燃え上がって
「婚約を白紙に戻してほしいんだ」
彼の屋敷に来て開口一番。
イザベラに向かって、彼女の婚約者であるトーマスはそう言った。
「……すみません。今なんて?」
いきなりのことに何を言われたのか理解できず、思わず聞き直す。
それも当然、トーマスは品行方正で礼儀正しく、優しいできた人物であることで有名だった。
それが突然現れ、婚約を白紙に戻してくれなんて聞き間違いを疑ってしまうのも無理はない。
「いきなりのことで悪いが、これにも一応わけがあるんだ」
そうして彼が語ったことをまとめると、要はいわゆる『真実の愛』とやらを見つけたらしい。
相手は同じ歳の男爵令嬢リズベット・アーグ。
イザベラの記憶が正しければ、確か元々平民で後にアーグ男爵家の血縁であることがわかり、引き取られて男爵令嬢となった、という少し変わった経歴の持ち主だったはずだ。
ついでに言えば、イザベラという婚約者がいるトーマスにつきまとっている姿をよく見かけた。
常識を持っているトーマスであれば、適当にあしらって終わるだろうと思っていたが、まさかほだされてしまうとは。
自分の気持ちを偽れず、このような結果となったらしい。
「君には悪いことをしたと思っている。本当にすまない」
心底申し訳なさそうに謝る目の前の婚約者。
イザベラはそっと息を吐き出す。
きっと、この婚約者も悪意があってこんな事態に持ってきたのではないだろう。
ただ単純にイザベラに悪いと思ってのことだ。
その証拠に婚約破棄などと言うことは一切言葉にしていないし、事前にイザベラに話を持ってきた。
他の男であればきっと、イザベラとの婚約を持続させたまま、その男爵令嬢と遊ぶなんてこともありえただろう。
貴族同士の結婚などそんなものだ。
その点、彼がイザベラの気持ちを考えて婚約の白紙を持ち出してくれたことにありがたく思うべきなのかもしれない。
ただ一つ、イザベラの恋心さえ無視すれば。
「失礼しまぁす」
そう思考を巡らせていたとき、その間延びした声とともにコンコンと扉を叩く音がし、間をあけずに部屋のドアが開いた。
軽くカールした柔らかな金色の髪。
淡い青い瞳に真っ白な肌。
低い身長も、小動物を連想させる愛らしい顔立ちのおかげで庇護欲をかき立てるばかり。
他の人ならば鬱陶しく感じる間延びした話し方も、彼女なら許されるような気がするから不思議だ。
そんな彼女こそ、今現在話題に上っているリズベットである。
「リズ。今日は私とイザベラとの会談だから来てはいけないといったはずだろう?」
「ごめんなさぁい。でもぉ、どうしても気になっちゃってぇ」
いきなりドアが開いたと思えば、誰の許可なくやってくるあまりの無礼に唖然としているイザベラを置いて二人の会話が進む。
「…はぁ。来てしまったものは仕方ない。おとなしくしているんだよ」
「わかってます。それぐらいの常識はありますよぉ」
この期に及んで礼儀とはなんだと叫びたい気分だが、かろうじて心の内にとどめる。
こんな女に惚れて婚約の白紙を言い出すとは、目の前の婚約者様は頭でも打ったのだろうか。
「そんなわけで、婚約を白紙にしてくれないだろうか」
「そうですよぉ。トーマス様にとってもぉイザベラ様にとってもぉ婚約を白紙にした方が、お互いのためですぅ」
そう言うリズベットは甘く笑っているが、その瞳はどこまでも冷たい。
「まぁ、私が勝手に言い出したことだ。しばらく考える時間があった方がいいだろう」
そう言う彼を見て、イザベラはまた一つため息をつくと
「……いいえ、結構です。いくら時間をあけようとあなたの気持ちは変わりそうにありませんし。私の両親には私の方から伝えておきますので」
そう言ってから、また一息つく。
心臓がバクバクいってうるさい。
今更ながら、自分はこんなにも彼の事が好きだったんだと気付く。
でも、もう遅い。
自分にできることはなにもない。
ただ、婚約者を奪った女の前で無様な姿をさらすことだけは自分のなけなしのプライドが許さない。
「ですから、婚約の白紙、受けましょう」
声が震えないように、必死に言葉を紡いだ。
* * * * *
イザベラが彼の屋敷を去った後。
イザベラの婚約者であるトーマスは、陰で細く微笑んだ。
まさかあの場にリズベットが乱入してくるのは予想外だったが、結果として彼女との婚約の白紙が叶ったのだから。
貴族にありがちなお家同士の結婚だったが、彼はイザベラの何もかもが気に入らなかった。
あの冷たい容姿も堅い性格もすべて。
だからこそ、この婚約の取り消しの機会をうかがっていたのだ。
トーマスは、外でこそ品行方正な好青年として通っていたが女にだらしなく時として町に住む少女などをさらって遊ぶこともあるほどの人でなしだった。
そんな気が強く貴族然としたイザベラが嫌いな彼だったが、リズベットはよかった。
容姿も体も素晴らしいし、頭も弱く性格もアレなので操りやすい。
「トーマス様~。やりましたね!トーマス様の悩みの根源、撲滅です!」
「あぁ、そうだね。全部君がいてくれたおかげだよ」
えへへ~と笑う彼女に向けて、特上の笑みをつくる。
「そうだ。今夜、私の部屋に来てくれないかい?」
トーマスの半歩ほど前を歩いていたリズベットがピタリと止まる。
いくら頭が弱いといえど、その言葉の意味もわからぬほど幼くはない。
「え、え、え~?そ、そんなぁ急すぎませんかぁ?」
「嫌かな?」
そう言ってトーマスはリズベットに顔を近づけると、彼女は照れのせいかすぐさまプイと横を向く。
「そ、そんなことはありませんけどぉ」
「なら、決まりだね」
ようやく彼女で楽しめる、と薄く微笑んだ。
* * * * *
その夜、彼が自分の部屋で待っていると、控えめなノックが聞こえた。
すぐに扉に手をかけ、開くと扇情的なネグリジェを着てモジモジするリズベットがいた。
「やぁ。よく来てくれたね」
そう言って彼女を部屋へ招き入れる。
護衛達は婚約の白紙のすぐ後これではさすがにまずいため、適当なことを言って下がらせている。
だからこの部屋には彼と彼女の二人だけだ。
ドアに鍵をかけたことを確かめると、バッと彼女を押し倒す。
「ま、まってくださぁい」
彼女の心細げな悲鳴も待たずにただネグリジェをはぐ。
もう、ここまで来たら本性を隠さずとも構わない。
「もう、仕方ないですねぇ―――」
そう、彼女がそっと微笑み―――
―――ドンッ、と何かが胸に突き刺さった。
「―――ねぇ、だから、精々苦しんで地獄に落ちてくれませんか。人殺しさん」