巫女乃禄 (4)
巫女は駆ける。
ビルの屋上から屋上へ恐れも迷いも無く。
狙うは平和を脅かす悪妖衣蛸。
地上は不快な色の霧に包まれている。
地面も見えないほどに満たされ一度入れば視界は塞がれるだろう。
『数十m先…もうすぐです!』
式神から扇木の声が響き娘伯は空から真下を見下ろす。
紅い瞳が霧の中から微かに煌めいている。
「…!」
躊躇いを捨て毒霧の中へ飛び降りた。
頭上から一閃で仕留めるつもりだ。
「そこか!」
衣蛸は娘伯の動きを察知して蛸足を伸ばす。
空中で軌道を変えられない娘伯はあっさり捕まり地面に叩きつけられてしまった。
「……」
起き上がる事は出来るがそれ以上の身動きは取れない。
霧の中から衣蛸は余裕の笑みを浮かべる。
「飛んで火に入る夏の虫と言った所かしら…黒巫女」
「私はもう…黒巫女じゃない」
娘伯が力を込めれば四肢に絡む蛸足は拘束を強める。
「お前さえ居なければ…私と道我は幸せでいられたのに!」
衣蛸は娘伯への嫉妬を露わにし歯軋りする。
その感情は娘伯にとって理解し難いものだ。
「なら地下でひっそりと暮らせば良かった…人に害を生さなければ妖滅連合は貴女も道我も許した筈…」
「今更!人間に平伏し媚びろなんて…"人でなし"に言われたくないわ!」
残った蛸足を鋭く伸ばし娘伯の胴へ突き刺す。
痛みを感じない今の娘伯には何の意味も無い攻撃に思われた。
「ぅ…ぐっ!?」
貫かれた箇所が再生すると同時に心臓を握られるような苦しみを感じた。
「この毒はお前を殺せるように研究した私の最高傑作よ…不死の身体がどこまで保つかしら?」
死んだような身体に初めて生存本能が生まれる娘伯。
心の片隅に避けていた生への願望が彼女の口角を上げさせた。
「良かった…私はまだ…生きている」
「戯言を…!?」
拘束している娘伯の四肢がめきりと音を立て軋み出す。
力を込め娘伯は自分から四肢を引き裂き蛸足から脱出したのだ。
手放した小刀と共に身体が地へ落ち行く。
再生が間に合うと膝をつきながらも着地し、
同時に小刀を握りしめる。
四肢から毒が回り僅かに動きを鈍らせるが歯を食いしばり一歩踏み出す。
そこから一瞬で衣蛸の間合いへ迫った。
「何故笑みを浮かべられるの!そんな状態で!」
小刀と蛸足がほぼ同時に振り下ろされる。
先に攻撃が届いたのは娘伯の小刀だ。
一本が斬り落とされる断面から毒霧が発生する。
娘伯が怯んだ隙に残る蛸足を尖らせる衣蛸。
「去ね!」
胴を貫かれ娘伯は地に膝をつける。
苦悶に満ちた表情でも彼女はまた立ち上がる。
「青井と約束した…必ず生きて帰るって…」
「死人が約束だなんて口走るな!」
「……確かに今の私はもう人間じゃない」
刺さる蛸足を斬り落とし勝負を賭ける。
「でも……宿っている心は…人間!」
韋駄天が限界を突破し衣蛸の間合いへ瞬時に迫る。
衣蛸は大きく飛び退き全ての蛸足を放つ。
「私は人間の為にこの力を使う!」
不死の力を利用し人体の損傷を無視したまさに光速の連続斬り。
蛸足を細切れにし衣蛸から攻撃の手段を奪う。
充満した毒霧が娘伯の動きを止める。
四肢だけでなく胴や頭、神経の全てが危険を発している。
「所詮は無駄な足掻き…苦しみに抱かれて…」
再生は追いつかず衣蛸はその場に倒れるが死を迎えてはいない。
「私は言った…必ず生きて帰るって…」
血の涙を垂らし視界は殆ど塞がっている。
それでも妖気を辿りゆっくりと着実に衣蛸のいる方へ歩む。
手足の肌がただれ不死の力が機能しなくなっている。
「あぁ…道我…必ず向こうで逢いましょう…」
千切れた腕を広げ衣蛸は死を悟る。
「祓い給え…清め…給え…!」
最後の力で小刀を振り下ろす。
両断された衣蛸は笑みと涙を浮かべながら灰へ消えた。
毒霧も徐々に薄れる。
しかし娘伯の身体は手遅れとばかりに崩れだす。
僅かな時間で足先から黒いモヤが包まれる。
「……約束守れそうにない」
支えを失くした上半身が地へ落ちる。
脳裏に浮かんだのは元斎の姿。
「伯父……」
黒いモヤが全身を覆うと、
娘伯の意識はゆっくり闇の中へ溶けていった……。




