のなさが、かえってその令嬢の可憐さを際立たせていた。耳に着けた白い宝石のイヤリングも、彼女の清楚なイメージを高めていた。そんな中、首から下げた青い宝石のネックレスが鮮烈に輝いていた。

 

 その令嬢の周囲に人影はない。まるでその美しさを侵すのをためらうかのように、人が近づくことも無ければ周囲の壁に立つ者すらいない。

 ただ令嬢は、一輪の花のように、夜会の一角で静かに咲いているのだった。

 

 そんな令嬢を見つめる一人の貴族子息がいた。

 男爵子息エモティコ。

 白に近い金の髪。身長は15歳という年齢としてはやや低めで、その顔にはまだ幼さがわずかに残っている。青年と言うよりは、利発な少年と言った方がふさわしい。そんな子息だった。

 

「おお、うちの学園にもついに『麗しき壁の花』が現れたか」

「『麗しき壁の花』?」


 突然隣から聞こえた声。令嬢に見入るばかり、隣に学友のノーマスが来るのにも気づかなかった。

 ノーマスは得意げに語りだした。

 

「ここ最近になって、様々な夜会や舞踏会に現れるようになった、謎の令嬢。いつも会場の隅の壁に立ち、誰とも話さず一人でいる。その美しさに気が引けるのか、声をかける者すらいない。そして開場後、一時間もするとふっといなくなる。

 そんな美しい令嬢は、いつしか『麗しき壁の花』と呼ばれるようになったんだ」

 

 学友はそう説明を締めくくった。

 エモティコは首を傾げた。

 

「いったいどこの家の令嬢なんだい?」

「さあ?」

「さあって……本人に話しかけられなくても、入場者リストとかを見ればわかるんじゃないか?」

「それが秘密らしい。名前すらわからない。だから高貴な人がお忍びで来てるんじゃないかって言われている。とある名家の複雑な生まれの人ではないかとか、失われた太古の王国の血を引くお姫様じゃないかとか、噂はいろいろだよ。

 まあどっちにせよ、俺たち男爵家の人間じゃ、近づくことすら恐れ多い高嶺の花ってやつだな」

「ふうん……」


 本当に美しい令嬢だった。王家の血筋を引いていると言われれば、信じてしまいそうなほどだった。

 でも、どこか。その姿は寂しげに見えた。儚く見えた。放っておいたら、そのままふっと消えてしまうのかもしれない。そんなことを夢想した。

 そう思うと、胸が苦しくなった。

 

「ちょっと挨拶してくる」


 止める学友の手を振り払い、エモティコは歩みを進めた。

 遠目で見ても分かったように、『麗しき壁の花』は美しい令嬢だった。明らかに自分とはランクの違う、ずっと上の令嬢に思えた。心の中にためらいが生じる。でもかまわず進んだ。

 ぐっと気持ちが重くなった。なにか重たいものが背に乗ってきたような重圧感。踏み出す足が重い。ひどく不安な気持ちになる。すぐさまそこを離れたくなった。

 でも、進んだ。なにか予感があった。進めばなにか、素晴らしいことが待っているような、そんな得体のしれない、どこか恐ろしい、しかし心躍る、予感みたいなものがあったのだ。

 

 なにより、寂しそうにしている令嬢を想った。彼女を一人にしてはおけないと思った。

 

 目眩がする。頭が痛む。足がもつれそうになる。でも、それと同時に、なんとも言えない高揚感が湧いてきた。その感覚に圧されるように、歩みを早めた。

 

 そして、遂に。『麗しき壁の花』の元までたどり着いた。

 『麗しき壁の花』の花は、目を見開いて驚いた様子だった。

 驚いていても綺麗な人は綺麗だな……エモティコは、そんな妙な感慨を抱いた。


「隣、よろしいですか……?」

 

 『麗しき壁の花』は何も言わなかった。拒否する様子も見られなかったので、そのまま隣の壁に寄りかかった。

 心臓が早鐘を打っている。まるで全力疾走でもしたみたいに、ハァハァと、貴族にあるまじき荒い息を吐いてしまう。身体が熱い。気分が妙に高揚する。綺麗な人の隣にいるのはこんなに緊張するものかと、エモティコは思った。

 

「退屈していらっしゃったようなので、お話をしに来ました」

 

 そう切り出したが、『麗しき壁の花』は何も答えなかった。こちらに目を向けてさえいない。もしかしたら喋れないのかもしれないと思った。

 でも、嫌がるそぶりは見せなかったので、エモティコはそのまま語りだした。

 こんなにも美しい令嬢が喜ぶような話は思いつかなかった。だから何でもない学園の日常を、ひたすらに語った。

 話が尽き、話題が途切れてしまいそうになったところで、ふっ、と。エモティコに背を向け、『麗しき壁の花』は歩き出した。

 

「あの、どこへ……?」

「帰ります。ついてきてはいけません」


 問う声に、涼やかな声が返ってきた。

 そのとき初めて知った。『麗しき壁の花』は喋れたのだった。

 

 「ついてきてはいけません」という明確な拒否の言葉に、心が震えた。身体の底から得体のしれない熱さがこみあげてきた。その感覚に戸惑い、エモティコはそこから一歩も動けなかった。

 『麗しき壁の花』は、まるで風に散る花びらのように、涼やかな歩みで夜会の会場から去っていった。

 エモティコは、彼女の立ち去った後を、いつまでも名残惜しく眺めていた。

 

「エモティコ、君は凄いな! なんて恐れ知らずな男だ! あとからついていこうと思ったけど、僕は一歩も近づけなかったよ!」


 いつの間にか後ろまで来ていた学友のノーマスに、またしても突然に話しかけられた。

 

「何を話していたんだ?」

「別に……向こうは全然しゃべらないから、僕が一方的に学園での出来事を話しただけだったよ……」

「なんだそりゃ? じゃあ正体は謎のままなのか」

「うん、でも……すごくドキドキした。素敵な時間だったよ……」


 エモティコは自らの胸に手を当てた。まだ心臓は高鳴っていた。




 それから、エモティコは夜会に積極的に参加した。会場の壁に目を向ければ、いつも『麗しき壁の花』はいた。

 エモティコはそこに近づき、学園での平凡な日々をひたすらに語った。

 『麗しき壁の花』は、いつも彼に目を向けることはなかった。でも、彼を拒否することもなかった。

 目を向けてすらもらえず、ただ一方的に話すだけ。普通なら気持ちが負けてしまいそうな状況だが、エモティコはちっとも嫌ではなかった。むしろ、自分が必死に話しかけても自分の在り方を崩さない『麗しき壁の花』に魅了された。二人でいるときはすごくドキドキした。

 

 だが、終わりはいつも同じだ。夜会が始まって一時間が過ぎると、『麗しき壁の花』は会場を去ってしまう。

 

 ずいぶん話しかけているのに、ちっとも距離が縮まった気がしない。それがもどかしく、でもそのこと自体がエモティコをドキドキさせるのだった。

 

 そんな日が続いた、ある夜のことだった。




「だから坊ちゃんは、もうちょっと息抜きした方がいいですよ。たまには他の女にも目を向けるべきです」

「えー、他の女の人なんて興味湧かないよー。『麗しき壁の花』さんはすっごく綺麗なんだよー」


 街の一角の、ごくありふれた定食屋のテーブルの一つ。

 平民の服をまとったエモティコと、彼の家の使用人であるアンプーロがいた。引き締まった立派な体格で、顔つきも精悍だ。だがその表情は柔和で、彼の人当たりのよさがうかがえた。

 アンプーロは子供の頃からエモティコの家に仕えており、エモティコとは身分を越えた親しい仲だった。

 

 エモティコはアンプーロに連れられ、しばしば平民を装って街を訪れた。貴族として様々な制限の中で生きるエモティコにとって、平民になって街に繰り出すのは最高の息抜きだった。

 エモティコは平民ではめったに見られない美しい金髪に整った顔立ちの美少年である。一目見ただけで、大抵の者が貴族と気づく。もっとも、彼がお忍びで来ているのは明らかであり、進んでちょっかいをかけてくる者もほとんどいなかった。


「いやいや、世の中は広いですよ。最近、この定食屋ですごくかわいい娘が働いているって評判なんですよ。見れば坊ちゃんも少しは見聞が広がるってもんです」

「う~ん。確かに平民のかわいい女の子は、貴族のお上品な令嬢とはちがった良さがあるけどさあ。僕のはそういうんじゃないんだよ~。一途なんだよ~」

「ほら来ましたよ坊ちゃん!」


 頭の後ろで結わえた茶色の長い髪を揺らしながら、定食屋の給仕はやってきた。

 年のころはエモティコとさほど変わらないだろう。目鼻立ちは整っており、はじけるような笑顔がそれを更に魅力的なものに見せている。大粒な薄い茶色の瞳は店内の薄明りの中できらめき、目を引かれる。

 簡素な給仕服からうかがえるスタイルはいい。意外と胸あり、腰から足に欠けての伸びやかなラインは健康的な色気を発していた。

 溌溂としたかわいい少女だった。


「お待たせしました! ご注文をどうぞ!」


 給仕の娘の声が二人のテーブルに響いた。彼女の元気な声に、まぶしい笑顔に、辺りがぱっと明るくなったように思えた。

 アンプーロは得意げに、自らの主人であるエモティコの方を見た。

 エモティコは予想以上の反応を見せていた。彼は驚愕に目を見開き、定食屋の給仕を一心に見つめているのだ。

 そして、エモティコはいきなり立ち上がった。

 

「『麗しき壁の花』さん!」


 突然の大声に、店内中の目が集まった。

 給仕は驚いて一歩下がった。エモティコは一歩詰め寄って、彼女の顔をじっと見た。


「僕にはわかる! あなたは『麗しき壁の花』さんだ! でもあれ、金髪はどうしたの!? 瞳の色も違う!? そもそもなんで定食屋で働いてるんです!?」

「あ、あの~、お客さん? 誰かと人違いをしているんじゃないですか? あたしはただの定食屋の店員で、うるわしき……なんとか、ですか? そんな変な名前は聞いたこともないですよ?」


 辺りを気にしながら、給仕は否定する。

 だがエモティコは止まらなかった。


「いいえ、僕にはわかります! ずっと見てきました! 夜会で話しかけている間中、あなたの顔をずっと見つめていたんです! 」

「いやー、なんのことかわかりませんねー。何を言ってるんでしょうかこのお客さんは……」


 給仕は目をそらして否定する。だがエモティコはじっと見つめるばかり。そこには彼女が『麗しき壁の花』と疑いを持っておらず、後に引く気もまるで感じられなかった。

 アンプーロも主人の突然すぎる行動に、止めるべきだと思いつつ、手を出しかねていた。

 

 給仕は否定を続けたが、やがてあきらめたように、はーっと大きなため息をついた。

 

「……わかりました。そのことはあとでお話しします。でも今は仕事中です。夕食時の稼ぎ時なんです! だから、お客さん!」


 ひきつった笑顔で、給仕はペンと品書き用のメモを見せつけるように手に取った。

 

「ご注文を、お願いします!」


 エモティコはようやく止まった。この場での追及はあきらめ、ひとまず料理を頼むことにした。

 

 


 エモティコとアンプーロは、定食を食べた後、紅茶とデザートを頼んで時間をつぶした。

 やがて夕食時が終わり、店に空席が目立ち始めたころ。給仕の娘に呼び出されて、店の裏の路地に連れてこられた。表通りからは見えない場所だ。

 アンプーロは周囲を注意深く見まわした。街の治安はそう悪くないが、こういう場所での強盗は珍しくない。ましてよくわからない事情の娘から呼び出された場所だ。

 だが、エモティコにはそんな危険に対する注意はまったくなかった。彼にはどうしても明かさねばならないことがあったのだ。

 

「……『麗しき壁の花』さんですよね?」

「あたしはウォルファーナ。ただの平民の娘です。貴族様の言っている『麗しき壁の花』のことについては……ちょっとあたしからは話せない事情がありましてね」

「話せない事情?」

「もし『麗しき壁の花』について問い詰められたら、これを見せるように言われています」


 そう言って定食屋の給仕ウォルファーナが取り出したのは、一枚のハンカチだった。平民の娘が持つには似つかわしくない、上等なシルクのハンカチだった。

 そこに刺繍された紋章と名に、エモティコは驚愕した。

 アンプーロが心配げに声をかける。


「どうしたんです坊ちゃん? そのハンカチに書かれた名前に、見覚えがあるんですかい?」

「この名はアルティザーナ伯爵令嬢。魔道具の開発で有名な大貴族だ……!」

「は、伯爵ぅ!?」


 エモティコは男爵子息だ。伯爵と言えばずっと上位の貴族となる。いきなり現れた大物の存在に、アンプーロは慄いた。

 

「今日のことは、このハンカチの持ち主に報告します。持ち主から連絡があるまで、『麗しき壁の花』の件については、どうか内密にお願いします」


 ウォルファーナはペコリと頭を下げた。

 エモティコは震えながら、こくこくとうなずくことしかできなかった。




「し、失礼します!」

「どうぞー」


 定食屋の一件から数日後。エモティコは、アルティザーナ伯爵令嬢から、その屋敷へと呼び出された。

 正装に身を固め、指定された時間通りに屋敷に訪れると、屋敷の執事によって案内された。

 そうしてたどり着いたのは、屋敷の地下だった。飾り気のない廊下を進み、その一番奥。簡素な造りのドアをノックすると、気さくな声で迎えられた。

 おそるおそるドアを開けた。

 

「やあやあ、我が研究室によく来てくれたねエモティコ男爵子息」

「お招きにあずかり光栄です、アルティザーナ伯爵令嬢」


 エモティコは貴族の正式な作法に則り、礼をした。


「まあ、そう固くならなくていいよ。まずは頭を上げてくれたまえ」


 頭を上げると、彼を出迎えたアルティザーナ伯爵令嬢の姿が目に入った。

 

 年の頃はエモティコより少し上だろう。おそらくは17歳くらい。長い黒髪。切れ長の瞳もまた黒。柔和な笑みを浮かべている。気安い表情は、その整った顔立ちにはなんだか似合っていないように思えた。ダボッとした白衣から覗く手足は細い。ドレスでも着れば、きっとすらりとした美人として夜会で注目を浴びることだろう。

 

 部屋は地下にあるとは思えない広さだった。それなのに、第一印象は「狭苦しい」だった。部屋の壁面には棚が並んでおり、そのどれも、中にはぎっしりと、様々な本や得体のしれない実験道具が詰まっている。その物量が圧迫感を与えてくれるのだ。

 

 だが、何よりエモティコの目を引いたのは、部屋の中央に置かれたテーブルについた少女の姿だった。

 蜂蜜のような金の髪。白磁のような白い肌。そして碧の瞳。

 間違いない。その令嬢を、彼が見間違えるはずもない。

 

「『麗しき壁の花』さん!?」


 思わず叫んでしまった。

 きらびやかに整った夜会ではなく、こんな雑多な研究室にあるのは何とも言えない違和感があった。

 なにより、壁のそばに立つのではなく、椅子に座っている。その姿になんとも言えない衝撃を受けた。


「ふふふっ、そう、彼女こそが社交界で名を馳せた『麗しき壁の花』その人だ。しかして、その正体は!」


 口上と共に、アルティザーナは『麗しき壁の花』に手のひらを向けた。すると『麗しき壁の花』はコクリとうなずくと席を立ち、その耳から白い宝石のイヤリングを外した。

 するとたちまち、美しい金の髪は薄い茶色に、澄んだ碧眼は薄茶へと変わった。白磁のように美しい肌も、その白さを落とし、赤い色味が増した。

 『麗しき壁の花』と謳われた令嬢の研ぎ澄まされた芸術品のような美しさは失せた。代わりに現れたのは、野に咲く花のような、溌溂としたかわいい町娘だった。

 

「街の定食屋の看板娘ウォルファーナでした!」


 ウォルファーナはニコリとほほ笑み、ぺこりと頭を下げた。

 どうやらエモティコの訪問に備え、あらかじめこういうことをする段取りになっていたらしい。

 その動きはたどたどしく、あまり上手い芝居とは言えなかった。しかしエモティコに与えた衝撃は大変なものだった。

 

「や……やっぱり同一人物だったんですね……」


 衝撃にあえぎながら、エモティコはどうにか言葉を絞り出した。

 目の前で繰り広げられた変化には驚かされたが、同一人物だということは、事前に気づいていたのである。

 

「彼女がつけていたイヤリングは魔道具だ。効果は見ての通り、髪の色と肌艶の色味を変える効果がある。ただそれだけの変化でも、印象は一変する。事実、『麗しき壁の花』が平民の娘と疑うものなどいなかった。それなのにエモティコ君。君はよくわかったものだね」


 熱のこもった目で、『麗しき壁の花』こと、ウォルファーナを見つめながら。エモティコは熱っぽく語った。


「彼女のことは、ずっと見ていましたから」


 熱い視線を注がれ、ウォルファーナはすこし頬を染めた。


「左ほおのほくろの位置と耳の形と前歯の形はちゃんと覚えていました。だから、すぐにわかりましたよ!」


 まるで当たり前のことのように語るエモティコ。


「えっ、こわっ」


 ウォルファーナの顔の赤みが失せ、一歩後ろに引いた。


「そう言ってやるな、ウォルファーナ君。恋する男と言うものは、時として気持ち悪いくらいの観察眼を女性に向けてしまうものなのだよ」


 アルティザーナは話を区切るように、パンと両手を合わせた。


「さて、話を戻そう。私は魔道具の研究をしている。現在は社交界で役立つ魔道具の開発に勤しんでいる。そこでこのウォルファーナ君に協力願っているわけだ」

「なるほど、そういうことだったんですね……それにしても、実にすごい魔道具ですね。あんなにきれいな髪は初めて見ました」

「なに、この魔道具『髪とお肌の(キュート・)お色直し(メイクオーバー)』は大したものじゃない。見ての通り、髪の色を変えて肌をちょっと綺麗に見せるだけのものだ。あそこまで美しい令嬢に変貌したのは、ウォルファーナ君のもともとの美しさによるところが大きい。

 だが、『麗しき壁の花』という異名をもつほどに至ったのは、その美しさだけではない。もうひとつの魔道具によるものが大きいのだよ」

「あっ、それは!?」


 そう言ってアルティザーナが取り出したのは、青い宝石のネックレスだった。それは夜会の場で、『麗しき壁の花』がいつもつけていたものだった。


「これは『気が進まねば(ネガティブ・)人は進まず(ディレイ)』。社交の場専用の『人よけ』の魔道具だよ」

「『気が進まねば(ネガティブ・)人は進まず(ディレイ)』……え、社交の場専用の『人よけ』? 人と話すのが大切な社交の場で人よけをするって、どういうことなんですか?」


 貴族の重要な仕事の一つは、人間関係の構築だ。夜会を始め、社交の場はそのための戦場と言える。

 その戦場で武器となるのは、美しさと話術だ。特に美しさは重要だ。高級な服や装飾品で着飾って爵位を示し、人の興味と好意を集めることがなにより大切なことである。

 貴族は誰でも知っていることであり、まだ学生であるエモティコも幼い頃から厳しい教育を受けてきた。

 そんな場所で「人よけ」などというものが必要などとは考えたこともなかったのだ。

 

「いやいや、これが意外と潜在的な需要があるのだよ。

 例えば、立場上夜会に出席だけはしなくてはならないが、無駄な人間とは話したくない高位貴族。

 例えば、特定の相手とだけ話すため、他の人間の干渉を避けたい子息。

 例えば、浮気がちな婚約者に女だけを近寄らせないようにしたい令嬢。

 本来は己の立ち回りや話術で対応すべきことだけど、なかなか思い通りにはいかないものさ。それを魔道具で補えるとなれば……売れるよ、これは」

「なるほど……言われてみると、そういうのがあれば便利なのかもしれませんね」


 エモティコにとって、社交の場と言えば、まだ学園の夜会ぐらいしかない。それでも立ち位置や話す相手など、考えることが多い。慣れないうちは随分と気疲れしたものだ。学園を卒業したら、人間関係はより複雑となり、苦労も増すことだろう。

 もし、魔道具で余計な人間が寄ってこなくなれば、その苦労が少しは軽減されるのではないかと思えた。


「すごいです! そんなこと、今まで考えたこともありませんでした」

「はは、ありがとう。でもまだまだ研究段階でね。今のところは細かな選択はせず、無差別に人を寄せつけない仕様となっている」


 言われて思い起こされるのは、夜会で目にした光景。

 壁の隅に立つ美しい令嬢。誰もが注目しているのに、近づくことはできない。ついた異名は『麗しき壁の花』。



「凄いじゃないですか! ほとんど完成しているじゃないですか!」

「そう、ほぼ完成していた。だがそこに、君と言うイレギュラーが発生した」


 急にアルティザーナの声のトーンが下がった。先ほどまで浮かべていた柔和な笑みは消えた。その瞳は冷え、奥底まで見通そうという研究者の意思が感じられた。

 

「エモティコ君。君のことは事前に調べさせてもらった。学業も魔法の実技も中の上。なかなか優秀だが、特別優れた魔力を持っているわけでも、特殊なスキルや耐性を持っているわけではない。『気が進まねば(ネガティブ・)人は進まず(ディレイ)』の効果を突破できるとは思えない。君はいったい何者なんだい?」

「そう言われてもわかりません。そもそも、『気が進まねば(ネガティブ・)人は進まず(ディレイ)』は『人よけ』の魔道具だそうですが、具体的な効果はなんなんですか? あ、秘密なら無理に話さなくてもいいですけど……」

「なに、隠すほどの事じゃあない。『気が進まねば(ネガティブ・)人は進まず(ディレイ)』の効果は、ちょっとした『デバフ』だ」

「『デバフ』? 攻撃力を下げるとか、毒の効果を与えるとかの、状態異常を与える『デバフ』のことですか?」

「そう、その『デバフ』だ。『気が進まねば(ネガティブ・)人は進まず(ディレイ)』の『デバフ』は実に単純なものでね。『約10メートル以内に近づいたものに対して、軽度の頭痛と倦怠感を感じさせる』というものなんだよ」

「え? それだけなんですか?」


 壁際に立つ美しい令嬢。

 誰もが注目しながらその美しさゆえに近づけない。

 そんな幻想的な光景を、軽い頭痛と倦怠感が作り出しているなんて、とても思えなかった。

 

「それだけだよ。いったい何だと思っていたんだい?」

「何て言うかこう……もっと高度な精神系の魔法でも使っているかと思いました」

「はは、そんな強力かつ危険な魔道具、夜会に持ち込めないよ。頭痛や倦怠感と言っても、きわめて軽度のものだ。

 だが、興味本位で美しい令嬢に話しかけようという意思を削ぐには、実のところそれだけで十分なんだ。人は自分に対するダメージを本能的に避けるものだからね」

「へえ……あれ、じゃあどうして『麗しき壁の花』はしゃべらなかったんですか? 魔道具の発動条件とかだったんでしょうか?」

「違うよ。ウォルファーナ君が平民の娘だったからさ。彼女の容姿は優れていたが、さすがに貴族の令嬢のような教育は受けていない。いかに着飾っても、喋れば平民とばれてしまう。魔道具の仕様上、人と話す機会はほとんどないから、わざわざ貴族の言葉遣いを教育したりはしなかった。

 だから彼女には、会場にいる間はなるべくしゃべらないよう厳命していたのさ」

「そもそも、どうして平民の娘を貴族の社交界に出そうとしていたんですか? 伯爵ほどの魔道具の研究家なら、協力してくれる貴族の令嬢もいたと思うのですが……」

「おいおい、貴族の令嬢にこんな実験をやらせるわけにはいかないだろう? 一時のこととは言え、人をよせつけないなんて評判が立ったら、その令嬢の人生に悪影響を与えかねない。

 魔道具で姿を変えればその問題も解決できるが、それで美しくするのも、実のところ限界がある。実験の都合上、魔道具なしでも人の目を引くレベルの容姿でなければならない。もともと人が寄ってこない令嬢なら、人よけの魔道具の効果がわからないからね。

 こんな実験に付き合ってくれる物好きで、夜会の中心になれるほど美しい貴族令嬢なんて、そうそういるものじゃないさ。貴族とのしがらみがない平民で、しかも優れた容姿を持つウォルファーナ君は、まさに適任だったというわけさ」


 『髪とお肌の(キュート・)お色直し(メイクオーバー)』と『気が進まねば(ネガティブ・)人は進まず(ディレイ)』。それを纏うのは『平民の娘』。

 社交界を噂となった、幻想的とも言える『麗しき壁の花』の舞台裏は、実に単純かつ合理的なものだった。

 

「そうした準備を整えた実験だった。そこで、君の登場だ。エモティコ君、君は軽度の頭痛と倦怠感に苛まれながら、『麗しき壁の花』に近づいた。そこまではいい。だが毎回、一時間近くも一方的に話し続けた。普通はやらない。大抵の人間ならどこかで挫ける。だが君は続けた。これは実に異常なことだ。魔道具の開発者として、私はその原因を知らねばならない」


 鋭い視線にさらされた。

 だがもう、エモティコの中に恐れはなかった。

 彼には自分の気持ちに気づいていた。確信していた。

 

「それは、きっと、『麗しき壁の花』に魅かれていたから……」


 エモティコは、ウォルファーナを見た。

 『麗しき壁の花』の儚い美しさとは違う。髪の色も瞳の色も違う。彼の思い描いた令嬢は、そこにはいない。

 それでも、彼の心が揺らぐこととはなかった。


「彼女のことを、好きになったからなんです……」


 ウォルファーナは顔が真っ赤になった。


「や、やだなあもう! お貴族様が、こんな町娘に……もう! もうっ! からかわないでくださいよっ!」


 ウォルファーナは手をパタパタと振った。

 幼い頃から礼法を仕込まれた令嬢なら見せないような仕草だ。

 今のエモティコにとってはその姿もいとおしく思えた。

 アルティザーナは柔和な笑みを浮かべ、そんな二人に拍手を送った。二人は照れ臭そうに縮こまった。

 

「なるほどなるほど、愛の力か。私は魔道具の研究者だが、人の心の力を軽んじたりはしない。愛が障害を突破する。実に美しい、素晴らしいことだ」


 そこで、アルティザーナは柔和な笑みをひっこめ、再び冷静な研究者の顔に戻った。


「だが私がこれまで観察した限り……エモティコ君。それは君が思っているほど美しい愛ではない思うんだ」

「え? それってどういう……」


 エモティコの疑問の声を聞き流し、アルティザーナは一枚の羊皮紙を取り出した。

 

「ウォルファーナ君。エモティコ君に向け、これを読み上げてくれたまえ」


 ウォルファーナは手渡された羊皮紙に目を通す。その顔は驚愕にこわばった。

 

「え、なんですこれ……ええ!? こんなのを読めって言うんですか!? い、嫌ですよ! なんでこんな……」

「心配することはない。それを読むことで何が起きようと、君の安全は保障する。このアルティザーナ伯爵の名に懸けて誓ってもいい」

「でもぉ……」

「いいから読め。鬨の声を上げる戦士のように勇ましく、攻撃魔法を放つ魔導士のように朗々と、アンデッドを浄化する僧侶のように容赦なく、感情を込めて読み上げるのだ。これは雇用主としての命令だ。拒否は許さない」

「……はい。わかりました」


 鋭い目でにらまれて、ウォルファーナはしぶしぶ了承した。

 ウォルファーナは平民だ。雇用主の、それも貴族の命令は絶対だ。逆らえるはずもなかった。

 彼女は一度大きく深呼吸すると、アルティザーナの指示通り、紙に書かれた内容を高々と読み上げた。

 

「この『麗しき壁の花』に言い寄るとは、貴様は何様のつもりだ! たかが貧乏男爵の子せがれが、身の程をわきまえろ! 恐れを知らぬ愚か者め、恥を知れ!

 その卑しさにふさわしく、床に這いつくばって頭を垂れ、みじめに赦しを乞うがいい!」


 恐るべき暴言だった。平民が貴族に対しこんなことを言ったりしたら、その場で処断されても文句は言えないほどの苛烈な言葉の数々だった。

 ウォルファーナは震えていた。伯爵であるアルティザーナに身の安全を保障されたところで、エモティコの怒りにさらされるのは恐ろしかった。ウォルファーナにとっては貴族である彼もまた恐ろしい。貴族と言う身分は、平民である彼女の命などたやすく奪える存在なのである。

 ましてついさっき、自分に想いを伝えてきた相手である。そんな相手にこんな言葉。恋愛における男の逆ギレというのは、ただそれだけで恐ろしいものなのだ。

 

 だがその言葉は、ウォルファーナの心配とはまったく異なる効果をもたらした。

 エモティコは椅子を蹴倒すように床に転がると、はいつくばって床に頭をつけたのである。


 いかにアルティザーナの指示だったとはいえ、平民の、それも「這いつくばれ」などという言葉に、貴族が間髪入れず従うなど、およそありえないことだった。

 一瞬の沈黙が下りた。

 そんな中、がばりとエモティコが頭を起こした。

 その顔は耳まで赤く染まり、口からはハァハァと荒い息を吐きながら叫んだ。

 

「ハァハァ……はっ!? ぼ、僕はいったい何を!?」

「え、え、え!? いったいどういうことなんですかーっ!?」


 エモティコもウォルファーナも、予想外の出来事に慌てふためいた。


「ア、アルティザーナ様! 何かの魔法ですね!? 今の羊皮紙は、魔法の巻物か何かだったのですね!?」

「え、これ魔法の道具なんですか!? 高級品ですか!? あたしなんかが使っちゃってよかったんですかー!?」


 アルティザーナはやれやれと肩をすくめた。


「違うよ。それは魔法などなにひとつかかってないただの羊皮紙で、書かれているのはただの冗談だ。エモティコ君がそこまでの反応を見せたのは予想外だったが……しかし、これで『気が進まねば(ネガティブ・)人は進まず(ディレイ)』を突破した理由がはっきりした」

「そ、それはいったい……!?」


 アルティザーナはエモティコを指さし、厳かに告げた。


「どうやら自覚は無いようだが、君は『被虐性欲者』なのだ」

「被虐……性欲者?」

「痛みや苦しみ、羞恥心や屈辱感を与えられると、快感に変換して受け取ってしまう者のことだ。

 平たく言えばマゾ! いじめられると喜んじゃうタイプの変態と言うことだ!

 だから『気が進まねば(ネガティブ・)人は進まず(ディレイ)』による頭痛や倦怠感にひるまず進めた。いやむしろ、気持ちよかったんだろうね」


 ウォルファーナが素早く距離を取った。彼女は普段、下町で済む平民だ。大人の男女のやりとりについてはそれなりに知っていたし、そういう特殊な趣味が存在することも知ってはいた。

 だがそうした人間を目にするのは初めてだった。ましてや相手は貴族であり、自分より年下に見えるかわいらしい少年なのだ。

 いろいろな意味で受け入れがたい存在だった。

 ちょっと前まで漂っていた甘い空気は完全になくなってしまった。


「違います! 僕はそんな変態なんかじゃありません!」


 エモティコは泣きそうになりながら否定した。

 何が何だかわからないが、心惹かれたウォルファーナの前で変態呼ばわりされるのは嫌だった。変態と言われるたびに、心臓がドクドクと脈打ち息が荒くなった。

 アルティザーナはそんな彼をじっと見つめながら、静かに告げた。

 

「よろしい。ならば身の潔白を証明したまえ」

「……なにをすればいいんですか?」

「なに、簡単なことだ。今すぐ立ってみたまえ。ただ立ち上がり、両手を下げ、気をつけの姿勢を取るだけでいい。それだけで君は自らの潔白を証明できる」


 エモティコは言葉に従い、片膝を立てた。

 だが、そこで止まった。それ以上動けなかった。

 彼は片膝を立て、両手で股間を押さえた状態から動けなくなった。

 

 男性は、性的興奮状態になると身体の一部が変化する。立ち上がるとそれが明らかになる。

 そうした時、男は立てないのだ。特に見目麗しい女性たちの前で、立ち上がることなどできなくなるのだ。

 エモティコは、その身の潔白を証明することが、できなかった。


「ああ、まさかこんな人だったなんて……」

「今更だねウォルファーナ君。そういえば君は、エモティコ君に悪い印象は持ってない様子だったね。

 一言も返してこない令嬢にひたすら話しかけてくる男なんて、気持ち悪いと思わなかったのかい?」

「……最初は迷惑に思ってました。でも、なんて言うか、あの人はひたむきで、一生懸命で。夜会で立ちっぱなしなのは退屈だったから、彼が学園の話をしてくれるのは、正直うれしかったんですよ。それがまさか、あんな変態だったなんて……」

「彼は『気が進まねば(ネガティブ・)人は進まず(ディレイ)』の『デバフ』を受けていた。美しい令嬢のそばで軽い頭痛と倦怠感に苛まれながら、学園の日常を語る……彼の性癖を考えれば、これはまた倒錯した快楽を得られそうな状況だったのだろうね」

「うっわー、最悪ですね……」

「まあそう言ってやるな。彼の性癖は自分ですら知らなかったことなんだ。君に抱いた恋心は、普通の男のものとそう変わりないさ」

「全然違います! ああもう、気持ち悪い!」


 ウォルファーナとアルティザーナが彼のことを悪しざまに語り合う声を聴きながら、エモティコは必死に立ち上がろうとしていた。

 だが、身体は反応してしまう。二人の乙女を前に、自分一人跪いているという状況が動悸を速くする。恋心を向けた相手の口から出る蔑みの言葉が、身体に甘い痺れを走らせる。

 股間はちっとも治まらない。それどころかますます血流が集中してくる。

 自分の身体がここまで思い通りにならないのは初めてだった。自分の本性がこんなおぞましいものだったものだなんて知らなかった。あまりの情けなさに、遂にエモティコはボロボロと涙を流した。

 

 そんなエモティコを見て、ウォルファーナは困惑の表情を浮かべた。彼のことを嫌えばいいのか、哀れめばいいのか、よくわからなくなったのだ。

 

「アルディザーナ様、今日はもうおしまいにしましょう。なんだか気の毒になってきました」

「ああ、そうだね。疑問は解消できたし解散にするか。いやあ、魔道具の致命的な不具合ではなくてよかった。人よけの魔道具を売る時は『※マゾには効果が薄い』と注意書きすることにしよう」

「それと……できれば今後の実験から、学園の夜会は外してもらえませんか。何て言うか、気まずくって……」

「ああ、私としてもそのつもりだ。特殊なサンプルの存在する環境を逃すのも惜しい気はするが、実験中のトラブルは避けたい。『麗しき壁の花』の参席スケジュールは、また組み直しだな」

「これでこの人とはお別れですね……」


 ほっとしたように息を吐くウォルファーナ。

 だが、アルティザーナは首を振った。

 

「いやいや。残念だけど、そうはならないよ」

「え? 学園の夜会に出なければ、この人との接点は無くなりますよね?」

「君の働いている定食屋は既に知られているのだろう? 今後も彼からのアプローチがあるに決まっているじゃないか」

「え? 嘘でしょ? こんな情けない姿をさらして、まだ言い寄ってくる男なんているわけないでしょう!?」


 ウォルファーナにびしりと指さされ、エモティコは気まずそうに顔を伏せた。

 

「確かに普通ならそうだろう。だが彼にとって、こうして情けない姿をさらすことそのものが快楽となる。さきほど告白まがいのことを言ったことからもわかるように、彼の執着は本物だ。近いうちに正式なプロポーズをしてくることだろう」

「嘘でしょ!?」


 ウォルファーナは信じられないと言った目で、エモティコの方を見る。

 エモティコは顔を伏せたまま何も語らない。だが、この状況で否定の言葉をせずに沈黙することは、肯定しているも同然だった。

 ウォルファーナは顔を青ざめさせ、わなわなと震えた。

 

「さて、ウォルファーナ君! 君には二つの選択肢がある」


 アルティザーナはウォルファーナを指さし語り始めた。

 

「一つは、『プロポーズを受けてしまう』ことだ」

「絶対嫌です!」

「まあ聞け。彼は貴族で、君は平民だ。もし彼が本気で君を娶ろうとしたら、抵抗することなどできはしないよ?」

「ううっ……!」


 ウォルファーナは言葉に詰まった。

 今の世は封建社会。身分差は絶対だ。結婚間近の平民の娘が年配の貴族に見初められ、婚約者と引き離されるなんて悲劇もそう珍しいことではない。

 貴族の実験に付き合っているとはいえ、ウォルファーナは定食屋で働くごく普通の町娘に過ぎない。貴族が本気で彼女の身柄を要求すれば、抵抗などできない。

 アルティザーナとはあくまで雇用関係に過ぎない。彼女は極めて理性的な人間で、情は薄い。魔道具の実験が終われば、他の貴族と事を構えてまで平民の娘を守ったりはしないだろう。

 訪れうる暗い未来を想像し、ウォルファーナは震えあがった。

 

「まあそう悲観することはない。彼は見ての通り、君に罵倒されることでよろこぶ変態だ。妾だろうと正妻だろうと、家庭内での立場は彼より上でいられるだろう。頭の上がらない男を顎で使い、平民とは比べ物にならない裕福な生活をする。それはなかなか快適なものだと思うよ」


 そう言われると、ウォルファーナも少し心を動かされるものがあった。

 『麗しき壁の花』として見続けてきた優雅できらびやかな貴族の世界は、やはりあこがれるものがあった。

 確かにしあわせなことかもしれない。夫が変態なことを除けば。


「……いや、ないない! ないです!」

「ちょっと迷ったね?」

「そんなことありません! そ、それで! もう一つの選択肢と言うのは?」

「もう一つの選択肢は簡単だ。『苛烈な言葉で拒否し続けること』だ」

「……え? でもたった今、貴族の誘いを平民が断ることなんてできないって……」

「普通はできない。だがさいわい、彼はマゾだ。しかもこれまでのやりとりを鑑みるに、言葉責めを極めて好む。君が強い言葉で徹底的に拒否すれば、彼は性的快楽に満たされ、引き下がるだろう。()()()()()()()、君が娶られることはない」

「拒否し続ければ……?」

「強い言葉で拒否すれば、彼は一度は引き下がる。そして再びやってくる。彼の君への執着は本物だし、君のところを訪れれば『強い言葉で拒否してもらえる』からね。彼にとってはご褒美だ。きっと何度もやってくることだろう」

「ええ!? そんなの嫌ですよ!? そんなこと、いつまでもやってられるわけないじゃないですか!」

「いつまでも、というわけじゃない。彼も貴族だ。そろそろ縁談で婚約相手も決まることだろう。およそ1年、長くて2年。それくらいを凌ぎ切れば、彼は来られなくなるはずだ。まともな貴族の令嬢なら、婚約者が平民の娘のところへ、罵倒を受けるために通うことなんて許さないだろうからね」

 

 かくして、ウォルファーナに選択は示された。

 娶られるか。拒否し続けるか。

 

 エモティコを見た。

 サラサラの、白に近い金の髪。涙にぬれた青い瞳。彼は美しい少年だった。不安げに彼女を見る姿は、捨てられた子犬を思わせる。思わず抱きしめたくなるような、儚い姿だった。

 

 しかし忘れてはならない。彼は両手で、未だ膨らんでいる股間を押さえている。平民の娘から見下されているというこの状況に、彼は性的に興奮しているのだ。

 

 だから、ウォルファーナは。

 

「無理! ぜーったいムリ! いくら貴族だからって、あんたみたいな変態に、あたしがなびくことなんて絶対無いんだから! もう二度とあたしの目の前に現れないで! ヘンタイ! ヘンタイ! ヘンタイーッ!」


 とにかく思いつく限りの罵倒をすると、研究室から逃げ出した。

 エモティコはしばらく固まっていたが、やがて支えでも失ったように、ぱたんと倒れた。

 アルティザーナはしゃがみこむと、エモティコに話しかけた。

 

「やあやあエモティコ君。満足したかい?」

「申し訳ありませんが、アルティザーナ様……メイドを呼んでいただけませんか……その、なんていうか、下着の中が大変なことになってしまって……」

「……君ねえ、私も貴族の令嬢だ。乙女なんだよ。その部屋で粗相をするなんて、ちょっとどうかと思うよ」

「ああ……そんな目で見ないでください……また、また……!」

「うわあ……」


 エモティコの変態性にそれなりの理解を示していたアルティザーナだったが、さすがにこの時は、心底嫌そうに顔をしかめたのだった。




 研究室での出来事から二か月ほど経ったある日の事。

 街の一角の定食屋では、今日も元気な声が響いていた。


「いらっしゃいませー!」


 後ろ頭に結わえた茶色の髪を揺らし、今日も元気にウォルファーナは働いていた。

 いつも笑顔を絶やさない。その明るさが、この定食屋に通う常連の大きな楽しみの一つだった。

 

 だがその笑顔が一瞬にして冷める。

 店の入り口に立った一人の客を見たからだ。

 

「あ、あの! ウォルファーナさん……!」


 地味な平民服に身を包んだ、貴族の少年エモティコだった。

 

「いろいろありましたけど、僕はあなたと普通にお付き合いしたいです! どうかこの花束を受け取ってください!」


 そうして差し出したのは、薔薇の花束だった。

 一目で高価なものとわかる、美しく上品な香りのする花束だった。

 

「また来たんですか変態マゾ貴族様。どうぞこちらの席にお座りください」

「は、はいっ!」


 ウォルファーナは花束に一瞥すらくれず、淡々とエモティコを席に案内した。いつものエモティコの席。一番出入り口に近い場所にあり、すぐに出られる席だった。


「そ、それでこの花束を……!」

「あたしは仕事中です。そんなところに花束なんて渡されても迷惑なだけ。そもそもあなたの持ってきた物なんて、何が付いているかわかったものじゃない。気持ち悪くて触りたくもありません。

 あなたの使った食器を下げるとき、あたしがどれほど嫌な思いをしているか。それくらい理解してそのゴミをお持ち帰りください変態マゾ貴族様」

「うう、ごめんなさい」

「あやまらなくていいんです。気持ち悪い。あなたがこの店で許されることは四つだけ。息をすること、注文すること、食べること、代金を支払うこと。ゴブリンよりも低俗なあなたが、人間様の食堂で過ごせることに感謝しながら、それ以外の行動はお慎みください変態マゾ貴族様」


 投げかけられる厳しい言葉の数々に、ついにエモティコは限界を迎えた。

 テーブルに突っ伏した。ハァハァと荒い息を吐く。そんなエモティコを冷え切った目で見下しながら、ウォルファーナは無言でメニューを差し出した。エモティコは震える手でメニューの一点を指差した。

 

「はい、日替わり定食ですね。少々お待ちください変態マゾ貴族様」


 注文をメモに書きつけると、ウォルファーナはエモティコの元を立ち去った。

 周囲の客からおお、というどよめきが上がった。

 ウォルファーナは大きなため息をついた。

 

 あの研究室での一件の後。

 アルティザーナの推測通り、エモティコはやってきた。本当にやってきた。そして臆面もなく、ウォルファーナにお付き合いしたいと言ってきた。

 その時は怒りに任せ苛烈な言葉で撃退した。彼は満足そうに帰っていた。

 回数をこなすうちにそんなやりとりも慣れてきた。今では冷静な対応ができるようになってきた。どうせ店に来るのだから、なにか注文させた方が店の利益になる。そこで先ほどのように、冷たくしつつも注文だけは取るようになった。

 

 エモティコは平民の服を着ていても、一目で貴族とわかる。最初は居合わせた客も、貴族に対して容赦ない言葉を使うウォルファーナを見て、顔を青ざめさせていた。だがそれも今では見慣れたものとなった。このやりとりを眺めるために、わざわざ時間を合わせて来る客もいるくらいである。

 

 店長に言って出入り禁止にしてもらうことも考えた。しかし、平民の定食屋が、仮にも貴族を出入り禁止などにできるはずがなかった。エモティコ自身が受け入れたとしても、他の貴族が何を言ってくるかわからない。そんな危険は冒せなかった。

 

 働く場所を変えることも考えた。だがウォルファーナの容姿は優れている。街のどこで働こうと、すぐに見つかってしまうだろう。

 他の街に行くということも難しい。アルティザーナの研究の手伝いの報酬で懐に少しは余裕がある。だが、これと言った特別な技術も持たない平民の娘が、あてもなく行った町でまともな仕事にありつけるほど甘い世の中ではない。

 

 なにより、この定食屋が好きだった。店長は優しいしお客さんもいい人ばかりだ。仕事も楽しい。それをエモティコみたいな変な客一人のためにやめるのは嫌だった。

 

 だから、とにかく耐えるしかなかい。ウォルファーナはそう覚悟を決めていた。

 

「あと少しの辛抱……! はやくこいこい貴族の縁談……!」


 エモティコの婚約者が厳しい人であることを願いながら、ウォルファーナはこの店で働き続けるのだった。

 

 

 だが、ウォルファーナの受難はまだ続く。

 この定食屋は、特定の界隈で「かわいい給仕の女の子が淡々と罵倒してくれるお店」として有名になっていく。そして各地からそういうことを好む紳士たちが集まってくる。

 薔薇のように美しく、薔薇のとげのように鋭く変態紳士どもを寄せ付けない姿から、ウォルファーナは『麗しき薔薇の花』と讃えられるようになるのだが……それはまた別の物語である。



終わり

「壁の花」をテーマにしたロマンチックな話を書くつもりでした。

魔道具の設定を詰めて言ったらこういうお話になりました。

お話作りの難しさを改めて痛感しました。

ままなりませんね!


2024/7/2

 誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!

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