遊び上手な王子様
優しく手を持ち上げられると、淡いピンクに塗られた爪が目に入った。
爪の手入れをされるのなんて初めてで恥ずかしかったけれど、やってもらって良かった。もし、そうでなかったら、この美しい手に持ち上げられた瞬間にすぐに引っ込めて隠していたことだろう。
自分の手を持ち上げる、陶器のように滑らかで美しい手の持ち主は、まさにそれに見合う美貌の持ち主だった。
輝く金糸の髪は緩く波打ち、白皙の頬をかすめている。長いまつ毛に縁取られた藍色の瞳はまっすぐにこちらに向けられ、高い鼻梁の下では薄い唇がかすかに弧を描いていた。
「じゃあフランセット。今夜は僕と遊ぼうか」
「はい、リエト殿下。私と遊んでください」
初めて訪れた王城。初めての夜会。
見上げれば目も眩むような豪華なシャンデリア。まるで芸術作品のような調度品の数々に、触れれば壊れてしまいそうな華奢な食器たち。皿にヒビでも入れようものなら、一生働いたってとても弁償することはできないだろう。
フランセットは早々に料理に手を出すのを諦め、ぼんやりと会場を眺めていた。
今夜は義兄に連れられ王城で行われる夜会に参加している。フランセットは十八歳なので、遅い社交界デビューであった。
義兄は挨拶回りのためどこかへ行ってしまった。美味しいものでも食べて待っていなさい、と言われたものの、こうしてポツンと一人たたずんでいるのだった。
大きく開いた胸元に丸出しの腕。義母にはこれでも地味なドレスだと言われたけれど、着飾るのは慣れていない。いつもは動きやすいように一つにまとめているオレンジがかった金色の髪も、緩く巻いて肩に下ろしているだけでお淑やかに見えるから不思議だ。
所在無げにそわそわと視線を彷徨わせたフランセットは、誘われるようにふらりと掃き出し窓から庭へ出た。
足元を照らす低いランプを頼りに先に進む。青々と茂る木々の向こうには漆黒に瞬く星が見えた。しばらくの間、誰もいない木陰で一人、星を数える。
サクサクと芝生を踏む音が聞こえた。こんな暗闇に一人で立っているだなんて、無防備すぎたのではないか。フランセットは今頃になって心許なくなってきた袖のない腕を両手でさすった。
じっとその音が遠ざかるのを待ってるというのに、それはどんどん近付いて来る。どうにもできずに息をひそめていたら、足音が止まった。おそるおそる上目遣いでそちらを窺うと、薄暗い中でもわかる美貌の持ち主が不思議そうに小首を傾げて立っていた。
リエト第三王子だ。
二年前にこの国に来たばかりのフランセットでも、王子の顔くらいは知っている。フランセットよりも四つ年上で、三人いる王子の中でも最も美しいと言われているお方だ。
先ほども、広間の中央で美しい令嬢たちに囲まれ、にこやかに会話を楽しんでいた。その中の一人の令嬢の手を取って、仲睦まじくダンスしていたはずなのに、どうしてこんなところにいるのだろう。
リエトの後ろにいる護衛騎士が暗闇に佇んでいた彼女にあからさまな警戒を見せる。
「こんばんは。僕はリエト。可憐なご令嬢、名前を伺っても?」
リエトは柔和な笑みを浮かべてそう問うと、右手を振って護衛を一歩後ろに下がらせた。
「フランセット・カルリ、です。リエト殿下」
「ああ、君がカルリ伯爵家の……。フランセット嬢、こんなところで何をしていたの?」
フランセットの名に一度眉を上げたものの、リエトはすぐに明るい笑顔を見せた。彼の優しい声色に強張っていた肩の力が抜ける。
「一緒に来た義兄が知人に挨拶に行ってしまったので、その、私はこういった場は初めてで……どう過ごせば良いのかわからなくて」
「そっか。いきなり一人置いていくなんて、義兄上も気が利かないね。では、しばらくの間、僕が君のお相手をしても?」
リエトはにっこりとほほ笑むと、手のひらを上に向けて右手を差し出した。
「殿下が? いいんですか?」
いきなり王子の手を取っていいものか。フランセットはためらって、手のひらとリエトの顔の間で何度も視線を彷徨わせた。
「もちろん! 今夜は王家主催の夜会だもの。全員に楽しんでもらえるよう努めるのが僕たち王子の役目なのさ」
片側の口の端を上げて、リエトがウィンクした。その気安さにフランセットの心はすっかりほぐれてしまった。差し出された手をきゅっと握り返して、フランセットは目を細め笑い返す。
「よろしくお願いします!」
「うん! 突っ立ったままじゃ疲れたでしょ。向こうに良い場所があるんだ。一緒に行こう」
リエトに手を引かれ、フランセットは庭を奥へ奥へと進む。ほどなくして周りを薔薇に囲まれた場所へ出た。猫脚に薔薇の蔦が絡まった瀟洒なベンチに、リエトが慣れた様子でハンカチーフを敷く。その上に座ったフランセットに寄り添うようにして、リエトが座った。
近いな、とフランセットは思った。でも、夜更けに大きな声で話すのはよくないことなのかもしれない。
避けるような素振りを見せないフランセットに、リエトが気を良くする。
「エミリ王国にはもう慣れた? どこから来たんだっけ」
「隣のラギエ公国です。山をひとつ越えるだけでこんな都会があるだなんて。エミリ王国の王都はすっごく広くておしゃれで、親切な人ばかりでした」
「それは良かった」
長い足を組み替えたリエトが、完璧な角度で美しくほほ笑む。フランセットはリエトに促されるまま、初めての王都で驚いたこと、偶然出会った愉快なおじいさんのこと、伯爵家での日々の暮らしについて夢中になって話した。
リエトがクスクスと笑っているのに気付いて、しゃべりすぎたとあわてて口を閉じる。
木の枝からぶら下げられたランプに照らされた花の顔は、噂の通りだ。フランセットは瞬きするのも惜しんでリエトの美しい顔を見つめた。
「殿下はどうしてここに来たんですか?」
「ああ、二人続けて踊ったから休憩がてら涼みに来たんだ。そうしたら、運よくこうして可愛いご令嬢と出会えたってわけ」
リエトが少し屈んでフランセットのアンバーの瞳を覗き込んだ。
「殿下って噂通りの方ですね! 私、殿下にお会いしたかったので嬉しいです」
「噂……。僕の方こそ君に出会えてとても嬉しいよ」
一瞬だけ顔を曇らせたリエトが、すぐに美麗な微笑みを取り戻す。
「リエト殿下は美しくって、優しくって、そして、エミリ王国で一番の遊び人だって聞きました!」
「う゛っ……」
目を見開いたリエトから変な声が出た。ベンチから付かず離れずの距離を取って立っていた護衛も無表情のまま、ちらりとフランセットを見やる。
「いや、それは……」
「それって殿下はいろんな遊びを知ってるってことですよね? 私、学校とバイトばかりであまり遊んだことがないんです。だから、面白い遊びを、できれば貴族の遊びを教えてほしいです」
澄んだ瞳を輝かせるフランセットに、リエトがぱちぱちと瞬いた。こめかみに人差し指をあて、ううん、と小さくうなった後、背後の護衛に目配せを送る。護衛がわずかに体の向きを変え、二人から視線を外した。
リエトは膝の上に置かれたフランセットの手をそっと持ち上げる。
「じゃあフランセット。今夜は僕と遊ぼうか」
「はい、リエト殿下。私と遊んでください」
「もう休憩は十分でしょ? せっかくの夜会だ。踊ろうか」
フランセットはリエトに手を引かれ、会場に戻ってすぐにダンスの輪に加わった。さすがは王子様、フランセットがふらついて足を踏みそうになる度にリエトは器用に体を翻して体勢を立て直す。リエトがほほ笑めば、フランセットもそれを返した。
今度のお相手はあのご令嬢か。
会場からはちらほらとそんな声が聞こえ始めた。
二曲続けて踊った二人が、飲みものを取りにダンスの輪から離れる。そのタイミングで、泡を食った義兄クレメンテがフランセットを引き取りに駆けつけた。
食事を楽しむつもりだったのに、と頬を膨らますフランセットをクレメンテは馬車に押し込み、即刻、家路を急いだ。
そこでやっとフランセットは、「遊び人」の意味を教わった。とんでもない思い違いをしていたと気付いたものの、もうすでにリエトと後日遊ぶ約束をした後だった。
翌日早々に、リエトからフランセット宛に王城へ招待の手紙が届き、義父をはじめ家族全員の顔が青ざめた。
フランセットは昨年、カルリ伯爵家の養女になったばかりだ。二年前に隣国ラギエ公国からやって来た。そして、一年前に母を亡くし、母の兄である伯父の養女となった。だから、義兄クレメンテは実のところ従兄である。
フランセットは元々、ラギエ公国の男爵家の一人娘だった。男爵ではあったが裕福な家だったので、フランセットは不自由なく貴族令嬢として暮らしていた。
それが、11歳の時に父が流行病で死んでしまった。遺言を残す余裕もなく逝ってしまったので、男爵家を継ぐこととなった父の弟によって、母とフランセットは家を追い出されてしまったのだ。
二人は働きながら、小さなアパートで支え合って暮らした。いつだって明るい母との暮らしは、貧しかったけれども充実していた。それでもやはり、生まれながらの貴族だった母は無理がたたったのだろう、父と同じ病にかかってしまった。平民として暮らして4年が経った頃だった。
母の薬代を捻出するために、バイトを増やそうかと思い始めた頃、カルリ家の馬車が二人を迎えに来たのである。母の兄である伯父は、突然連絡の取れなくなった二人を必死に捜していたそうだ。
生まれ故郷に戻り、懐かしい実家で母は穏やかに息を引き取った。
一人ぼっちになったフランセットを伯父は養女とした。義母も義兄も優しく、本当の家族のように愛してくれる。クレメンテの婚約者であるロジータには一年間貴族のマナーを教わった。
そして、初めての社交界でよりによってあの遊び人リエトに出会ってしまったのである。家族中が驚き青ざめるのも仕方のないことだった。
「いいかい、けして二人きりになってはいけないよ。座る時も必ず距離をおいて」
父に何度もそう念を押され、フランセットは迎えに来た王家の馬車に乗りこんだ。一人で座るには広すぎる座席にそわそわしながら、窓の外の景色を眺めた。
『来るものは拒まず去る者は追わず。まさにリエト殿下のためにあるような言葉ね。見る度に違うご令嬢を連れているもの』
『優しくって美しい王子様。この国の女の子はたいていリエト殿下に一度は恋をするのよ。それと同時に、この人は恋をしてはいけない相手だって気付くの』
『婚約者が決まるまでのモラトリアム期間に遊ぶお相手にはぴったりよね』
ロジータから紹介された友人、メラーニアとピエラの話は正直言ってあまり理解できなかった。それでも、黙ってほほ笑んで頷いた。
とりあえず、リエト殿下は楽しく遊べる人なのだろう、とフランセットは理解した。それがまさか、本人と出会い、遊びに誘われることになろうとは。
元貴族で元平民であった、伯爵家の養女。きっとリエトはそんな毛色の違う自分にちょっとした興味を持っただけだ。適当に話をして、王城の美味しいお茶を飲んで帰って来よう。
気付けば窓から王城の姿がすぐ近くに見えていた。
迎えに来た騎士に案内されたのは、なんとリエトの私室だった。
開けられた扉の向こうには、リエトが待っていた。それを見たフランセットは思わず大きく目を見開く。
夜会の時に比べればかなり地味な服装は、リエトの品の良さを際立たせていた。しかし、驚いたのはそこではない。なぜか少しだけ緊張した面持ちのリエトの両脇と後ろには、たくさんのおもちゃやボードゲームの箱が積み重ねられていた。下の方には、幼児用の積み木まで置いてある。
「あはっ、女の子が好きな遊びってよく分からなくて、思いつく限り集めたんだけど……」
照れ笑いしながら頭を掻いたリエトが言った。使い古されたものもあれば新品同様のもの、また、外箱に外国語の書かれたゲームもある。王城の倉庫をひっくり返し、そして使用人たちにまで声を掛けて集めたそうだ。
リエトは自分と本気で遊んでくれるつもりなのだ。フランセットは嬉しさで胸がいっぱいになった。
頬を火照らせてゲームに見入っているフランセットの様子に、リエトはほっとした様子を見せた。
「ようこそ、王城へ。フランセット」
二人の前に薫り高い紅茶と美味しそうなお菓子が用意される。給仕してくれた茶髪の侍女は部屋を出ることなく壁際に静かに立っている。その隣には、先日の護衛騎士もいる。あの時は暗くてよく見えなかったけれど、黒い髪に黒い瞳の思っていたよりも若い青年だった。部屋の扉も開いたままで、廊下にいる警備兵の姿だって見える。
なあんだ、本当に二人で遊ぶだけじゃない。過保護な義父を思い出しフランセットはクスリと笑った。
「どれから遊ぼうか、フランセット。チェスはできる? ポーカーは?」
「できません」
「そっか。じゃあ、……すごろくだ!」
座ったまま後ろに手を伸ばしたリエトが小さな箱を持ち上げる。すぐに護衛騎士がサイドテーブルを用意し、侍女がティーカップとお菓子をそちらへ除けた。箱を開けたリエトが新品のボードゲームをテーブルに広げる。
「殿下はこれやったことあるんですか?」
「ないよ。普通にサイコロを振って進めて、分岐でどっち選ぶかでゴールが変わるみたい」
「ようし、手加減しませんよ!」
「あはは、受けて立つよ。まあ、こんなのサイコロの運次第だけどね」
―――3勝0敗。
もちろん、フランセットが3勝。しかも大勝である。
「う、嘘でしょ……こんなことってある?」
「うふふふふふふ。殿下、次はハンデつけてあげましょうか」
「いや、まさか。今度はこっちで勝負だ」
リエトが違うゲームに手を伸ばす。護衛が手早くすごろくを片付けた。侍女が紅茶を淹れ替える。フランセットはリエトと顔を寄せ合って説明書を読んだ。
廊下のランプに火が灯る。扉の外に立つ警備兵は交代の時間だ。
「どういうこと?! ビギナーズラックにもほどがあるでしょ!」
「あはははは、ゲームってこんなにも楽しいんですね! あ、ごめんなさい。殿下。えへっ」
「ぐっ……純粋に悔しい……!!」
フランセットが通算6勝0敗を収めたところで、時間となった。勝ち逃げは許さない、と真顔のリエトに次の約束をさせられた。お義父様をまた青ざめさせちゃうわ。帰りの馬車の中で、フランセットは頭を抱えた。
約束の日、時間通りに王家の馬車が迎えに来た。先日と同じ御者に挨拶をして馬車に乗り、王城へ向かう。
案内されたのも同じくリエトの私室。壁側に控える護衛と侍女も同じだ。
茶髪を一つにひっつめた侍女にじっと視線を送ると、ぴくりとわずかに眉を動かしたものの、無表情のままそっと目を逸らされた。愛想の一つもないけれど、王城の、しかも王子付きの侍女ということは貴族の出身なのだろう。
「フランセット」
きりりと真剣な表情をしたリエトに呼ばれ、フランセットは振り返る。
「僕はあの後、ここにあるゲームには触れていない」
「はぁ」
「時間の短縮のために事前に説明書を読んでおこうかとも思ったけれど、僕はあえてそれはしなかったんだ」
「ふむ」
「なぜなら、ルールを知ってしまったら、どうしても対策を考えてしまう。それじゃ公平ではないだろ。僕は正々堂々と君と同じ条件で勝負したいんだ。わかる?」
「わかりました。じゃ、さっそく……」
「「勝負!」」
最初は前回と同じゲームから。サイコロを転がし、駒を進める。長考の後に右の分岐を選ぶリエト。気分で左を選ぶフランセット。
結果、フランセットの大勝であった。
「まあ、運なんて吉凶交互にやってくるものさ。たまたまだよ、たまたま」
リエトはソファにふんぞり返って紅茶をあおった。すぐに侍女が新しい紅茶を淹れる。
「そういえば、今さらだけれど……お母上の事は、残念だったね。せっかく実家に戻れたというのに」
淹れたての紅茶の湯気に目を細めたリエトが、フランセットの母の死を悼んだ。最高級のお菓子を頬張っていたフランセットが目を見開く。
「はい! 母は最期に実家に戻れたし家族に看取られてラッキーでした。母が生きているうちに、叔父様が見つけてくれて本当に良かった。私一人じゃまともなお葬式も挙げてあげられなかったから」
幸せそうに丸い頬をほころばせるフランセットの言葉に、今度はリエトが目を見開く。そして、戸惑ったように大きく二回瞬いた。
「そ、そっか。ラッキー? だったね……」
「私と母って本当についてて、平民になった時もアパートの大家さんはとっても親切でいつも庭の畑で採れた野菜を分けてくれたし、母の職場の人は頻繁に晩ご飯に招待してくれたし、私のバイト先の人たちも皆優しかったし。父と暮らした家を出るのは残念だったけど、その後も楽しかったのでドンマイです!」
フランセットはあっけらかんとそうこたえると、クッキーを口に放り込んだ。頬を押さえて美味しそうに咀嚼している彼女を見て、リエトが笑う。
「へええ……ドンマイ、か。君も働いていたんだね」
「はい。母は刺繍の工房で。私は午前中は学校へ通って、昼からパン屋さんでバイトしてました。売れ残ったパンをもらえるので一石二鳥。ランチタイムには、スクランブルエッグをはさんだパンが一番人気なんです。パンは外はサクッと、中はふわふわで本当においしくて、殿下にも食べさせてあげたいくらい。母が体調をくずしてからは、夜は食堂で給仕のバイトをしていました。そこは、なんと! 賄いがつくんです。お金ももらえて食事もさせてもらえて、最高でした」
「ふうん。おいしいお店の賄いかあ。それは確かに最高だね」
「はい! 殿下、次はどれで遊びます?」
フランセットの期待の眼差しに負けたリエトが積み上げられたゲームの箱に手を伸ばす。一度止めた手を、すぐに次の箱に移した。
「おっと、これは二人じゃできないから。えーと」
「いるじゃないですか、あと二人」
「え?」
フランセットの声に、リエトがきょとんとする。彼女の視線の先には困惑した表情の護衛と無表情の侍女がいた。
「四人でできますよ」
リエトがあごに手を置いて考える。
「そうだね、二人ともこちらに」
リエトに命じられ、護衛と侍女が前に進み出た。
「フランセット。これは僕の護衛騎士アメデオ。そして、彼女は侍女のパメラ。僕が王子だからと言って、二人とも手加減はなしだ。真剣勝負でいくよ」
リエトの言葉に、アメデオとパメラは頷いた。四人で説明書に目を通し、アメデオが手早く手札を配る。
王族、貴族、使用人。正々堂々と、いざ勝負―――!
「な、なぜ……僕は……僕は……」
「落ち着いてください、殿下。私も同じようなものです」
頭をかかえてうなだれるリエトの肩にアメデオがそっと手を載せた。
1位フランセット、2位パメラ、3位アメデオ、4位リエト。3位と4位は僅差であった。大輪の花のような笑顔のフランセットと無表情のパメラがハイタッチしている。
その後も、1位と2位が、そして3位と4位が入れ替わるだけのさほど変わりのない結果であったが、白熱した勝負を繰り返した四人は、肩で息をしながらも満足げに解散したのだった。
フランセットは義兄に連れられ、とある侯爵家の夜会に参加していた。
こういった社交の場で貴族令嬢は将来の伴侶を見つけるのだそうだ。義兄はそれを期待しているようだが、元平民で外国からやってきたフランセットにそうそう近付いて来る男性はいない。
「いいかい、フランセット。こういう場所には危険な狼がひそんでいる。だから、誰に誘われても、けしてこの会場から出てはいけないよ。庭なんてもってのほかだ」
義兄はそう言い、フランセットを飲食スペースに残して挨拶回りに行ってしまった。
給仕が持ってきたとびきり美味しいオレンジジュースを飲みながら、フランセットは壁際で会場を眺めていた。視線の先には、たくさんの女性に囲まれるリエトがいる。
遅れて到着したリエトはすぐに女性に囲まれ、フランセットに気付くこともなく、一人の令嬢の手を取ってダンスの輪に加わって行った。
ダンスが終わると、また令嬢たちに囲まれた。誰一人蔑ろにすることなく、全員に平等に麗しい笑顔を向けている。赤いドレスの令嬢が、彼の腕に親し気に腕を絡めた。
そんな光景から思わず目を逸らしてしまったフランセットは、近くにいた給仕を呼んで、空になったグラスを手渡す。手持無沙汰になってしまい、うつむいて体を揺らしていたら、足元に影が落ちた。
「フランセット。来ていたんだね」
聞きなれた声に顔を上げると、すぐ目の前にリエトが立っていた。フランセットの返事も待たずに、リエトは彼女の手を取る。
「来るなら教えてくれればよかったのに。誰と来たの? クレメンテ卿かな?」
「はい。当日まであまり詳細は教えてもらえなくって。義兄は普段、婚約者のロジータ様と参加しているのですが、三回に一回くらいは私を連れ出してくれるんです。良い出会いがあるようにって」
「へえ、良い出会い、ね」
一瞬だけ眉をしかめたリエトが繰り返す。そして、握った手に軽く力をこめた。
「まあ、いいや。僕、二人続けて踊ったから疲れちゃった。庭に涼みに行こう。この侯爵家の庭はとても美しくて有名なんだよ」
庭に連れ出そうとするリエトの腕を引き、フランセットは足を踏ん張った。
「殿下、外に出てはダメです。ここにはおっかない狼が出るそうですよ」
フランセットが顔の横に手を持ち上げて、ガオー、と威嚇する動作を見せると、リエトは手で口を押えて横を向いた。肩が震えている。どうやら笑いをこらえているらしい。
「おお……かみ、ね。はは、ははは。確かにいるね、ここに」
「えっ、どこにですか?」
「ううん、こっちの話。クレメンテ卿は学習しないなあ。じゃあ、踊ろう。フランセット」
ぐいっと強引に手を引かれ、フランセットはダンスの輪に加わった。
「殿下、疲れてたんじゃないんですか?」
「ああ、そうだった。でも、フランセットと一緒なら疲れないよ、多分」
リエトはそう言って、くるりとフランセットをターンさせた。ふわりとスカートが舞い、リエトの長い足に巻き付く。
遠巻きに見ている人々の中に、あわてふためく義兄の顔が見えた。曲が終わり駆け寄ろうとしたら、リエトが手を離さない。
「楽しいから、もう一曲。いいでしょ?」
リエトはそうささやくと、フランセットの腰に手を回して引き寄せた。義兄の手が空を切る。会場のそこかしこから、あっ、と小さなため息が聞こえた。
続けて踊った二人は、礼をして下がる。ぽかぽかと体の温まったフランセットは、もう一度あの美味しいオレンジジュースを飲みたかったけれど、義兄に抱えられて会場を後にした。
「今日は外で遊ぼう、フランセット」
馬車の扉が開くと、指先まで優雅さを携えたリエトが右手を差し出して待っていた。その手を支えに馬車を降りると、そのまま手を引かれフランセットは歩き出す。
「遊びってのはテーブルの上だけじゃないのさ。ここから見渡す限りが王城の庭なんだ。案内してあげるよ」
「見渡す限り?!」
「そ、広いよね。フランセットは動物好き?」
「はい、多分」
「厩舎の隣にはウサギやヤギがいるよ。会ってみる?」
目を輝かせるフランセットに上機嫌になったリエトが、指を絡めて手をつなぎ直す。つないだ手に頬を赤く染めながらも、彼の慣れた手付きにフランセットは何だか少しだけ気落ちしてしまった。
ウサギを抱かせてもらっている間、リエトは馬を撫で、ヤギに囲まれ、羊に袖を食まれていた。それでも彼はニコニコと動物たちを愛おしそうに眺めている。
「フランセット、こっちこっち」
上着の裾をヤギから取り返したリエトが逃げるように駆け出す。ヤギたちは寂しそうに鳴くもののその場を動かない。フランセットはリエトを追いかけた。
追いつくと、リエトは当たり前のように手をつなぐ。全く躊躇のない彼をフランセットは睨め付けた。こちらはまだドギマギしているというのに。
ふとリエトが優しげに目を細めた。その視線の先にいるのは、フランセットではなく、トマト畑だ。聞けば、王城の食材はできるだけここで賄っているらしい。どこで毒を盛られるか分からない、そんな人々の多くいる王城では、誰がどのように管理していたか正確に記録された食材を使った方が安全なのだという。
「殿下はそんなにトマトがお好きなのですか」
フランセットの言葉に、リエトがきょとんとする。そして、すぐにいつもの美麗な笑みを浮かべる。
「トマトだけじゃなくて、たいていの野菜は好きだよ」
リエトはそう言うと、遠くまで広がる畑を見渡した。
「僕はトマトも野菜も花も、馬もヤギも羊も好きなんだ。もちろん女の子も……と言うか、人間が好き。僕は生き物が大好き。それ以外にもきれいな絵や彫刻も好きだし、雄大な景色も好き。たくさん好きなものがあるんだ。……でも、皆、一番を決めたがる。大好きに違いなんてあるはずないのに、おかしいよねぇ」
リエトは屈託のない明るい笑顔を見せた。それを間近で見てしまったフランセットの心にぽかりと大きな穴が空く。
『この人は恋をしてはいけない相手だって気付くの』
友人たちの言葉の意味を、フランセットは今、ようやっと理解した。この世界を包み込む大海原のような彼の藍色の瞳には、自分はヤギやトマトと同じように映っているのだ。
リエト殿下は恋を知らないのだわ。
フランセットはそう思った。とは言え、フランセットだって恋なんてしたことはないけれど。しっかりと握られたこの温かい手の心地良さには、けして気付かないふりをして。
フランセットは心の穴に蓋をするのは止めた。
野菜畑を眺めた後にリエトに連れて行かれたのは、生け垣で作った迷路だった。リエトの身長よりも高い生け垣は、青々としていて作り物の壁のようにきれいに刈られている。迷路の目印のためだろうか、たまに青い花が咲いていた。
「フランセットの好きなように進んでごらん。僕は道を知っているから、迷っても大丈夫だよ」
リエトの言葉に甘えて、フランセットは、ここはあっちへ、今度はこっちへ、と安心して歩き回った。
何度角を曲がっても、どうしても青い花が二つ並んだ壁にたどり着いてしまう。花の前で首をひねるフランセットを見て笑ったリエトが、突然生け垣に手を突っ込んだ。ガサガサと枝を掻き分けると、その隙間にずぼっと頭を入れる。
「殿下!?」
リエトはそのまま壁の向こうに出て行ってしまった。一人残されたフランセットが呆然と壁を見つめていると、白くて形の良い手が飛び出してきた。そのまま腕を引っ張られ、生け垣に飛び込む。たたらを踏んでよろけるフランセットを、壁の向こうにいたリエトが受け止めた。
「こんなのルール違反だわ!」
「ここに来るにはこれが一番の近道だもの、これが正解」
怒るフランセットの頬をチョンとつついて、リエトは歩きだした。もちろん手は指を絡めてつないでいる。
迷路の外はだだっ広い芝生の庭だ。大きな木の下にシートが敷かれている。王城の庭だからだろうか、視界にはリエト以外は誰もいない。意図せず二人きりになってしまい、義父の青ざめる顔が脳裡をかすめる。
きっとこのシートもその上に置いてあるバスケットも、アメデオが用意したに違いない。身を隠しているだけで、どこか近くで護衛しているのだろう。フランセットはそう思うことにした。
二人並んで日陰に座り、しばしの間涼しい風に身を任せていた。バスケットの中身はバゲットサンドとオレンジジュースだった。
「フランセットはオレンジジュース好き?」
「はい!」
「そっか。僕も好き。おいしいよね。もっと飲みなよ」
リエトはそう言って、フランセットのグラスにオレンジジュースをなみなみと注いだ。ジュースの入っていたデキャンタは空になってしまった。
「フランセットがおいしく飲んでくれればそれでいいよ」
自分の好きなものを簡単に譲ってしまうリエトの笑顔に、フランセットの心の穴にはびゅうびゅうと隙間風が吹いている。
「ねえ、フランセット」
「はい」
「こないだ遊びに来た時、パメラと何か話してたよね? 帰る前に。何を話してたの?」
リエトがわずかに戸惑うように眉を下げた。意図せず自分のせいで彼を困らせたことに、フランセットは少しだけ愉悦を覚えたものの、すぐにぶんぶんと首を振る。
「王城の侍女になる方法を教えてもらっていました。侍女採用試験の参考書とか」
「え? 君、侍女になりたいの?」
「はい。クレメンテお義兄様はもうすぐ結婚します。小姑が家にいたら嫌でしょう? 私が一部屋使っていたら、子供が生まれた時に手狭になるでしょうし」
「ええと、クレメンテ卿の婚約者は、ロジータ嬢か。ああ、母が開催した王城のお茶会に来てくれたことがあったかな。何度か挨拶はした記憶があるよ。とても明朗快活なご令嬢だった」
リエトがこめかみに指をあてて、記憶を掘り返す。その仕草をフランセットはじっと見つめた。お義姉様の初恋のお相手も例にもれずリエトだったのかしら。
「ええ。ですから、私は近いうちに家を出たいんです。でも、貴族が市井で働くのは体裁が悪いそうなので。王城に勤める侍女は貴族出身の人が多くて、希望すれば住み込みで働けるって聞きました」
「そうだね、下級貴族の令嬢が多いかな」
「王子の宮の侍女になるには下積み期間が必要なんだそうです。そうなったら、殿下とはしばらくお会いできなくなっちゃいますね。もしかしたら、もう、ずっと」
フランセットはえへへ、と、笑い、顔を逸らした。だから、リエトが驚いた表情をしていることには気付かなかった。
「ふうん……フランセットはそれでいいの? まあ、君がそうしたいのなら、……それでいいけど……」
リエトが手を伸ばし、ぎゅっと力をこめてフランセットの手を握った。
いいの、って、言われたって。
私なんてヤギやトマトと同じなのに。
もぎ取ったトマトの行方を気にする人なんていない。フランセットは、握られた手はそのままにしていたものの、握り返すことはしなかった。
いつものように騎士に案内され、リエトの部屋に向かった。部屋の扉を視界に留めたころ、美しいドレスを着た令嬢がこちらに向かって歩いて来た。方向からして、リエトの部屋から出てきたのだろう。フランセットは騎士と共に廊下の端に寄って道を譲った。
リエトの部屋に向かうフランセットを見て、令嬢は軽く眉を上げたもののすぐにニコリとほほ笑む。道を開けてくれたフランセットに目礼すると、機嫌よく去って行った。
顔を上げると、扉の前にリエトが立っている。
「今のご令嬢は僕のすぐ上の兄、第二王子の妃の侍女だよ。侍女と言っても、話し相手か今みたいに簡単な雑用をこなす程度の仕事しかしない、貴族のご令嬢さ。彼女は住み込みではなくて、暇なときにああしてやって来るんだ。伯爵家令嬢のフランセットはああいう侍女でいいんじゃないかなぁ」
「へえ。侍女にもいろいろあるんですね。私は住み込みでお給料ももらいたいですし。やっぱりパメラさんみたいに働きたいです」
「そっか、家を出たいんだもんね」
「はい。王子妃の侍女は殿下の話し相手のお仕事もするのですか?」
「ううん。さっきは伝言を伝えに来てくれたんだよ。第二王子妃に面会を申し込んでたから、それの許可が下りたんだ」
「へえ……」
第二王子妃は確か黒髪で年上の美女だったはず。リエトは若い令嬢だけではなく、年上の既婚者でもいいのだろうか。そういう女性を好んで遊ぶ男性もいると聞いたことがある。
フランセットがソファに掛けると、すぐにパメラがサイドテーブルに紅茶を置いた。ちょうど良い温度だ。リエトと長々と立ち話をしていたというのに、飲み頃のお茶をぴったりのタイミングに持ってくるなんて。自分もいつかそんな気の利く侍女になれるのだろうか。
フランセットが頭を悩ませている間に、リエトはすでにテーブルにゲームを広げている。フランセットはすぐに気持ちを切り替えて、リエトと向かい合った。
最初のゲームはフランセットの勝ちだった。次のゲームもフランセットの快勝だ。樽にあいた無数の穴にナイフを刺していき、中の人形が飛び出したら負け、というおもちゃだったが、なにしろリエトは一刀目から人形が飛び出す始末である。
ソファに顔をつっぷして笑い転げたフランセットは、涙をぬぐいながら何とか起き上がった。
「笑い終わった?」
むすっとした表情でひじ掛けに頬杖をついたリエトが言った。
「はあ、はあ。お腹痛い……。さすがにこれは、もう、気の毒です。次は殿下の得意なゲームにしましょう。最近、お義父様にチェスを教えてもらってるんです。まだ初心者ですけどチェスにしますか?」
「いや、それじゃゲームにもならない。そうだなあ……、ああ、トランプにしよう。神経衰弱は知ってるよね?」
「知ってます、でも、苦手かも」
「そりゃあいいや。じゃ、数字が合ってればOK。色は問わないことにしよう」
公平を期して、トランプを切ったのはアメデオ、テーブルに並べたのはパメラだ。
「さて、正々堂々と、―――勝負!」
先攻のリエトが適当に開いていくのに対し、後攻のフランセットは四つ角から順番に開いてゆく。
「先日生まれたヤギに、畑管理のカールじいさんが名前をジャックって名付けたんだ。なんでも所属してる登山クラブの女性の息子の名前なんだって。その女性は八人姉妹であだ名はクイーン」
「もう! せっかく覚えてたのに分かんなくなっちゃったじゃないですか! ずるい!」
「あはは。ただの世間話だよ。ずるくなんてないさ」
「殿下はだまっててください」
「はいはい」
そう受け流したリエトが、手前の一枚をめくった。スペードの4。人差し指がつつ、と宙に踊り、真ん中上段のカードをめくる。
「あっ!」
「クラブの4。当たり」
リエトの指が、躊躇なく先程の隣のカードをめくった。人差し指が再び宙に踊る。右上の角のカードをめくると、同じ数字が姿をあらわした。
「あっ、ひどい! その角覚えてたのに!」
フランセットが声を上げ、頬を膨らませる。ニヤリと口の端を上げたリエトのターンは次で終わった。
かろうじて覚えていた角をとられてしまったフランセットの苦戦が続く。あっという間に勝敗はつき、リエトの圧勝だった。
「ほんとに神経衰弱が得意だったんですね。覚えた端からすぐに取っちゃうんだもの」
フランセットは背のクッションに深く身を沈め、息を吐いた。
「覚えるのは得意なんだ。これでも王族だからね」
「王族だから?」
「そ。貴族や大臣の顔と名前、家族構成、派閥……いろいろ覚えてないとさ、第三王子とはいえ、いつ揚げ足取られるかわからないでしょ」
それが神経衰弱と何の関係があるのか。ピンと来ないフランセットの様子に、リエトがひとまとめにしたトランプを持ち上げる。そして、クラブのキングとハートのクイーンをテーブルに並べた。
「例えば、こうしよう。キングは僕の父。クイーンは母だ。えーと、じゃあ、スペードのジャックはアメデオにしよう。ダイヤの8はパメラ」
これは外務大臣、こっちは宰相、と、リエトは次々とテーブルにカードを並べていく。
「どう、覚えやすくなったんじゃない?」
リエトがニコリと微笑んだ。いつもなら見惚れてしまう笑顔だが、どうしても気になることがあるフランセットは、唇を一度噛んでからそろそろと口を開いた。
「私は、いないんですか?」
少しだけ震えてしまった声で、そう尋ねた。うーん、と軽く悩んだリエトが顎に指を置く。
「そうだね、フランセットは……ハートの」
リエトが手元のトランプを広げて目を通す。そして、その中の一枚を引き出した。
「ハートの?」
お願い、どうか。
「3」
フランセットは落胆した。
3か。エースが良かった。ハートの、1番。
口にはしなかった分だけ、心に開いたままの穴がどんどんと広がってひりひりと痛んだ。
フランセットは本日、友人メラーニアの邸に招かれ、六人程度の令嬢とのお茶会に参加していた。フランセットだってリエトと遊んでばかりではないのだ。
令嬢たちは、近頃リエトと遊んでいるというフランセットの話を聞きたがったものの、ただただゲームをしているだけだと分かるとすぐに興味は別の話に移った。
「そういえば、カローラ様ってラギエ公国へ嫁いだんじゃありませんでした?」
とある令嬢の言葉に、フランセットは思わず食べかけのビスキュイを落としそうになった。なぜなら、つい最近聞いたばかりの女性の名が出てきたからだ。
『殿下、カローラ様から手紙の返事が届きましたよ』
先日、遊びに行った時に、リエトの部屋にやってきた王城の文官がそう言っていた。文官はリエトの机に手紙を置くと、すぐに帰って行った。フランセットがいる間、リエトはその手紙に触れることはなかったけれど。
令嬢たちの話は続く。
「そうそう、彼女はけっこう長くリエト殿下とお付き合いなさってた記憶がございます」
「カローラ様がご婚約されたら、殿下はすぐに違う方を夜会でエスコートしてらしたわ」
「ねえ、フランセットさん。殿下からラギエ公国のことを尋ねられたりしてるんじゃありませんの?」
令嬢たちの話は、フランセットがまだこのエミリ王国へやってくる前の話だ。全員の目がこちらに向けられ、フランセットは身を固くした。
「えっと……、私の昔話はしましたけど……そのカローラ様のことは存じ上げないので、何とも」
期待外れのフランセットのこたえに、令嬢たちが顔を見合わせる。
「殿下ったら、まだカローラ様のことを忘れられないのかしら」
「まさか。だってリエト殿下よ。……でも、もしそうだったら、ちょっとときめいちゃうわね」
「フランセットさんの故郷の話を聞いて、遠く離れた元恋人のことを焦がれてたのだとしたら、確かにちょっと素敵ね」
令嬢たちがきゃあきゃあと手を叩いて騒ぎ始めた。
もし彼女たちの想像が本当なのだとしたら。彼の心を懐かしい想い出で穏やかに満たすことができたのならば。
それは嬉しいことだな、とフランセットは思った。両方の口の端を上げて、紅茶に口を付ける。
でも、どうしてだろう。心の穴はもう限界まで広がって、ちぎれて朽ち果て、胸いっぱいに痛みが残った。
フランセットは自分の部屋で机に向かい参考書を開いていた。未来の義姉ロジータの熱心な指導のおかげで、文字の読み書きは問題なくできるようになった。
慌ただしくドアをノックする音がして、義兄が部屋に飛び込んできた。
「どうしたんですか、お義兄様。そんなにあわてて」
「フ、フ、フ、フランセット! 着替えるんだ、今、すぐに」
義兄の後ろには、ドレスを抱えた侍女が立っている。あのドレスは、来客があった時用のちょっとオシャレで上品な部屋着だ。
「早く、早く」
フランセットの腕を引いて立たせた義兄が、机の上に広げられた参考書を見て顔をしかめる。
これは、王城の侍女になるための試験対策の参考書だ。義父も義兄もフランセットが侍女になることを良く思っていない。できれば、平凡でそれなりな貴族の元へ嫁いでのんびり暮らしてほしいのだそうだ。二人は目下、急ぎフランセットの嫁ぎ先を厳選しているところなのだ。しかし、フランセットが元平民のせいで、それは難航しているらしい。
侍女の手により、あっという間に着替えさせられたフランセットは、義兄と共に応接室のドアを開いた。
「来ちゃった♪」
大きなソファには清々しい笑顔のリエトがちょこんと座っていた。その向かいの席には、困り果て冷や汗を流す義父がいる。二人はどうやらチェスをして時間をつぶしていたようだ。
「リエト殿下!? どうしたんですか、急に」
フランセットが声を上げると、リエトがちらりと義父に視線を移す。
「兄の代理でこの近くまで視察に来たからついでに寄ったんだ。今なら伯爵とクレメンテ卿が在宅だって聞いたからね」
義父と義兄が軽く青ざめた。お互い顔を見合わせ、ため息をついている。リエトのあの感じだと、フランセットよりも二人に用があったような言い方だ。王家とも近しくもない平凡な伯爵家に何の用だろう。フランセットが首を傾げる。
「いつものメンバーじゃ、そろそろ飽きたでしょ」
リエトがそう言うと、大きな箱を抱えたアメデオが部屋に入ってきた。そして、手際よくテーブルにその箱の中身を取り出す。屋敷の侍女だと思っていたが、よく見たら紅茶を淹れているのはパメラだ。
「え、まさか。殿下」
「そう! これで六人必要なゲームができるよ、フランセット!」
テーブルに広げられたのは、大人数用のゲームだ。運と作戦次第で勝敗が決まるものなので、人数が多ければ多いほど楽しいのだ。
「じゃ、さっそく遊ぼうか。もちろん、遠慮なく。正々堂々と、ね」
リエトがにっこりとほほ笑んだ。
全員が手札を見やり、他のメンバーの顔色を窺う。義父と義兄は困惑して青い顔のまま。アメデオがわずかに眉をひそめた。リエトとパメラのポーカーフェイスは相変わらずだ。
フランセットはぐっと口元に力を入れて、表情を消した―――。
「やったー! 僕の勝ちだ!」
リエトが大きく右手を挙げて叫んだ。勝ち、と言ってはいるものの、彼は三位だ。一位パメラ、二位フランセット。四位のクレメンテと僅差で五位のアメデオ。ぶっちぎりの最下位が義父だった。
何かを言いたそうに口元をムニムニさせている義父の隣で、クレメンテが絶望の表情で落ち込んでいる。
「ふふ、悪いけど勝ち逃げさせてもらうよ。この後も仕事があるんだ」
アメデオから上着を受け取ったリエトが足早に部屋を出て行く。フランセットはあわててその後を追った。
「殿下! そんなに忙しいんだったら、別の日に遊びに来たら良かったのに」
やっと追いついたフランセットにリエトが振り向く。彼は一瞬、意味深な笑みを浮かべた後にすぐに真顔に戻った。
「うん。のんびりしている暇はなさそうだったからね、僕もさすがにあせったんだ」
のんびりしている暇がないのなら、来なければ良いのに。そんなにゲームがしたかったのだろうか。
そんな不敬なことを考えていたフランセットの頬に、リエトがそっと手を添える。あっ、と思った時には、もう、リエトがフランセットの下唇を食むように軽く口付けていた。
「これで予約済みだ。じゃあね、近いうちにまた遊ぼう、フランセット。今度は王城で」
目を見開いて固まっているフランセットを残して、リエトは馬車に乗りあっという間に去って行った。
「フランセットは本当にツイてるよねえ。ビギナーズラックの域を越えているよ、本当に」
かろうじて笑顔を保ちつつも、向かいのソファに座っているリエトはため息をついた。ゲームはまた、フランセットの勝利だった。テーブルの傍らに置いてあったトランプをおもむろに持ち上げ、小気味よい音を立てて手際よく切っている。
カルリ伯爵家に王家の馬車が迎えに来た時、義父と義兄がこれ以上ないほどに顔色を悪くしていた。今回ばかりは、フランセットも気まずい想いのまま馬車に乗り込んだ。
あのキスはいったい何だったのだろう。
そのことで頭がいっぱいだったのに、リエトは全くの通常通りだった。彼のそんな様子に、フランセットは心の底からがっかりした。
きっと彼は、デートした令嬢と別れる際にはいつもああしてキスしてるんだわ。動揺した私がばかみたい。
フランセットはもうあの時のことは気にしないことにした。
「それはですね、きっと私の普段の行いがいいからですね」
フランセットがにんまりと口の端を上げると、リエトはきまりが悪そうに口を歪めた。きっと普段の行いが悪い自覚があるのだろう。
「ねえ、フランセット。僕の義理の姉、第二王子妃ナタリーア様知ってる? 彼女の伯母さんはラギエ公国の公爵家に嫁いでるんだ。伯母さんに会いに何度かラギエ公国に行ったことがあるらしくって。ナタリーア様が今度フランセットと話してみたいって言ってたよ」
リエトの突拍子もない話に、フランセットがぽかんとする。
「え? なぜ、元平民の私なんかと。隣国の話なら、他にもお話し相手はいるのでは」
「まあね。でも、僕が君のことを話したからなんだけど。優しい人だから大丈夫、きっとすぐに仲良くなれるよ」
リエトはよく切ったトランプの山をテーブルに置いた。上質な扇のように広がった長いまつ毛を伏せて、それを一瞥する。
「クレメンテ卿に伝えてくれるかな。僕はもう君が心配しているような男じゃないって」
「義兄が、心配しているような?」
意味が分からず、フランセットが首を傾げる。そして、うつむいたまま視線だけをわずかに上げたリエトに見据えられ、知らず知らず身をすくめた。
そんな彼女の様子を見たリエトは、いつもの柔らかい笑顔を浮かべて口を開いた。
「伯爵はすぐに白旗を上げたようだけど、クレメンテ卿は最後まで粘ったね。でも、最終的に勝負に勝ったのは僕だ。約束は守ってもらわないと」
「何のことだかわかりません」
フランセットは口を尖らせそうつぶやいた。高位な人々の思わせぶりな話し方は好きじゃない。
「僕はね、フランセット」
そう言って、リエトが立ちあがった。そして、ゆっくりと歩いてフランセットの隣に腰掛けた。わずかに腰の引けたフランセットを逃さないとばかりに、背もたれに手を伸ばす。
「全ての人や物を平等に好きで、それ以上も以下もないと思ってた。好きな人が大切な人に出会って、幸せになるのを見ているのはとても嬉しかった。でも、フランセットに会って知ってしまったんだ」
「私に会って?」
独り言のように口の中でつぶやいたフランセットの言葉に、リエトが頷く。ゆっくりと長いまつ毛が瞬いて、瞳の藍色が濃くなった。
「フランセット、君のことは誰にも渡したくないし、どこにも行ってほしくない。君の代わりはどこにもいないんだ。一番、じゃない。こんな気持ちがあるだなんて、知らなかった。フランセット、僕は君だけが好きなんだ」
リエトの瞳はまっすぐにこちらに向けられている。フランセットは顔がカッと熱くなり、頭が真っ白になった。耳のすぐ奥に心臓があるみたいに、ドキドキとうるさい。
「僕にとって、3は大切な数字」
リエトはそう言うと、テーブルに置いたトランプの山を手に取った。
「第三王子の3。夜会で出会って三番目に踊った特別な女の子。フランセット、僕と結婚しよう」
リエトがパン、と小さな音を立てて一番上のトランプをめくった。彼の手のひらの上には、ハートの3が載っている。
「君の義父も義兄も負かした。だから、後はフランセット次第だよ。ねえ、どうかお願い、頷いて」
真っ赤な顔で震えるフランセットのこめかみの髪をすくい、リエトが指で弄ぶ。
いつもは凪いだ海みたいなリエトの瞳は、燃えるように熱くこちらを見つめていた。たまらず、フランセットはこくりと小さく頷く。
「きゃあっ」
嬉しそうに微笑んだリエトは、がばっとフランセットを抱きしめた。しっかりと、きつく。
「ありがとう、フランセット。近いうちに、一緒にラギエ公国に遊びに行こう。そして、君の働いていたパン屋に行って、おススメのパンを食べよう。その後は、お父さんのお墓参りをして結婚の報告をしようね」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられているので、耳のすぐそばでリエトのはしゃいだ声がする。壁際にはアメデオとパメラがじっと息をひそめて気配を消している。どうにも恥ずかしいし、頭の中が混乱しているけれど、足の先までしびれるほどに嬉しさが体中を走り回っている。
リエトの腕の中から何とか顔を出したフランセットが、ぶはー、と息を吐いて、大きく吸う。そして、そっと囁いた。
「私も、リエト殿下のことが大好きです」
これ以上ないほど喜んだリエトがフランセットを抱きしめた。
その数か月後。
フランセットの元々の実家である男爵家から、手違いで渡し損ねていた、と、父の遺産が丸々送られてきた。今頃なぜ、と、フランセットを始めカルリ伯爵家の皆が思ったが、リエトだけはニコニコと微笑んでいた。
フランセットはその遺産を持参金として、無事リエトの元へ嫁いで行ったのだった。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。
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