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一話:終わりの始まり

 ヨーロッパの東に位置する国、ルーマニア。世界有数の魔女信仰の根城である。


 かつてこの国では、槍を携えた騎士が馬に乗り闊歩していた時代から、数々の迷信が生まれていった。

 ドラキュラと呼ばれ、串刺し公の異名を馳せたヴラド・ツェペシュ。闇の森に潜む人食い植物、マンドラゴラ。満月を背に吠え猛る人狼。悪魔を使役するとされる、腰と根性の折れ曲がった冷酷無比な醜い老婆、魔女。


 人間の誇大妄想から生まれた幻想の記憶は、時が経つにつれて次第に風化していく。それはこのルーマニアとて例外ではない。

 現代の人々にとってこれらの幻想は、いまや絵本の中にしか存在しない、非科学的なおとぎ話でしかなくなった。


 だが二十一世紀になり、幻想が科学と理性の進歩に一蹴され、せせら笑われるようになろうとも。


 串刺し公のイメージが単なる小説モデルでしかなく、マンドラゴラなど食中植物の見間違いで、人狼は狂犬病に陥った重度の精神患者を誤認したものだと証明されようとも。



 魔女という存在だけは決して消えないし、風化もしない。




 なぜなら魔女は実在するから。幻想のおとぎ話でも何でもないから。


 人間のすぐ傍で社会を形成し、信じられないほどの高度な技術を発展させているから。


 彼らは高層ビルの立ち並ぶ大都市のど真ん中で、何らかの方法で人目を避け、ひっそりと盛大に己の文明を築き上げている。

 吸血鬼、人狼、人食い植物。結界、錬金、呪術と幻想なら何でもござれ。

 この世の幻想を真実に変えて利用する力を、魔女は握っている。そんな魔女達が、皆気付いていないだけで世界中に散らばっている。


 イギリスにもアメリカにもドイツにもアジアにも、勿論ここ、ルーマニアでも。


 これから登場するダレン・ヴァセスクという少年は、そんな二十一世紀に生きるルーマニアの魔女の一人である。









 西暦2019年。


  真夜中の路地裏にあるゴミ捨て場。ぽつんと寂しく佇む錆びた街灯が、時折ブウウウンと音を立てて明滅を繰り返す。

  弱々しい光に照らされた石畳の上には、無造作に積まれ、放棄されたゴミ袋の山。きつく口を縛られた各々の黒いビニール袋の周りで、数匹のハエが飛び交っている。


  生臭い匂いが充満する薄汚れた空間の中で、ソレはまるでボロ雑巾のように転がっていた。


それはどうやら、少女の死体らしかった。


 四肢の揃わない見るも無残な裸体が、糸の切れた操り人形のような姿勢で壁に背中を預けて寄りかかっている。

  背中まで届く淡い水色の長髪は、地面にばらけて這いつくばり、深々とうなだれた頭の後ろには、白い首筋が見えていた。

 病的なまでに青白い肌で包まれた細い体躯は、胸から腹にかけてぱっくりと裂け、赤い肉がはみ出している。

 傷口からは黒い血が滝のようにが溢れ、びちゃびちゃと嫌な音を立てて地面に弾け飛んでいる。乾いた石畳のキャンバスをどす黒く染めながら、生き物のように死体を中心にして帯状に広がっていく。


 胴体と幾分離れたところに転がっているのは、千切られた手足だろうか。ママレードみたいにぐしゃぐしゃに潰された四肢の断面からは、尖った白い骨が突き出ており、先端に鮮やかなピンクの肉片がこびりついていた。


 背格好からして、女性に間違いない。が、それ以外は何も分からなかった。

 いったい何という名前だったのか、いったいこの薄暗い路傍で何が起こったのか、なぜ彼女はこのような無残な姿にされてしまったのか。


 血の絨毯に力なく座り込むその人物に出くわしただけのダレンにとっては、その一切の何も分からなかった。


「嘘、だろ。なんで、どうして。こんなところで」


 目の前の光景に頭が真っ白になり、動悸が早まる。肺が不意に空気を求め、カラカラになった喉が荒い呼吸を何度も何度も繰り返す。


 何も進んでこんな光景が見たかった訳じゃない。

 路地裏の奥に大きな影が見えて、怖いもの見たさにふらりと立ち寄ってしまった。何か珍しいモノでもあるんじゃないか。そんな軽い気持ちで足を運んでしまった。


 その好奇心の結果が、惨劇を目撃してしまった今に繋がっている。


 来るんじゃなかった。そう激しく後悔しても、もう遅い。

 地面にぶちまけられたどす黒い血と肉の破片。四肢を毟られた裸体。

 目の前の残酷な光景は、脳裏に嫌というほどはっきりと焼き付き、肺を押し潰さんばかりの圧迫感を放ってくる。


 逃げたい。今すぐ振り返って、今まで来た道を全力疾走して帰りたい。


 それでも、怖いもの見たさのせいだろうか。

 視界に映る者から、なぜか目を背けることは出来なかった。全身の傷から生命の源を流し続けるソレは、棺桶に眠る死人特有の怪しい魅力で彼の怯える心を惹きつけた。


「寒い、寒い……」


 凍てついた静寂の中で、微かに、本当に微かに聞き取れる音。

 か細い消え入りそうな声がダレンの鼓膜を揺らし、彼の意識は急速に現実に引き戻される。同時に、眼前の人物がいまだ生きているという事実を知る。


 ふと気付くと、無意識のうちに足が動き出していた。


 ピチャリ、ピチャリと血が足元で跳ねる音がする。


 一歩、また一歩を踏みしめるごとに、心を圧し潰す恐怖の重さが倍増していく。同時に己の不可解な行動に対して、理性が警告を発する。


 彼女の身体に刻まれた傷は、明らかに致命傷だった。何せ四肢がもげ、内臓がはみ出しているのだ。医学の素人であるダレンであれど、そのぐらいは一目瞭然だった。


 では、どうして生きているとはいえ、もう助からない者に歩み寄っているのか。

 もしかしたら、こんな暗い路地裏で誰にも見られることなく息を引き取るであろう者に対して、同情の念を覚えたからかもしれない。孤独に死んでいく寂しさを想像して、つい哀れに思ってしまったからかもしれない。



 死体の傍で、震える膝を折って腰をかがめる。

 焦燥に駆られた心臓が、ドクンドクンと胸の中で激しく鼓動する音が聞こえる。肺が空気を求め、カラカラになった喉が荒い呼吸を何度も何度も繰り返す。


 そして暗闇に慣れていない両目を細め、顔を近付けたその時。


  目の前の人物の全身の傷から、突如として無数の細い糸らしきものが顔を出すのが見えた。


  いや、糸というのは正確ではない。微少な刺をびっしりと並べた、緑色の毒々しい植物――


  それは無数の『いばら』だった。


  真紅に開いた傷口からうねうねと這い出してのたくる、数百ものいばら。何千、何万と次第に枝分かれして数を増す茎一本一本から、血液がポタポタと滴り落ちている。

  見る者に嫌悪感を呼び覚ます得体の知れない植物。それはまるで引き裂かれた傷を繋ごうとするかのように、互いに絡まり結び合う動きを、何度も何度も繰り返していた。


「――ひょえっ」


 声にならない掠れた悲鳴。同時に腰が抜け、思わず尻餅をつく。

  その時ダレンを襲った感情は、恐怖などという生易しいものではなかった。

  全身の皮膚を這い、暴風のように駆け巡っていくもの凄まじい戦慄。背から胸にかけて貫いていく激しい悪寒。


  ――化け物。


  そんな一言が脳裏をかすめる程度には、あまりにも異様な光景だった。


 そして、ダレンが思わず漏らした悲鳴に反応したのか、


「誰か……誰か……そこに、いるの?」


 今にも息絶えそうなか細い声ともに、目の前の人物はゆっくり、ゆっくりと俯いていた顔を上げる。


 マズい。マズいマズいマズいマズいマズい。離れなくては。一刻も早くこの場から去らなくては。


 最早何も考えられないほどに混乱の極みに達した思考ではあったが、それでも『この人物には関わってはいけない』という、直感から来る妙な確信と危機感を抱いていた。

 しかし胸を焦がす激しい焦燥とは裏腹に、脚はガクガクして言うことを聞かず、視線は眼前で徐々に首をもたげる存在から離れない。

 呼吸はもはや喘ぎに近くなり、耳の奥では早鐘みたいな胸の鼓動がドクンドクンと脈打って聞こえる。


 そしてーーその人物の顔を、見てしまった。


 街灯の明滅する光が少女の右頬を青白く染め、端正な片顔が彫刻のように浮き彫りになっている。

 長い睫毛に覆われた、吸い込まれてしまいそうな真紅の目。霞がかかったようにどんよりした瞳が、怯えと緊張で固まったダレンの視線を捉えて離さない。

 あらゆるパーツが信じられないほどに整ったその右顔は、まるで芸術家が描いた屈指の名画からそのまま抜け出てきたかのような、作り物めいた美貌を感じさせた。


 だがくすんだ影が差す彼女の左顔は、濃厚な香りを放つ血とおびただしい繊維に覆われていた。

 ひどく小さな糸一本一本が、ぞわりぞわりと音を立ててむき出しになった表情筋を這いずり、絡まり合って編み物の如く白い絹肌を生成していく。

 落ち窪んだ眼孔にはあるべき眼球が欠け、閉じられた瞼の目尻から赤黒い液体が雫となって流れ落ちている。


 少女の顔には美しいなどという表現を拒むほどの絶世の容姿と、見る者に畏怖を抱かせる醜悪な異形が同居していた。


 ダレンはもはや、指一本動かすことすら出来なかった。ただ極度の恐怖と緊張に圧倒され、過呼吸気味に酸素を求めて口をぱくぱくさせるのみだった。


「あぁ……痛い。痛くて、寒くて堪らない。けど貴方は、貴方からは……」


 銀鈴の如き声音が鼓膜を揺さぶる。

 凍り付いた彼を視界に映した少女の右顔は、片方が欠けた双眼を細めて口を開く。

 同時に彼女の左顔がぎこちなく歪み、いまだ縫合している無数の繊維が激しくひしめき合う。


 逃げなければ。逃げなくてはならない。逃げねば、逃げたい。


(ああクソッタレ、動け!頼むから動いてくれ僕の足!)


 五感が警告を泣き叫ぶも、震える両足から力が抜け、抜けた腰は一向に地面と離れようとしない。

 肺が胸壁にへばりついたかの如く息苦しい。喉はカラカラになり、たかぶる神経のあまり眩暈までしてきた。酸欠の脳内では目まぐるしく思考が回転し、視線は少女の口元に釘付けのままだ。


 短時間で怒涛の如く押し寄せる非日常の出来事。その有り余る情報量に耐えかねた彼の心は、ついに限界を迎え、


「貴方からは、とても懐かしい雰囲気を感じる」


 そう言って少女が小さく微笑むと同時に、


「――きゅう」


 とわずかに呻いて、ダレンはそのまま固い地面にぶっ倒れたのだった。

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