二話:記憶の行方
気が付いた時、ダレンはまだ地面に寝ていた。
目を開くと、薄暗い霞んだしらみ空が視界に広がり、今の時刻が早朝だと分かった。
「具合はどう?」
高く澄んだ声とともに、彼の視界に顔を出すのは見知らぬ少女だ。ダレンは咄嗟に状況が飲み込めず、質問に「あぅ」だの「おぅ」といった呻き声に近い曖昧な答えを返す。
そしてなぜ自分が柔らかいベッドではなく、固い石畳の上で寝転がっているのかを寝起きのぼんやりした頭で考え、
「のわああああ!?」
思わず素っ頓狂な悲鳴を上げた。
瓶の栓を抜いたように昨夜の記憶が溢れ出てくる。全てを思い出したダレンは、地面に尻をつけたまま、後ろの壁にぶつかるまでずりずりと猛烈な勢いで後ずさった。
「おまっおまおまお前はさっきの!?」
「ちょっと、そんな慌てなくてもいいじゃない。何もとって食おうとしてるわけじゃあるまいし」
腰をかがめてこちらを覗き込んでいた少女は、必死に自身から離れようとする彼の反応に眉をひそめる。
しかし当のダレンは彼女の文句を聞く余裕など微塵もなく、幽霊でも見るかのような顔で声の主を凝視していた。
水色の淡い長髪。真紅の双眸。病的なまでに白い肌と、信じられないほどに美しい端正な顔。すらりとした身体の上に、なぜか見覚えのある上着を羽織っている。
間違いない。彼女は、紛れもなくさっきの『少女』だった。
路地裏、つまりここで出会った裸体の少女だった。自身の血潮を全身に浴びて、半死半生の状態だったはずの少女だった。四肢の半分が欠け、体の至る箇所に瀕死の重傷を負っていたはずの少女だった。
だというのに、
「なんで、治ってるんだ……?」
「はい?」
「はい?じゃないだろ!お前、さっき自分がどうだったのか覚えてないのか!?」
小首を傾げる彼女の体には傷はおろか、血の一滴すらもかかった痕跡はない。
身体は五体満足に揃っているし、片方が欠けていたはずの二つの眼窩には、くりくりした紅い目が左右同じく埋め込まれている。
「さっき?さっきっていつ?」
「さっきはさっきだよ!ほら、ここで倒れてたじゃないか!たくさん血を流し、て……」
辺りを見回して少女が倒れていたゴミ捨て場を探し、指さす。が、そこでもあれほど流れていた鮮血が、一切の痕跡も残さず忽然と姿を消していた。
『嘘だ』『信じられない』といった単語が頭の中でぐるぐる回る。しかしいくら目を擦っても、怪訝な表情でこちらを見やる少女はピンピンしてるし、石畳には血痕すら見当たらない。
もしや夢、だったのだろうか。
今、自分の記憶に残っているのは単なる幻想なのか。気絶している最中に見てしまった、質の悪い悪夢に過ぎなかったのだろうか。
だとしたらあの非現実的な光景も、夢の産物という一言で納得がいく。
と、一瞬ふとそう信じそうになったが、同時に渦巻く思考の一角が『いや、それはおかしい』と抗議の声を上げる。
もしあの出来事全てが夢だというならば、たった今、目の前にいる少女についてはどう説明する?
顔の構造、髪色、肌色、体形などどの要素であろうと、先程の瀕死の重傷を負っていた彼女と一致するこの人物は、いったいどこから出てきたというのだ?
「なぁ、おま……いや、君さ、名前はなんていうの?というか、そもそもどうしてここにいる?」
「あー、えっと、実はその」
藁にも縋る思いで眼前の人物に聞いてみる。
彼女は一度、何か言いかけて口を閉じ、それから答えに窮したかの如く、俯いてもごもごと呟く。
「実はその?」
「信じてもらえないと思うんだけど――」
「いいさ、何だって言ってみろ。もうだいぶ信じられないものを見た後なんだから、むしろなんだって信じられる」
そうダレンが回答を急かすと、悩んでいた少女は顔を上げて、意を決したように口を開いた。
「私、記憶喪失なの」
「……はぁ?」
記憶喪失?キオクソーシツ?
記憶喪失とはアレだろうか、自分の名前も年齢も過去に体験した記憶も、全部忘れてしまうだとかいうあの病気のことだろうか。
「えぇ……何か覚えてないのか?ほんの些細なことでもいいからさ」
「どうでしょうね。私に残っている記憶は、たった今貴方とこうして話していることだけ。それ以前は全然、何も思い出せないのよ」
「本当に?」
「本当に」
「誓って本当の本当に?」
「誓って本当の本当に。というか貴方、やっぱり信じてないんじゃないの?」
こちらの疑わしげな口調に気付いたのか、ジト目で睨んでくる少女。
だがダレンにとってみれば、彼女の言い訳はまことに胡散臭く聞こえた。
そもそも『記憶にございません』だなんて、何か後ろめたい事情がある奴が使う言い訳の常套手段ではないか。
ただでさえ半裸で路地裏にいる時点で怪しさ満点だというのに、そんなことを言われたらますます何か隠してないか疑ってしまう。
とはいえ、もしかしたら本当に記憶を失っている可能性も捨てき切れない。
つまるところ、少女が本人の言う通り記憶喪失なのかどうかは分からないままな訳だ。
ついさっき、ゴミ捨て場で見た凄惨な光景も、目の前の重要参考人――彼女のド忘れのせいで、夢で見た幻か、現実にあった出来事だったのか全く判断出来なくなってしまった。
「もうこれ何が何だか分からんな……」
もはや考える行為が面倒くさくなってきた。疲れたようにぼやいて嘆息するダレンに、少女はもっともらしい表情で頷く。
「奇遇ね、私もよ」
「あぁそうですね、何せキオクソーシツですもんねー。ま、強く生きてください、僕はちょいと用事がありますんで、ここらでおいとまさせてもらいます『待って』ほぶべっ!?」
適当に場を誤魔化しつつ、こっそり立ち去ろうとした彼の足首を、少女はすかさず鷲掴みにする。おかげでダレンは盛大にこけ、顔面を強打する羽目になった。
「何いい感じに逃げようとしてるのよ」
「ぬおお痛い!鼻痛い!結構洒落にならないレベルで痛い!」
「大袈裟ね、ちょっぴり赤くなっただけじゃない」
「痛いもんは痛いんだよ!ってか何で止めた?言いたいことでもあるのか?」
「そう、私は貴方にどうしてもお願いしなきゃならないことがあるの」
打って変わって真剣な表情を浮かべる少女。その様子に理由は分からないが、どことなくいやな予感を察知するダレン。
彼女は何故だかとても見覚えのある上着の埃を払って立ち上がり、芝居がかった調子で何やら話し始めた。
「私は今、自身の名前すらも思い出せない、身寄りのない女なの。しかもびた一文の金すら持っていない」
「はぁ」
「つまりこのままだと野良犬の如く彷徨い歩いた後、いずれ飢え死にする運命。お先真っ暗なの」
「で?」
「というわけで――」
こちらの冷ややかな対応も意に介さず、少女は胸に手を当てて言い放った。
「――私を養って!」
「嫌です」
「もちろん、別に何もかも面倒見てもらおうってわけじゃないわ。ちょびっとばかしの食べ物と、風雨をしのげる場所があれば十分だから」
「嫌です」
「ほ、ほんの少しの間でいいのよ?たった数日くらい。迷惑だって、なるべくかけないようにするわ」
「嫌です」
「――ねぇ、お願いしてる私が言うのもなんだけど、こういう時は困っている人に優しくするものよ?」
そっけない対応を見るに見かねたのか、呆れた眼差しで至極道徳的な忠告をしてくる少女。
確かに彼女の教えは全くもって正論だと思うが、ダレンだって主張したいことがある。
「いくら請われても嫌なものは嫌だっての。そもそも、半裸で路地裏をうろついている身元不明の奴なんぞ、いったい誰が関わり合いになりたいと思うんだ?」
「ぬぐっ」
「そもそも年頃の少女が一人で男の家に泊まろうとすること自体がおかしいだろ。もっとこう、然るべきところを頼れよ」
「ぬぐぐっ」
「第一、誰かと一緒に暮らすなんて絶対金も手間もかかる。悪いが僕には、見知らぬ人の面倒を見れる自信がない」
そして口にこそ出さなかったが、昨夜の出来事が、彼女の願いを断る最大の要因だった。
いくら夢だったかもしれないと言っても、あの体験はあまりに現実味を帯びており、生々しすぎた。
脳裏に鮮やかに焼き付いたあのグロテスクな光景を思い出すだけでも、再び身体が震えそうになるくらいにはトラウマになってしまったのだ。
正直、一刻も早く忘れたい。しかし今後少女の顔を見るだけで、あの記憶は何度でも鮮明に蘇ってきてしまうだろう。
困っている彼女には悪いと思うが、彼は自分の我儘を通すことに決めたのだ。
「すまないが、そういうわけなんで他を当たってくれ」
「はぁー!冷たい奴ね、要するに貧相な生活を送っていて余裕がないから、無理だと言って断ろうとしてるのね?」
「貧相いうな!怪しい奴と関わり合いになりたくないだけだっつーの。とにかく、この近くにある憲兵所なら、身寄りのない人でも保護してくれるはずだ。頼るならそこを当たってくれ」
視線を逸らして今度こそ立ち去ろうとするダレン。そうして踵を返し、背を向けて歩き出したところで、
「えーっと何々……名前はダレン・ヴァセスク、西暦2001年生まれ。住所はトレティスアナ通り四番地ーー」
「ちょおおっと待てえええ!なんでアンタ僕の個人情報を知ってるんだ!?って、もしかしてそれ……」
何故だかとても物凄く見覚えのある上着を纏った少女は、同じく見覚えのある財布をごそごそと取り出して、身分証明書らしきカードを読み上げている。
「おいこら、僕の上着と財布を返せ」
「嫌ですー。私からこの上着を取ったらそれこそ素っ裸になっちゃうじゃない。というか貴方が目を覚ました時からずぅっと着ていたのに、今頃自分のだって気付いたの? バカなの?」
「うっさい、はよ返せ。窃盗は洒落にならんぞ」
焦る気持ちを抑えながら、少女の持っている財布に手を伸ばす。
が、彼女は予想外に俊敏な動きで、ダレンの掴もうとする手をひょいとかわして財布を背後に隠し、
「嫌って言ったら嫌よ。私だって生きるのに必死なの。どうしても返して欲しいのなら、私の衣食住を保証しなさい」
そう言ってビシッと指を突き付けてきた。
思わず苛ついて、「この、いい加減に――」と声を荒げかける。
だが、睫毛に覆われた少女の瞳と向き直ると、そこには一抹の緊張を含んだ、ひどく不安げな感情が映っていた。
おまけに、上着の裾の届かない剥き出しになっている白い素足がわずかに震えているのを見ると、沸き上がったダレンの怒りの気持ちは急速に萎んでいった。
「……お前、もしや心中かなり怖がってないか?」
「怖がってない」
「いや、よく考えたら見知らぬ土地で前後左右も分からない状態だろ?普通怖がるよな、それ?」
「普通はそうでも、私は怖がらないの!困ってはいるけど!」
何故かムキになっているが、本心は随分と弱っているらしい。平静な様子に見えたのは、ただ気丈に振る舞っていただけのようだ。
「あー、もう分かった分かった。ほんの少しの間だけ家を使わせてあげるから、それで勘弁してくれ」
「……ほんとう?二言はないわね?」
「心配しなくとも、一度した約束を翻すような真似はしないよ。だからほれ、財布返せ。上着はあとでいいから」
そう言って手のひらを差し出すと、少女はおずおずと財布をダレンの元に戻す。
それを無造作にズボンのポケットに突っ込んで、彼は「さて」と呟き――
思い切り深く息を吸い、口に指を当てて甲高い口笛を吹いた。
澄んだ早朝の空気と、かすかに聞こえてくる目を覚まし始めた都市の喧騒にその音が溶け込んでいく。
やがて口笛の余韻が完全に消え失せ、静寂が路地の空間を満たしたかと思うと、
直後、遥か遠くの上空から現れた何かが、猛烈な勢いで飛行してきて、ダレンと少女の前で急ブレーキをして停まった。
一見、バイクの形をしている。だが、本来あるはずのタイヤがない。
代わりに取り付けられているのはごちゃごちゃに組み込まれ、肥大化した不恰好なエンジン。爆音とともに蒸気を吹き出し、小刻みに震動している。
見るからに奇妙なその乗り物は、空中のちょうど座りやすい高度でホバリングしていた。
「……何このキテレツな物体」
「何って、『モーゼル』に決まってるだろ」
「……どういう原理で浮かんでるの?」
「そんなん魔法だよ、魔法。ほら乗って」
手慣れた風に座席にまたがって手招きするダレン。少女は最初躊躇っていたが、やがておっかなびっくりといった様子でそろりそろりと乗り込んできた。
スピードメーターの隣に並ぶ、硝子の半球で覆われた円盤。そこに描かれた幾何学模様にダレンが手をかざす。
二人を乗せた宙を漂うバイクは、唸るような排気音を響かせて発進したのだった。