残り火
リズベットにはかつて、大切な家族がいた。
優しくきれいな母。
真面目で家族思いな父。
美人で気立てのいい姉。
決して裕福とは言えない暮らしだったが、それでも家族四人で幸せな生活を送っていた。
穏やかに流れていく毎日。
リズベットはこの日々が、ずっと続くのだろうとなんの根拠もなく、そう思っていた。
しかし、平和な日々は唐突に終わりを告げた。
リズベットが10歳になった年の、秋のことだった。
その日の夕方、リズベットは買い出しに出かけた母の帰りを姉と待っていた。
買い出しと言っても、少し食材を買いに行くだけのもので、そうたいした時間もかからないはずだった。
けれど、母が出て行ったきり、二時間待っても三時間待っても帰ってこない。
最初は道でも混んでいるのだろうかと思った。
リズベットが住んでいたあたりは、夕方になると仕事から帰ってくる人などでいっぱいになる。
そこで足止めでもくらっているのか、と。
そして、さらに時間が経ち、だいだい色に染まっていた景色が暗闇に沈み、父も帰ってきて―
―――でも、母だけはいつまでも帰ってこなかった。
次の日になっても、その次の日になっても。
そして、ついには警察にも相談する事態になった。
しかし、それでも母が見つかることはなかった。
母の消息は店を出た後から途絶えていた。
店で買い物をしたというところまでは、確かにわかる。
にも関わらず、それっきり、誰も母を見た人がいない。
警察は事件性を見たが、母の悲鳴一つ聞いた人すらいないのだ。
そうして、八方ふさがりになり、捜査は打ち切られた。
―――育児に疲れて失踪したんじゃないか、と言われて。
違う、母さんはそんな人じゃないと言っても、誰にも聞いてもらえなかった。
しかし、人々が諦めても父だけは諦めなかった。
失踪ならば、もう一度話し合うチャンスを。
死んでしまっているのなら、せめて遺体だけでも。
そう言って、父は仕事を片手に探し続けた。
父が母を探し始めてから一年。
リズベットはわずかな物音に目を覚ました。
横で寝ている姉を起こさないようにそっとベッドから下りる。
ダイニングからはほのかな明かりが漏れており、そこには帰ってきたばかりの父がいた。
「父さん、おかえり。ご飯あるよ」
「…ああ」
リズベットが父に声をかけると、父が覇気のない声で応える。
母が消えてから、一気に老け込んだ父だったが、それにしてもいつもより反応が鈍い。
「父さん?なにかあったの?」
不思議に思い、尋ねる。
「…いや、なんでもないさ」
しかし、父の返事はつれないものだった。
不審に思いながらも、リズベットは父の夕飯を用意し終えると、「おやすみなさい」と言ってベッドへ戻っていった。
本当に何かあれば、そのうち言うだろうと思って。
―――このとき、聞き直さなかったことを後悔するとも知らずに。
翌日、リズベットと姉は扉をドンドンと叩く音で目覚めた。
気を抜けば、すぐに下りてくるまぶたを懸命に上げながら扉を開くと、一人の中年の女性がいた。
そのリズベット達家族によくしてくれていた近所の女性が焦った様子で言った。
「あんたんところの親父さんが、誰かに殺されて―――」
全て聞く前にリズベットは走り出した。
心臓の音がやけに耳に響く。
―――やだ、やだ、やだ。
走って行ったリズベットは、人だかりをかき分ける。
遅れてやって来た姉が息を呑んだ。
―――そこには、赤黒く血に染まった、見るも無惨な父がいた。
一気に周囲の音が消える。
人々の悲鳴も、ざわめきも、すべて。
まるで、見えない膜がリズベットの周りを覆ったように。
結局、父の死は通り魔の仕業だろうということになった。
穏やかな人柄で恨まれるようなことは何もなかったのだから、当然の結果だろう。
周りの人は、父が母について調べるうちに何か知ってしまったのではないかと噂し、リズベット自身もそう思ったが、真相は闇の中だった。
父が死んで、リズベットと姉の暮らしは一変した。
家族の大黒柱がいなくなったのだ。
姉は、つたないながらも知り合いの伝手を使い、店で働くこととなった。
しかし、まだ姉は子供で、お金もそんなにはもらえない。
家も前と同じ所ではなく、安いがぼろぼろの家に移り住んだ。
リズベットが姉に内緒で、暗殺業を始めたのもこの頃だ。
姉が毎日毎日働いているのに、自分には何にもできない。
内職程度では、なんの足しにもならない。
その時に、ある人から紹介されたのがきっかけだった。
幸い、その手の才能があったらしく、みるみる腕を上げていった。
最初は殺すことに抵抗があり、初めて人を殺めたときは食べたものすべてを戻した上、夜も眠れなかった。
しかし、回を重ねるにつれてその抵抗もなくなっていった。
時折入ってくる多額の金に姉は困惑しながらも、自身の忙しさを理由にそのままにしていた。
父の死から二年後。
平穏とは言えずとも、なんとか生活が軌道に乗り始めていた。
リズベットや姉も、少しずつ以前の笑顔を取り戻していた。
しかし、三回目の不幸がリズベットに襲いかかった。
その日の夜、リズベットは夕飯を作り、姉の帰りを待っていた。
たった一人でリズベットを養っていた姉の帰りは遅く、日付を越えることも多々あった。
だからその日、姉が日付を越えても帰ってこないことは、なんら不思議なことではなかった。
にも関わらず、リズベットには変な胸騒ぎがした。
きっと、母が消えたあのときと似た状況のせいだろう。
そう思っていたが―――。
翌日になっても、姉は帰ってこなかった。
リズベットは、自分に持ちうるすべてを使って姉を探した。
そして、ついに見つけた姉は―――。
乱れた衣服。見開かれた瞳。苦悶の表情。
何をされたかなんて、一目瞭然だった。
「…姉さん」
自然と握ったこぶしが震える。
心の中にずっと前からあった憎しみの種が芽吹き、どす黒い花を咲かせる。
―――許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない 許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない
母や父のときは、まだリズベットにとって守るべき大切なものがあった。
だからこそ、彼女は復讐の道に進まなかったのだ。
しかし、今や彼女の中には何も残っていない。
リズベットを止めるものは何もなかった。
復讐を誓ったリズベットは慎重に事を進めた。
まずは、母を、父を、姉を奪い去ったのは誰なのか。
それを徹底的に洗った。
簡単にはしっぽを掴ませてはくれなかったが、一年かけて調べ上げたところ、意外な事実がわかった。
すべてが同一犯というわけではないが、大元は同じだったのだ。
その元凶は、さる貴族だった。
それなりに大きい貴族で、表向き評判もよい。
しかし、その当主は大の女好きで、夜ごとに女を囲い、綺麗な女性を見つけてはさらって弄び、死んだら死体を『影』に始末させていた。
母を殺したのはこの当主だった。
また、その事実を知った父も『影』によって殺された。
あの夜、父の様子がおかしかったのも、事実を知ったせいだったのだろう。
さらに、この当主の息子であるトーマスも当主と同じく女好きで、姉を殺したのは彼だった。
母も姉も美人と評判だったが、それがあだとなっていた。
貴族に刃向かい、なおかつ殺しでもすれば、リズベットはただではすまないだろう。
だが、リズベットは、
「…もう、なんだっていい」
―――仇さえ討てるなら。
リズベットの望みは、ただそれだけだった。
姉が死んでから、二年。
リズベットが15歳の時、暗殺業の斡旋をしている男から、一つの依頼が舞い込んだ。
それは、アーグ男爵家からの依頼だった。
依頼内容は、リズベットの仇であるトーマスの暗殺。
男爵家には一人娘がおり、夫妻は娘を可愛がっていた。
その娘は、綺麗な容姿をしており、周りからも好かれていた。
しかし、ある日、娘が消えた。
いくら探してもなにも出てこない。
それでも、諦めずに探し続けた結果、トーマスが関わっていることを知った。
依頼は、内容が内容なだけに、たらい回しにされていた。
この依頼を実行するということは、貴族を敵にまわすに等しい。
いくら報酬をつり上げたところで、命には代えられない。
しかし、リズベットはこれを受けることにした。
リズベットが男爵家に出した条件はただ一つ。
報奨金はいらない。
かわりに、暗殺が成功するように最大限サポートしてほしい。
男爵家は一も二もなくうなずいた。
そこからは速かった。
トーマスのいるという学園に入り、彼に近づき、殺せる機会を待った。
彼の懐に潜り込んだ後も、絶好のチャンスをただ待ち続けた。
トーマスに触れられるたびに、思わず鳥肌が立ってしまった。
彼に名前を呼ばれるたびに、どす黒い感情が漏れ出そうだった。
彼に唇を奪われたときは、懐に隠していた暗器で殺してしまおうかと思った。
でも、暴れ出しそうな激情を抑えて抑えて抑えて―――
そして、今―――。
長年の刃が、やっと彼らに届いた。
* * * * *
一度住処に戻り、綺麗な服に着替えたリズベットは、家族の墓参りに来ていた。
残念ながら、母の遺体は見つからなかったが、それもしかたない。
気持ちだけでも、墓を作っておいた。
「…母さん、父さん、姉さん。やっと仇が討てたよ」
本当に、本当に長かった。
何度も何度もくじけそうになって。
やっと積年の恨みを晴らすことができた。
それでも、まだどうしようもない憎しみが胸の中でくすぶっている。
これはもう、消えることのない炎なのだろう。
生きてる限り、燃え続ける残り火。
だけど、これでよかった。
大切な家族を苦しめたやつらを生かしておくことだけが、一番許せなかったから。
ほうっと息をつく。
ずっとこの身を縛り続けた鎖が、ようやくはずれる。
「ねぇ、母さん達はきっと天国にいるんじゃないかな」
優しい人たちだったのだから。せめて天国で幸せにやっていてほしい。
「でも、私は母さん達と一緒のところにはいけないと思う」
たくさんの人を殺してきた。
トーマス達のようなクズを殺したことを後悔はしていないが、中には罪のない人もいた。
「…本当は、生きるべきなんだと思う。殺してきた人の分まで」
でも、もう疲れてしまった。
いい加減、解放されたい。
この、身を焼くような苦しみから。
「だから、ごめん」
つぶやくように謝る。
もう、心残りなんてない。
家から持ってきた、さび一つない刃が月明かりに照らされて、鈍く光る。
リズベットは小さく息をつく。
そして、そのいっそ美しいとすら思える刃を、自分の首に振りかざした。
「…大好きだよ」
翌日、ある墓の前で一人の少女が血を流して倒れていたのを、近隣の住民が見つけた。
そばには、血に濡れた刃が落ちており―――
―――少女の口元には、安堵の笑みが浮かんでいた。
補足(本文で語りきれなかった部分)
イザベラ嬢は、トーマスの本性についてはまったく知りませんでした。リズベットの真意も含めて、後日初めて知ることとなります。事を知った彼女は、先に彼らの所業を知っていればと後悔しました。
さらに、『影』は私の中で実はもう一人いる設定でした。だって、なんかそんなイメージない?でも、二人も出てくるのはちょっと絵面的にダサいので、もう一人は本編に出てきた『影』(名前はグアム。国の名前じゃないよ!)に倒されたことにしておきました。
あと、本編に出てきた「警察」。この時代に警察なんているの?と思った方。名称はともかく、警察みたいなものと思っといてください。
ちなみに一話でのイザベラ嬢視点は、単に第三者の視点がほしかっただけなので、特に深い意味はありません。
ありがとうございました。